猫宮さと

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8/3/2024, 3:42:48 AM

《病室》

昨日夕方、彼に私を大切にしたいと言われた。
私はその言葉への心からの歓喜と、今自分が闇の者として疑われている状況から誤解ではないかと湧き出る不安でぐちゃぐちゃになって、彼の前から逃げ出して部屋で一晩泣き明かしていた。

それでも涙を流しきって、心の澱も全てとは言えないけれど流れ去った。
気が付けばカーテンからは夜明けの光が差し込み、小鳥達の声が聞こえてきた。
大丈夫。昨日何も言わずに走り去った無礼を謝って。またいつものように彼と毎日を過ごそう。

まずは腫れた目を冷やしがてら顔を洗おうかと廊下を歩いていると、バン!と凄い勢いで彼の部屋の扉が開いた。
驚いて立ち止まると、その勢いのままに彼がよろめきながら部屋から出てきた。
私は腫れた目を見られないように両手で目元を隠しながら彼を見た。
眉間に寄りながらも下っている細い眉。その下の目は見開かれ、目尻と頬は赤く染まっている。

さあ、言おう。
おはようございます。昨日は突然走り去ってしまって本当にごめんなさい。と。
そう口を開こうとした時。

身体のバランスを崩しながら彼が私の両肩に手を置き、俯きながら呟いた。

「よかった…。」

私はまた、目に涙が溜まるのを感じた。
不安にさせちゃったのかな。もしかして、心配してくれたのかな。
両肩から彼の熱が伝わる。

ん?

ふとそこで、まさかと思った刹那。
彼が私に覆いかぶさるように上半身を傾けた。

「っ…わ!」

よろけながらも何とか自分の背中を壁へ付けるように持っていき、彼の身体を支える。
その身体に触れて、まさかが確信になった。

「ちょっと! 凄い熱じゃない!」

こんな体調でずっと私が部屋から出てくるのを待っていたの?
どうしてこんな無理をするの?

心配から語気が荒くなった私の顔を見て力なく微笑んだ彼を、私は何とか支えつつ彼の部屋に誘導した。

==========

寝室に寝かせた彼をお医者様に診ていただいたところ、熱は高いが汗は出ているし他に異常はないので、しばらく寝ていれば治まるそうで。
ひとまずホッとした私は、看病のために今は病室となっている彼の部屋で過ごしていた。
額の濡れタオルが温くなったら取り替え、せめて首元だけでもと汗を拭う。
手が空くと昨日の事が頭を掠めるけれど、彼の体調を考えるととてもそれどころではない。

そうして夜も近くなった頃。

「…ここは…?」

小さく掠れた声が耳に届いた。どうやら彼が目覚めたみたい。

「あなたの寝室です。今朝、熱を出して倒れたんですよ。」

彼の目が覚めた事に安堵して、答える。
替えの濡れタオルと水差しを手にしながら枕元に置いた椅子に座り、彼の顔を見る。
その目は完全には開いてなくて、まだぼんやりとした様子。

「そうか…ごめんなさい…。」

小さく謝る彼。悪いのは、私なのに。
今日、私が通りかかると同時に飛び出してきた彼。
昨日急に泣き出し走り去った私を、彼はずっと待っていてくれたのかも。
そんな負担を掛けたのは私なのに、謝ってくれる。
だから、もう負担にならないように努めて明るい声で私は言った。

「謝らないでください。それよりゆっくり眠って、早く良くなってくださいね。」

起きているうちにと水差しから水を飲ませ、額の濡れタオルを替える。
顔の赤みは、今朝に比べれば少し引いてきてる。

「すみません、熱を診ますね。」

それでも一応と、体温を大まかに知るために彼の首元に手のひらを当てる。
よかった。少しだけど熱は引いてる。

すると彼が寝返りを打ち身体をこちらに向け、首元の私の手のひらをそっと自分の手で包み込み、彼の頬に誘導した。
ぱさりと落ちる、彼の額の濡れタオル。
その突然の事に、私の胸が煩く鳴り響く。その鼓動が、胸から全身へ熱を伝える。彼の熱の高さが分からなくなるくらいに。

