《お祭り》
夏も盛りのある日の事。
僕は魔術と学問の国を治める導師から、ある祭に参加しないかと招待を受けていた。
ただ、闇に魅入られし者として僕が監視をしている少女も名指しで招待をされていた。
本来ならば同席出来る立場ではないために何故招待されたのか、彼女と二人で首を捻りながらも話を受けて、応じる事にした。
「ようこそ我が国へおいでくださいました。」
宮殿で導師が歓迎をしてくれたので、彼女と揃って礼をする。
導師は見た目は僕よりも若く、三年前と全くお変わりない。
噂では数十年とそのお姿が変わられていないとも言うが、どこまで真実なのかは知る由もない。
ただ、全てを見通す力があると言われ、その能力に幾度も国が救われてきたそうだ。
その導師が、僕の隣の彼女をじっと見つめている。
妨げるもの全てを許さないようなその眼差しは、その後すっと緩み、細められた。
「お二人に来ていただいたのは他でもありません。国同士の交流の一環として、我が国の祭を楽しんでいただそうかと思いまして。」
そう発言された直後、脇の従者が素早く前に出て、僕達に仮面を一つずつ手渡してきた。
「若者がその祭に参加する際は、民族衣装を纏いこの仮面を着けるのが為来りなのです。」
仮面は顔の右が白、左が黒で塗られていて、男女の区別はあるが被れば顔の見分けが全く付かないような物だ。
そしてそれはこの国にあるジャングルにのみ生える木で作られ、独特の意匠が施されている。
祭の内容は、かつて手紙でのみ心を通い合わせていた男女が偶然人混みで出会った際、お互いを会話のみで見つけ合いやがては結ばれたという伝説になぞらえているのだそう。
これに参加出来るのは若い男女に限られ、顔が分からぬように仮面を被り民族衣装に身を包み、その状態で会話から相手の名前を当てる事が出来れば願いを一つだけ叶えてもらえると説明された。
なるほど、伝説を利用した男女の出会いの場の提供というわけか。
方向性としては気が進まないが、他国の文化を学び国同士の交流を深めるには良い機会だ。
彼女の招待は、女性側に知った顔があれば気を張り過ぎずにすむだろうという導師の計らいだろう。
「ありがとうございます。喜んで参加させていただきます。」
僕は導師に参加の意を告げ、礼を述べる。
合わせて隣の彼女も頭を下げた。
導師はそんな僕と彼女の顔を交互に見やり、にこやかな表情でこう告げた。
「仮面を被った際は、多少心が緩むかもしれません。それも合わせて楽しんでくださいね。」
導師の話が終わると、僕らはあれよあれよという間に男女に別れた控室に連れて行かれ、民族衣装を着付けられる。
上は、前開きのゆったりした生成りシャツ。全体にシャツと同じ生成りの糸でレースのような刺繍が施されていて、熱帯の華やかな植物の色彩を損なう事なく霽れの日を演出している。
下はこれまたゆったりとした黒のボトムスで、シャツは外に出して着付ける。上下とも素材はパキッとしてて艶があるのに、通気性が良いのか暑苦しくならない。気候に良く合った作りに感心した。
そして最後に仮面を着ける。
すると驚いた事に、鏡の中の自分の髪が短く刈り込んだダークヘアーに変わった。
それは祭の醍醐味である、男女が目的の人物を探し当てる事に見た目という要素を加えないようにする為に施された魔術の力だそうだ。
「これは…!」
鏡に向かって発した声を聞き、更に驚愕した。
自分の発した声の筈なのに、まるで赤の他人の声だ。
さすが守りを魔法のシールドで固めている国だ。魔術の使い方も質も徹底されている。
が、これではますます彼女を探し出すのは容易ではないな。
他国にまで公にはしていないが、彼女は闇の力を持つのではと僕が疑いを掛けている人物だ。
今回は導師のたっての希望で同席させているが、本来ならばここに来れるはずのない立場。逃亡や騒ぎを起こす可能性がない訳ではない。
普段の生活ぶりからは想像は付け難いが。
…そして、あの満月の夜の元で見た彼女の言葉が真実であるのならば。
過った心配に頭を悩ませていれば、控えの者から声が掛かる。
「どうしましたか? もしやお連れ様の事でございますか?」
そのとおりではあるので頷けば、控えの物は訳知り顔でこう答えた。
「大丈夫です。導師様からのお言い付けもございますれば。お連れ様の”身の安全”はこちらで確実に保証致しますので。」
そうこうしているうちに時間が過ぎ、僕は祭の場に案内された。
彼女は別の出口から祭に案内されているそうで、見つけ出せるといいですねと案内人から言葉を掛けられた。
見れば会場は同じ民族衣装、同じ仮面、仮面の魔術により性別ごとに同じ髪色で髪型の男女でごった返している。
判別が付くのは、年長者と子供。要は祭の主役ではない、この仮面と衣装を着けていない者達だ。
この中から彼女を探し出すのは至難の業ではないのか。そんな心配を抱きながら歩き出す。
