《最初から決まってた》
外は多少弱まる気配が出て来たけれど、まだまだ日差しも強い。
それから逃れるように、彼とリビングで冷たい飲み物で一息ついていた。
そんな時、私はふと「しりとりしません?」と言ってみた。
何となく、してみたくなったから。
彼はほんの一瞬、きょとんとしたように私の顔を見ていたけれど、「いいですよ。」とにこやかに受けてくれた。
始まったしりとりは、結構順調に進んだ。
我ながら、なかなかいい勝負が出来てると思う。
彼も初めのにこやかな表情を崩すことなく、自分の番が来ると間を置かず淡々と単語を口にしていく。
やっぱり、頭いいんだよね。
そして、15分ほど経った今。
次は、彼の番。
ストレートのアイスティーを一口飲んだ彼は、スッと言葉を上げていく。
「単刀直入」
うん、行ける。
私もアイスミルクティーを飲んで、答える。
「腕っぷし」
彼は更にテンポを上げるように、答えを紡ぎ始めた。
それには全く淀みがない。
「四方八方」
ま、まだまだこのくらいなら。
少し答えを浮かべるの遅くなってるけど、大丈夫。
「う…丑三つ刻!」
「危言危行」
え? また『う』?
「うぅ…うしかい座…」
「残酷非道」
「………ぅ」
う…うー!
気が付けば、彼の口から出る言葉は『う』で終わる物ばかり。
あれ? もしかして手っ取り早く潰しに掛かられてる?
脳をフル回転させて『う』から始まる単語を探そうにも、もう他は出し尽くして品切れ状態。
沸騰しそうな頭から残りの言葉が転がり出て来ないかなとぶんぶんと頭を振っても、何も出てくるはずもなく。
考えすぎて眉間に寄せた皺が取れないままちらりと彼の顔に目を向ければ、一見すると平静な余裕の表情。
でも、違う!平静じゃない!
余裕の微笑みに見えるけど、奥歯で笑いを噛み殺してる!
く、悔しい。悔しすぎる。
でも、その普段とは微かに違う表情を捉えられたことが嬉しくて。それも、悔しい。
まあ、これも当然。
そもそも彼は、代々皇帝に仕えてきた一族の人。その教育水準はもちろんかなりの物。
そして彼自身の真面目で努力家なところが、そのレベルを更に引き上げている。
最初から、勝負は決まっていた。
私、何でしりとりしたいとか言い出したんだろう…。
テーブルに置いたアイスティーも、かなりの汗をかいている。
私はほんの少しだけ眉間の皺を取り、小さく溜め息を吐いて両手を上げた。
「降参です。」
彼は、表情を変えることなく勝負の終わりを告げた。
「いい勝負でしたね。お疲れさまでした。貴女の集中力も切れ始めたみたいなので、ちょうど頃合いでしょう。」
そこまで見抜かれてた。だから、最後の『う』止まり攻撃だったのか。もう、ホント悔しい。
そして。…まだ我慢してる。
私は半分目を座らせて、今だ笑いを噛み殺してるような彼に言った。
「…いっそ笑ってください。我慢してるの分かってますから。」
しりとりの負けどころか、もう何度も貴方に負けている。
その悔しさからちょっとだけ拗ねた口調になってしまった。
すると、彼の余裕の表情は崩れ、眉尻が困ったように垂れ下がり、細めた目元はふわりと柔らかくなった。
そしてついと視線を私から逸らせ、緩めた頬を赤らめた。
その照れたような表情に私の視線は捕らえられ、胸が締め付けられる。
「えっと、すみません。悪気はないのですが、その、」
逸らせていた彼の視線が、一瞬だけ私へ向いた。
「一生懸命悩んで考えている表情が微笑ましくて、顔が緩みそうになるのを抑えていました…」
最後の方は尻すぼみになった、彼の声。
貴女は真剣だったので、悪いとは思いつつも意地の悪い言葉選びをしてしまいました、と囁くような言葉。
そんな事、思っててくれてたの?
あの我慢には、そんな意味があったの?