そうして、彼は呟いた。

「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」

私を見つめる彼の目は、熱に浮かされているからかとろんとしている。にも関わらず、視線には揺るぎのない力があって。
重ねられた手は私の手のひらを離すまいと、優しくも固く力が入っている。

そうだった。
彼は三年前、家族皆を失った。
自分を疎んでいた兄姉も、反乱分子と見做された彼を帝国に引き渡せなかったからと処刑され。
乳母と立場を偽って彼を傍で守ってくれていた実のお母様も、その兄姉に殺された。

そうだね。あの時、誓ったはずだ。
彼の傍にいられるなら、何でもいい。殺されても構わない。
例え失った家族の穴埋めだとしても。
それを思えば、その苦しみの穴埋めなんて容易い。
昨日の言葉に心乱されて、彼に負担を掛けている場合じゃない。

私は彼の頬に当てられた手のひらを更に深く触れ、視線をしっかりと合わせ、できる限りの笑顔で答えた。

「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」

あなたが、それを求める限り。
私は、心の中で新たな誓いを立てた。

すると彼は、心底嬉しそうにふにゃりと力なく微笑んだかと思うと、そのまま眠りに付いた。
その安心しきった彼の寝顔に、私はその笑顔への幸せと自らの決意への覚悟で泣きそうになりながら、空いてる手で彼の額に濡れタオルを当て直した。

8/2/2024, 1:41:33 AM

《明日、もし晴れたら》

彼女を、泣かせてしまった。

「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」

僕は彼女の手を取り、その時の思いを正直に打ち明けた。
衝動的、ではあったと今は自覚している。
らしくもない行動を取ったその時の僕は、全身が熱を帯びたようだった。
頬だけではなく耳まで熱くなり、心臓は早鐘を打っていた。

何故かは、正直分からない。
どうしてそのような心境になったのか。

今までは、闇に魅入られし者として彼女の監視を行っていた。
彼女の他では見られないような髪と瞳の色が、かつて同じように闇の力に触れ色が変化した者に酷似していたからだ。
だから、彼女を帝国に連れて来て、僕の側に置いた。
帝国内なら、彼女が何かを起こしても僕の権限で処理できる。最悪、僕が被害に合えばそこから国内が警戒態勢に入れる。
そう決心していた。

ところが、いざ共に暮らしてみたらどうだ。

帝国の街並みを見て目を輝かせ、港から見える空と海に切なくなるような眼差しを向け、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
何をするにも、日常の食事でさえそれは嬉しそうに微笑んで。
移動の際に共に歩けば、初めの頃こそは少し俯きがちではあったが、今は笑顔で語り、僕の話にもしっかり耳を傾けてくれる。

それは、帝国の復興に全力を傾けて色を失いかけていた僕の日常に、優しい光が降り注ぎ色が蘇ったかのようだった。

彼女は、疑いを掛けられたにも関わらず僕を信頼し、心を許してくれている。
あの月の夜、密かに見た光景がそれを示している。
降り注ぐ月の光の中、彼女は僕に命を預けると呟いた。
これ以上はない、絶大な信頼。そして、曇りなき笑顔。

そんな彼女を、僕は大切にしたくなった。

夕日に染まる彼女の笑顔を見て、その気持ちが抑えきれなくなった。
そして衝動に任せて動いてしまった結果、彼女を泣かせてしまった。

僕は、そのまま走り去る彼女を追う事が出来なかった。

そんな資格があるの?

彼女の声の幻が、頭の中で鳴り響いた。

今まで散々疑ってきたのに?

そうか。僕は、拒絶されるのが怖いのか。
今すぐ傍にある暖かさを目前で失なうのが、怖いのか。
例え何者であっても、彼女にこのまま傍にいてほしいのか。

僕は、彼女の手を取っていた自分の掌を見つめて決心した。
何が怖いのか理解出来れば、行動に起こせばいい。

まずは自宅に帰ろう。
彼女が戻っているならば、涙が止まるまでいつまでも待ち続けよう。
彼女に拒絶の意思がなければ。いや、その意思があったとしても。
ひたすら彼女を大切にしよう。僕の心を、行動で示そう。

もし明日、彼女の涙が晴れたなら。
まずはいつもよりもほんの少し特別な食卓を、貴女と一緒に囲みたい。
貴女の負担にならないように、僕は貴女を大切にしたい。

7/31/2024, 10:12:50 PM

《だから、一人でいたい。》
私の隣を歩く彼が不意に立ち止まったかと思うと、私の手を掴み取って囁いた。

「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」

赤い夕焼けの光に照らされたその顔は真剣で、その燃えるような瞳は揺らぐ事なく私を見つめていた。

大切に…私を?