祭の趣向なので仕方はないが、あちこちからやってくる同じ衣装で同じ仮面の女性達に話しかけられる。
「一緒にお酒でも飲みませんか?」
「特産の美味しい果物を分けてさしあげますよ。」
「あちらで二人でお話しませんこと?」
「私、ダンスのパートナーを探してまして。」
次から次へとグイグイ押し迫ってくる女性達。
祭の無礼講という空気も手伝ってはいるのだろうが、この強引さにかなり辟易した僕は一度集団から抜け出して、宮殿へ続く道を彩る鮮やかな花のアーチの影に身を潜めた。
落ち着いてよく見れば、声を掛けられているのは男女ともに体格の良い者だ。
体格の良い者は病に罹っている可能性は極めて低い。これなら健康な者同士が出会いやすい。伝説を利用した合理性もあるわけか。
参加してみると理解出来る他国の文化に感心していると、背後からかさりと音がした。
「あ…すみません。」
そこには一人の女性がしゃがみ込んでいた。
服は薄手の艶のある生成りの生地に、生成りの糸で丁寧な花の刺繍が刺されているブラウスに薄手の絹のショールを羽織り、白いスカートの上からは艶の良い布が巻き付けられている。この祭の民族衣装だ。
髪はダークヘアーを首のすぐ上で一つにまとめている。被った仮面による魔術で女性の皆が同じ髪型になっている。
そしてその顔には白と黒の仮面が被せられているため表情は分からないが、今少し覇気のない声だった。
「大丈夫ですか? もしや具合を悪くされているのでは?」
もしもという事もあるためしゃがみ込んでいる女性に聞いてみたが、
「ごめんなさい、大丈夫です! ちょっと人混みに酔ってしまっただけなので。」
言うなり女性はすくっと立ち上がった。
突然現れた僕に驚いてしまったのではと心配したが、それでも女性は「いえ、大丈夫なので。こちらこそご心配おかけしてすみません。」と謝るばかり。
「いえ、お詫びはいりません。そのまま休んでいてください。」
そう告げると、ホッとしたような声音で
「ありがとうございます、そうさせてもらいますね。」
と言いその場に留まり、またしゃがみ込む。
後から来たのは僕の方なのだ。謝らなくていいのに。
しばしの沈黙を遮るように、女性が話し始めた。
「…実は私、このお祭りには誘われて来たんです。」
それは密やかなそよ風のように。まるでひとり言を呟くかのように。
「ここに連れて来てくれた人なんですけど、私を多分好きではないんです。私が…悪い人間だって疑っているから。
けれど、いつも私の事を優しく一人の人間として扱ってくれて。私は、そんな彼を直接出会う前からずっと…凄い人だなって思ってました。」
俯きながら話す女性からは、喜びと悲しみが綯い交ぜになった空気が滲み出ている。
その語り口だけで、相手を大切に想っているのだろうと理解出来る程だ。
静かに聞いていた方が良さそうだと、僕は黙って耳を傾けていた。
「…ごめんなさい、変な話をしちゃって。貴方はお祭りに戻らなくていいのですか?」
すると気持ちを切り替えると言わんばかりに勢いを付けてその場に立ち上がり、女性は僕に聞いてきた。
逆に気を使わせてしまったか。
「いえ、構いませんよ。他人の方が話しやすい事もありますから。
僕ももう少し人混みを避けていたいですし。」
そう返すと、女性はふっと笑った。
「確かに貴方の背格好を見ているとモテそうですからね。」
「ありがた迷惑ですけれどね。」
そしてお互いにクスクスと笑いあった。
何故だろう。他国の異文化の祭に混ざりながら、ここには日常の空気が流れている。
そんな安らぎに背中を押されてか、僕は思った事を口にした。
「多分ですけれど、聞く限り貴女の同伴者は貴女を大事にしていると思いますよ。貴女の話しぶりには、その彼の思いやりが背後にあるように伺えました。
…僕も相手の方と似たような心境なので、率直にそう感じました。」
これは本音だ。
この女性は大切にされているからこそ、その相手に絶大な信頼を抱いているのだろう。
あの短い言葉とその口調からは、その信頼が溢れ出していた。
…僕は果たして彼女を丁寧に扱えているのだろうか。
すると女性の仮面の下から、息を飲む音がした。
そして詰まるような声で話し始めた。
「…あ、ありがとうございます…。励ましてくれて嬉しいです。」
女性は一度しゃくりあげると、夜空を見上げて続けた。
「…でも、もう決めてるんです。絶対に出会える筈のないあの人に出会えた時から。
何が起こっても構わない。絶対に傍にいる。彼に引き金を引かれるなら死んでも本望だって。」
その言葉を聞いた瞬間、幻が見えた。
目の前の空を見上げる女性の髪はまとめたダークヘアーではなく、いつもの見慣れた白に近い銀の流れるような髪で。
沈みかけた三日月ではなく、天の頂にほど近い満月が女性の視線の上で煌々と輝いている。
『私がこの世界に来た理由が裁きを受ける為ならば、私は貴方に裁かれたい。