貴方の笑みに、言葉に、私は完全に不意を突かれた。
顔中が、熱い。夏の熱気なんて、目じゃないくらい。
絶対、今の私、顔が真っ赤だ。
グラスの中のアイスティーの氷が半分溶けて、カランと涼やかな音を立てた。
それに。意地の悪い、なんて言ってるけど。
気が付けば、あの連続攻撃の時、彼は自分に四字熟語縛りを課していた。
真剣に手を抜くことなく、それでも私とのハンディキャップを上手に埋めてくれていた。
もう、全部。何もかも勝てない。
多分、いつになっても。いつまでも。
「勘弁してください…本当に負けましたから…。」
彼の顔を直視できなくなった私は、赤くなった顔を見られないように両手で自分の顔を包み込み、俯きながら呟いた。
《太陽》
ある晴れた夏の日の事。
「暑い…暑過ぎるのよ…」
彼女が、溶けていた。
確かに、今日は暑さが殊更厳しい。空調を動かしていても効き目が薄い。
その熱は、黄金色の金属で出来ている帝都の空気を焼け付くような暑さに変えていた。
彼女はレースのカーテン越しに窓から差してくる太陽の光を恨みがましい目で見ながら、呟いていた。
「燃やすのは心だけでいいのに…何故にそこまで燃える…」
「大げさ…とも言い切れませんね…。」
僕もそれに合わせて、読んでいる本から窓へと視線を変えた。
彼女の言葉通り、窓の外には燃え盛る太陽が自らの存在を主張するかのように頭上に昇り詰めている。
その強い主張は、レースのカーテンなどでは到底止める事など出来はしない。
身体に滲む汗も、熱発散の働きよりもむしろ暑さを助長するように感じられる。
「太陽が私を殺しに来てる…お前に私の生殺与奪の権利は渡さないぞ太陽…」
彼女の発言内容が不穏になってきている。これは、限界が近そうだ。
ならば、と僕は読んでいる本を閉じて彼女に提案してみた。
「では、気分転換にかき氷でも食べに行きますか?」
すると、生気を失っていた彼女の目に途端に光が蘇った。
「行く! 行きます!!」
先程までの溶け具合から一転、音がするかのようにシャキッと立ち上がると、
「早速準備してきますね!」
と言い残し、大層晴れやかな顔でリビングを出ていった。
僕はと言えばそんな彼女の様子が楽しくて、面白くて、ついくつくつと笑っていた。
暑過ぎる太陽が、こんな幸せを運んでくるとは。
僕はその喜びを噛み締めながら、身支度のためにと自室に向かった。
《鐘の音》
鎮魂の鐘は、去り行く魂への永遠の別れと生者の悲しみの昇華のため。
祝福の鐘は、これから永遠の道のりを共に歩む二人の喜びのため。
時の鐘は、永遠に続く時間に区切りを付けて良き一年、良き一日をを過ごすため。
全ての鐘は、心を新たに切り替える音を地上に響き渡らせる。
まもなく太陽が高みまで上り詰めようかという時刻に、私は半分寝てるような意識の中ベッドで体勢を仰向けに直した。
そのまま天井へ向かってまっすぐ両腕を伸ばして手を組んで、身体を伸ばして左右に曲げる。パキッ、ポキッ。これは凝ってるなぁ。
それもそうか、熱を出した彼の看病していた時にずっと彼のベッド横で座って見てたんだもんね。
…ん? そういえば、何で自分のベッドで寝てたんだろう?
よく考えてみれば、自分の部屋に戻った記憶がそもそもない。
軽い上半身ストレッチで覚めてきた頭の中で、何とか記憶を反芻してみる。
記憶がはっきりしてるところ。…今思い出しても嬉しさで心臓が破裂しそうになる。
高熱に浮かされた彼が私の手を取って、『傍にいて』と言ってくれた。
その後、彼がそのまま眠った後に手を離そうとしたけれど、なかなか離れない。ギュッと力を入れ直される。
これは起こさないようにする方がよさそうだな、と握られた手はそのままにベッド脇の床に腰を降ろした。
私は、彼に自分の存在を求められるような言葉が聞けた喜びに浮かれていた。
熱で大変な彼には本当に申し訳ないけど、何だか甘えられてるようで、可愛いな。
なんて、握られた手と一緒にベッドに頬を付けていたところまでははっきりと覚えてる。
その後の記憶が朧気だけど。
何とか記憶を掘り出してみる。
過った記憶は、明け切らぬほんのりとした日差しの中。廊下、だと思う。ほんの少しの間の…夢?