その言葉は、私にとってあまりにも大き過ぎた。
もちろん、嬉しい。
けれど、それ以上にこんな言葉を受け取っていいのか。
地面に足が着いている感覚がない。視界が歪む。

その衝撃に声も出せずに立ち竦んでいると、私の手を掴んでいた彼がハッと表情を曇らせその力を抜いた。

「…申し訳ありません…。」

咄嗟に目尻に手をあてて気が付いた。視界の歪みは、自分の涙が原因だった。
瞬間、溢れる涙のように自分の感情が決壊した。
喜び、悲しみ、疑問、嬉しさ、苦悩。
謝らせてしまった申し訳なさ。

それでも私は声が出せず、めちゃくちゃになった感情に背中を押されるままその場を走り去った。

全速力で走り続け息も絶え絶えになった私は、自室に入り、背を向けたままその扉を閉じる。
そして力尽き、ずるずると扉に背を預けへたり込んだ。

彼は追っては来なかった。でも、今はそれでいい。

彼は本来、出会えるはずのない人。
私が偶然、何の因果か分からないけれどこの世界に来れただけ。
しかも、私が闇の者だという彼の疑いは晴れてはいない。にも関わらず、彼は私が人間らしい生活を送れるように気を配ってくれていた。初めから今まで、ずっと。

否が応にも期待してしまう。彼のあの射抜くような眼差しに。
いや、もう何度も射抜かれている。
初めの頃と変わり、最近は何かと笑いかけてくれている。
その笑顔にどれだけ心を射抜かれたか。
一人で動ける時間も増えている。監視なんて名ばかりだと、勘違いしたくなるぐらいに。
ただ一緒に暮らしている。そう思い込みたくなるぐらいに。

だけど、心の一番弱い部分を守ろうとする自分が叫びだす。
本当にそんな期待を抱いてもいいのか?
彼は誰に対しても誠実だ。だから今までも無意識で人間扱いされてきたに過ぎない。
ただ表に出していなかった意思表示をしただけで、どうせこれまでと何ら変わらない。
それが証拠に、あの時彼は手を離したじゃないか。
勘違いするな。お前は、彼に愛されているわけではないのだ。

なぜ。なにを。どうして。いつから。どうやって。

大切にしたい。
彼の言葉に、湧き出てくる感情が選り分けられないくらいにぐちゃぐちゃにかき回される。
涙と一緒に次々溢れ出してくる想いは、暮れ泥む空のように光を影へと塗り替えていく。

この空が明ける時には、必ず笑ってみせるから。
頭の中を選り分けて、整理して、空っぽにして。
「昨日はごめんね。」と、いつも通り過ごせるように戻るから。

だからお願い。
今だけは、一人にさせて。

7/31/2024, 3:07:34 AM

《澄んだ瞳》
僕は多くの人達の中、教会の席に座っている。結婚式に招待されたのだ。
象牙色で統一された礼拝堂の天井には、採光も兼ねた色鮮やかなステンドグラス。
乾燥地帯の多い我が国では特に恵みとされている雨。ステンドグラスの色は、恵みの雨の後に顔を出す太陽からの穏やかな光による虹を象徴している。
荘厳な教会の中は行き過ぎない程度に白い花やリボンが飾られ、静かな中にも明るい空気に包まれていた。

入場した新郎新婦は白地に赤と黒を取り入れた帝国の伝統的な衣装を身にまとい、花婿は太陽を表す金のカフスやタイピンを着け、花嫁は同じく頭上に金のティアラを戴いていた。

儀式も半ばを過ぎ。
壇上で生涯の固い誓いを立てた花嫁と花婿は、向かい合い相手をじっと見つめる。
互いを映すその瞳は、その誓いを表すかのような一点の曇りもない澄んだ眼差し。
花嫁の目から一つ零れた涙は、ステンドグラスを通した色鮮やかな太陽の光を受けて真珠のように輝いた。