身体に軽く伝わる振動。シャツの下から伝わる熱くはない、暖かく逞しい腕と胸板。
少し下から見上げるような角度で見える、彼の顔。その向こうで、動いていく天井や壁。
あ、あれ? これ、私抱き上げて運ばれてる? 夢じゃなくて?
病み上がりの彼に何させてるの、私? というか彼はちゃんと病み上がったの? 大丈夫なの?
自分の記憶の衝撃に軽い混乱を来した脳の中、間もなくまた次の記憶が蘇る。
明け方に夢を見たのを覚えてる。
私の混乱のせいで彼に謝らせた事が申し訳なくて。
それでも傍にいたいと言ってくれた事が嬉しくて。
私にとって貴方との日常は、手放したくない大事なものだから。
ごめんなさい。私の方こそ、傍にいさせてほしい。
そう祈り、誓う夢を。
…思い出した。私、一度ぼんやりだけど目を覚ましてる。
私はギュッと両手でタオルケットを握りしめる。
ベッドの中で、私は半覚醒状態だった。
その脇から顔を覗き込ませていた彼は、私のこめかみ辺りを髪を梳くように撫でていて。
彼の手付きは、恭しく柔らかで。
彼の笑顔は、上等のシロップが朝日に煌めいてるようで。
そうして確か彼は、私にこう言っていた。
『本当にありがとう。貴女の心の内が聞けて、最高の気分です。』
私は掘り出した記憶のあまりの大きさに、ガバっと起き上がる。
信じ難い情報でパンクしそうな脳を抑え込むように、胸にタオルケットを掻き抱く。
彼の手と笑顔の優しさ、甘さ、柔らかさ。泣きたくなるような幸福感。
それに心から喜び酔いしれる一方で、もう片方がフル回転で情報を整理している。
…あの時は、頭が働いていなかった。
何せ、その後彼に『まだ眠いでしょう。僕はもう回復したから、貴女もゆっくり休んで下さい。』と言われ、何も考えられずに眠りに付いたくらいだから。
寝室に運んでくれた彼のおかげで、徹夜から看病のコンボでもこうしてすっきり目覚められているけれど、これは…まさかの展開過ぎて。
そして、彼の言葉の意味について考える。
貴女の心の内、とは…? 誓いの言葉は、本当に夢の中だけの物…?
あり得ない、とは言い切れない可能性に至りそうになった心は、キュッと引き締まる。
その直後、寝室のドアがコンコンと鳴る。
返事をすると、廊下から彼の声が。
「よかった、起きていますか。よければ軽く食事でもどうですか?」
声から察するに非常に上機嫌で、昨日の発熱の気配は全く感じられない。
ひとまず無事に熱が治まってホッとすると同時に、その快い声に擽られた耳は、胸の鼓動を否が応にも速くする。
着替えたら行くと伝えれば、遠くから鳴り響く、正午を告げる鐘の音。
私は、いつもどおりの私でいられるのかな。
昨夜までの自分の弱さと混乱。
熱に浮かされた彼の言葉。
今朝の夢の祈りの行方。
胸に残る、最高の気分という彼の言葉。
この濃密な数日間の全てを吸い込むように、深呼吸する。
これらは全て、私のものだ。大丈夫。信じて、いこう。
いつもどおりの日常。それでも私の中で以前からもあった誓いは、より強いものに変わった。
鳴り終えた鐘の音が、微かに耳に広がる。
それがどんな道でも構わない。気持ちも新たに切り替えて、また彼の隣を歩いていこう。
《つまらないことでも》
彼が熱を出して倒れた。
その前の日、私は自分のつまらない混乱で彼を困らせてしまった。
私を大切にしたいなんて、言われると思わなかったから。
今まで礼儀正しく扱ってくれたのだって、真面目な彼の義務感からだと思っていたから。
だから、素直に受け取れなかった。
そのせいで、彼に謝らせてしまった。
混乱から一晩泣き明かしていた私を待ち続けたせいで、彼に負担を掛けてしまった。
熱に浮かされながらも、彼は看病をしている私に謝っていた。
ごめんなさい、と。
看病するのなんて、当たり前なのに。
謝らないといけないのは、私の方なのに。
その上、置いて行かないで、と私の手を取って言った。
傍にいて。そう言ってくれた。
そんなの、答えは決まってる。
毎朝のおはよう、毎晩のおやすみ。
同じ食卓に着いて、同じご飯を食べる。
毎日一緒に歩きながら、何てことのないおしゃべりをする。