そして儀式は終わり、新郎新婦は参列者達から浴びるような祝福の拍手を受けた。
晴れやかな笑顔で祝福を受ける二人の想いは、その瞳と外の青空のように最高に澄み切った物なのだろう。
その美しさに自らの心も澄み渡るようだと、僕も心からの祝福を拍手に乗せた。

いつかきっと、僕もこうして誓いを立てる日が来るのだろう。
それは生涯破られる事の無いよう、強く心に刻んで努めていきたい。

7/29/2024, 10:26:22 PM

《嵐が来ようとも》
それは今季の議題が全て片付き、次の日から休暇が始まろうという時だった。

「いや〜ありがたい。それではお願いするわ〜。」
そう言って自宅を訪れていたかつての上司だったご老人は、僕に両手で抱えられるかどうかという大きさのペットキャリーを手渡してきた。

話を聞くところ、ご自宅の老朽化に伴って修理をする必要が出たらしいが、その間は業者の出入りと水回りが完全に止まるので近場の宿に泊まる事にしたそうで。
しかし、宿にはペットを連れては行けない。そこでかつての部下であり、帝都に自宅を持つ僕に白羽の矢が立ったというわけだ。

「ご安心下さい。責任を持って預からせていただきます。」

そう言って僕はキャリーを受け取った。
この方には、軍で苦しい時に本当にお世話になった。これで恩返しになるとは思わないが、少しでも助けになるなら何でもない事だ。

「この中にトイレとご飯が入ってるよ〜。ちょっと元気が過ぎる事もあるが、可愛い猫だ〜。よろしく頼むよ〜。」

ご老人は足元のトランクを指し、皺の中の目を細めていた。
泰然自若としたそのご様子は、いつまでもお変わりがない。お元気そうで何よりだ。

そして、ご老人はその足でお帰りになられた。

さて、猫どころかペットを飼った経験がないが、まずはキャリーを開けても大丈夫な場所へ移動しよう。
しかし、静かなものだ。鳴き声一つ立てないとは。
僕はキャリーを持ち上げ、奥の部屋へと移動した。

奥の部屋へ行く廊下には、彼女が待っていた。

「お客様でしたか? 何かすることはありますか?」
と、彼女は僕が持っているキャリーを見て、目を輝かせた。

「あれ? もしかして中に動物が入ってますか?」

心做しか声が上ずっている。よかった。動物好きのようだ。

「ええ。以前僕の上司だった方から猫をお預かりしたのですよ。」

「猫! 猫ちゃんですか!? 見たい、見たいです!!」

答えると、彼女はますます目を輝かせ前のめりになった。頬も上気している。
…よほど好きなのだろう。何と言うかその様子からは、何か迫力のようなものも感じる。

「では、あちらの部屋に入ってからキャリーを開けましょう。」

そうして奥の空き部屋に入り、そっと猫の入ったキャリーを下ろす。
移動の間も今も、彼女からは「猫♪ 猫♪ 猫ちゃん♪」と明るくリズミカルな呟きが聞こえてくる。
そしてその呟きは、部屋の隅から隅へ素早く移動をした。窓がきちんと閉じられているか確認してくれたようだ。
かなり手慣れている様子がありがたくもあり、早く猫と触れ合いたいのだという微笑ましさにも溢れていた。

「それでは開けますよ。」

戸締まりが確認されたところで、そっとキャリーの扉を開けた。

すると開けた矢先に、モノクロの塊が扉の隙間を縫うように物凄い勢いで飛び出し、カーテンの影へと入り込んだ。
危ないところだった。彼女が戸締まりの確認をしてくれていなかったら、逃げられていた可能性もあった。
しかし、目にも止まらぬとはこの事。残像しか姿を見せてくれていない猫は、カーテンの影からしばらく出て来ようとはしなかった。

我慢が出来なくなったのか、彼女がそっとカーテンに近寄り、手を差し出した。
すると「シャーーー!!」という威嚇音と共に、布の影から猫が彼女の手に高速でパンチを繰り出してきた。

「あっ!」

僕は思わず声を上げた。
手に爪が刺さったのでは? 大丈夫だろうか?

心配になって側に行き彼女の手元を見ると、指先にぷっくりと血の玉が出ている。
しまった、先程彼女を止めておくべきだった。
その傷口を見て後悔していると、くるりと振り向き、彼女は声を潜めて言った。

「か…可愛いーー!! 見ましたか、今の手? 肉球ふにっふにでしたよ!」

…引っかかれた事は全く意にも介していないようだ。それどころか、己の手を傷付けた爪を気にせず、その手に触れた肉球に甚く感動している。
潜めた声はしかし、かなりの興奮を伴っていて、これ以上はないほど上ずっている。

まあ彼女がいいなら問題ないが。これは心の底から猫が好きなんだな。
ここまで来ると感心を通り越して畏怖の念にもなる。
何と言うか…原理主義、という言葉がしっくり来た。

が、それでも傷口は何とかしたほうがいいと手を出そうとしたところ、カーテンの影からまたモノクロの塊が高速で飛び出してきた。
その影は一瞬で棚の上の物を薙ぎ払い、戸棚に飛び乗ろうとして失敗し、着地した勢いでカーテンによじ登ろうとしたところで爪が引っかかったのか、そのレール近くの上の方で動きを止めてぶら下がっていた。

そこで初めて、その猫をじっくり見る事が出来た。
体毛は、白黒のぶち模様。少し太め…ぽっちゃりとした目付きの鋭い顔の猫だった。
その猫は無防備な体勢にも関わらず、完全に僕らを敵視している様子でじとりと上からこちらを睨み付けていた。

「ありゃー、引っかかっちゃたのね。今取ってあげますからねー♪」

そんな猫の視線などお構いなしに、カーテンに近寄っていく彼女。
いや、また引っかかれたらどうするのか!

「待ってください! 危ないですから、僕が降ろします!」

そう言って彼女を止め、僕はカーテンへ素早く向かっていった。
背後からは「大丈夫ですか?」と言われるが、それは僕の台詞ですから!
先程引っかかれた貴女の台詞じゃありませんから!

「いいですから、貴女は今のうちに傷口を洗ってきてください!」

そう指示すると、今になって初めて傷口に気が付いたかのように指先を見つめ、

「あ、そうでした。じゃあ、よろしくお願いしますね。」

そう言って、彼女は部屋を出て、手早く扉を閉めた。

その後、僕はカーテンへ向き直り、爪を引っ掛けて往生している猫と格闘を始めた。

その数分後。
ノック音がしたので返事をすると、彼女が足元から視線を移動させながら素早く部屋に入ってきた。

「ただいま戻りました。猫ちゃんどうですか?」

その手には、救急箱と水の入った手洗い用のボウル。
全く、手際が良い事この上ない。

「…何とか降ろせました…。」

僕は遠い目になりながら、彼女に返事をした。
窓際には、破れ目が付いたカーテン。舞い散る白黒の毛。僕の腕には、大量の引っかき傷。

カーテンから降りたくとも降りれず、かと言って見知らぬ人間には触られたくない猫は、そこから降ろそうと手を伸ばした僕を相手に爪が引っかかった状態で力の限りで抵抗をした。その結果が、この惨憺たる状況だ。
その格闘の相手は、今はソファーのクッションに陣取ってフーフーと鼻息を荒くしている。
泰然自若とした上司の様子が頭を過る。元気過ぎるとは仰っていたが、これは…。

まるで、嵐が来たかのようだ。

「うわ、傷だらけじゃないですか! だから大丈夫かって聞いたのに!」

持ってきてよかった、と彼女はボウルに入った水ですぐに僕の腕の引っかき傷を洗い始めてくれた。

「私、猫の引っかきには慣れてるから平気ですからね?」
そう言う彼女の腕には、引っかき傷どころか少しの傷跡も、シミすらない。
それでも、その動きには確かに猫に慣れて行動を把握している熟れたものが伺える。

その理由が何故かは謎のまま、優しく傷の手当をしながらも荒れた猫へ穏やかな顔を向け「怖くないですよ〜」と声を掛ける彼女を見ていると、この嵐も笑ったままで抱き止めてしまうのだろうなと心底尊敬した。

本当に僕はずっと、彼女には勝てそうにない。


この数日後、この猫は彼女には完全に心を開き、そのお腹に抱えられるように一緒に眠っているのを見てしまった。
何か、色々釈然としない。

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