読んだ本の感想を言い合ったり、時にはどこかでお茶を飲んだり。
他の人達には何気ないことかもしれない。つまらない日常かもしれない。
それでもあなたと送る日常は、私にとっては何物にも代えがたい大切なものだから。
私の方こそ、困らせてごめんなさい。
謝らせてごめんなさい。
私の方こそ、あなたの傍にいさせてほしい。
あなたが望んでくれるなら、一千年の時を超えても。
私はずっと、あなたのことが…。
==========
鳥の声が聞こえる。
ぼんやりした意識の中、瞼の上から朝日が差し込むのを感じる。
耳の上側に雫が降りて、自分が仰向けに眠りながら涙を流しているのに気付いた。
いつの間に私はベッドに戻っていたんだろう。
彼の熱は引いたのかな。大丈夫かな。
すると、その涙の雫を拭うようにするりと眦に誰かの指が触れる。
そしてそのまま、髪を梳くように頭を撫でられる。
その手付きは、凄く優しくて心地好くて。
それがとても嬉しくて目を細めると、瞼に残っていた涙がまた一粒零れた。
うまく目覚めない意識の中ゆるりと頭を横に向け目を開くと、そこにはすっかり熱が引いたのか顔色も良くなっている彼が、心底嬉しそうな表情で微笑んでいた。
《目が覚めるまでに》
僕は、夢を見ていた。
どこまでも暗い闇の中、僕は当て所もなく彷徨っていた。
ここは暗い。何も見えない。寒い。苦しい。誰もいない。
寂しい。ただひたすら、寂しい。
どうしようもない孤独感に苛まれながらせめて明かりはないものかと歩き続けていると、周囲は徐々に赤い光に包まれ、同時に燃えるように暑くなっていった。
もはや熱いと言っても過言ではない中、それでも歩を進めていると、遠くに彼女が現れた。
僕は彼女に出会えた喜びから、一目散に彼女に駆け寄った。
彼女の白に近い銀の髪が周囲の光に照らされて、赤く輝いている。
腫れて赤くなっている目元。ずっと泣いていたのだろう。
僕が、泣かせてしまった。
想いはどうあれ、勢いに任せてしまった言葉で。
それなのに僕と目が合った彼女は、気丈にもふわりと微笑み、小さな白い手で僕の頬にそっと触れてくれた。
その掌は微かにひんやりとして、空気の熱さを和らげてくれるような優しさで。
微笑みは、陽炎のように儚げで。
怖くなった。
このまま、貴女が消えてしまうのではないかと。いなくなってしまうのではないかと。
僕は咄嗟に、頬に触れている彼女の手に自分の手を重ねるように置き、そっと力を込めた。
そして、泣き腫らした目を見つめて懇願した。
「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」
分かっている。これは、僕の我儘だ。
貴女が闇に魅入られし者だと疑いを掛けたのは、僕なのに。
その監視の為に隣にいる事を強制し、今もそれを解かずにいる。
嫌われて当然だ。疎まれて当たり前だ。
なのに、貴女はいつも隣で笑ってくれていた。心の底から嬉しそうに。
そして時には突拍子も無い行動で僕を驚かせ、笑顔にさせてくれた。
気が付けば、離れたくないと駄々を捏ねている子供のような行動だ。
それでも貴女に離れてほしくないと、その優しさに縋った。
すると、透き通るような明瞭な声が僕の耳に届いた。
「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」
全てを包み込むような、柔らかい笑顔。
そこに嘘は無いと確信出来る、真っ直ぐな眼差し。
ああ。この人は、本心から言ってくれている。
喜びが心に染み渡り、全身を巡るようだ。
それは、澄み切った清らかな水が喉を通ったかと錯覚させる程に。
僕は心を支配していた不安から解放され、彼女の心に包まれた安堵感の中で幸せに微笑んだ。
熱かった空気も清められたかのように程良く冷めていき、辺りは赤から柔らかなランプの光へと色を変えた。
ぼんやりと未だ覚醒せぬ意識の中、頬に触れている小さな手の感触に思う。
僕を守ってくれて、ありがとう。
目が覚めるまでに、貴女を守れるように必ず心を構えておきますから。