貴方が黒だと言うのなら、喜んでこの生命を捧げます。
だからその時にはいつでもその引き金を引いて下さい。』
あの満月の夜の、彼女の密かな誓い。僕が見ているとも知らずに立てられた、固い決意。
それが今、はっきりと脳裏に蘇った。
「ごめんなさい、本当に。じゃあ、私は失礼しますね。」
そう断り駆け去ろうとする彼女の手首を掴んで引き止める。
…本当に、いつも貴女はそうだ。そんな必要はないのに。
「謝る必要はないですよ。」
彼女の口癖。
いつも何も悪いことなどしていないのに謝る彼女。
それを止めるためのいつもの言葉を、僕は口にした。
その言葉を聞いて、弾かれたように彼女は振り向いた。
そして僕達は、同時にお互いの名前を口にした。
乾いた仮面が落ちる音が、二つ鳴り響く。
目の前の少女のダークヘアーは、見る間に輝く流れるような白銀に変わる。
赤くなった目尻には、大きな涙の粒が溜まっている。
ああ、いつもの彼女だ。
こんな僕を見つけて、名前を呼んでくれた。
いつも僕を見て気遣ってくれる、いつもの彼女だ。
目の奥に来る物をぐっと堪えながら、空いている方の手でハンカチを取り出して彼女の目元に当てる。
こくりと頷いた彼女はハンカチを受け取り、目元の涙を拭った。
そのまま僕は手を繋ぎ直し、彼女を連れて祭に戻った。
すると祭の広場は大きな盛り上がりを見せていた。
据え付けられた舞台の上で、仮面が外れた男女が口づけを交わしていたのだ。
舞台下には、年配者や一人で出歩ける程度の年齢の子供、そして仮面を着けたままの若者達で賑わっていた。
その観客達は、男女に舞台下から祝いの声を掛けながら花吹雪を散らしていた。
仮面が外れたら願いを叶える、という趣旨ではなかったのか?
その喝采の中、頭が真っ白になった状態で二人立ち止まっていると、背後から年配の男性に声を掛けられた。
「おお、お二人さんも互いの名前を当てられたか、おめでとう。
今は仮面を外した者の願いを叶えるとなっておるが、古くは心を通わせ合った二人の誓いの口づけが慣わしだったんだよ。」
どうかね、お前さん方も?
そう話を振られ、顔が焼けてしまうのではというくらいの熱が帯びた。
慌てて振り向けば、彼女の頬もこの南国に咲く花のように真っ赤に染まっていて。
握り合った手から伝わる互いの熱が混じり合い弾けるかのように、舞台上の夜空に大きな花火が咲いた。
《神様が舞い降りてきて、こう言った。》
ある晴れた日の事。
私は用事があるので、帝都郊外の大通りを歩いていた。
急ぐ用事でもないのでちらちら空を見つつのんびり歩いていたら、男女の二人組が声を掛けてきた。
「すみません、ちょっといいですか?」
道でも聞きたいのかな、と思い、立ち止まって返事をした。
「はい。何かご用ですか?」
すると二人は妙に貼り付いたような笑顔でこう言った。
「あなた、最近辛い事があったのではないですか?」
………。
あ、これ宗教。しかもダメなやつ。
今、世界は三年前の邪神復活による被害から徐々に復興しつつある時。
そんな混乱に乗じての詐欺に近い団体なんだろうけど、せめてもう少し会話に余裕を持たせられないのかな。
出だしから勧誘全開じゃあ、騙せる人も騙せないよ。
まあ、そんな事言ってる場合じゃないか。
末端の人達には邪神に関する話なんかもまだまだ詳しくは伝わってなさそうだし。
識字率の問題もあるけれど、帝都は特に闇の眷属による破壊の度合いが大きかったのもあって未だ復興は半ば。苦しい生活に行き詰まった人達が追い詰められて騙されるのは十分考えられるものね。
どこの世界も起こる事件は一緒かぁ。
遠い目になりながら心の中で溜め息を吐いた私を尻目に、二人は持論を繰り広げていた。
「そんな時、私達のリーダーの元に神様が降り立ちました。輝かしい光を背負った美しい神様は、こう仰ったそうです。
この先更なる破壊が訪れる事もありましょう。その時あなた達に必要なのは、この神の力です。」
そう言って、二人は鞄からケースに入れられたどう見ても青いガラス玉の付いたペンダントを取り出した。
「これは神の力が封じ込められた、大地の玉の欠片から作られています。
これさえあれば、あなたは間違いなく破壊を生き延びる事ができるでしょう。」
私は危うく吹き出しそうになった。
その『大地の玉』、彼が参加した邪神討伐で使われてた神器の名前じゃないの!!
まあ…千年前の記録が残っていたとかあれば名前が使われるのも無理はないけれど、何にしても勧誘する相手が悪すぎましたね!!
私は理由あって、千年前の状況も含めて具に知っている者なんですよ!!
とりあえず決壊しそうな口元を何とか堪えながらも、興味はあるけど持ち合わせがないと言いくるめて、購入予定の書面にサインをして控えを受け取った。
書き込んだ住所は、彼が勤める帝都の本部。
住所はまあ少し調べればバレる事だけど、この書面は証拠にもなるし。今すぐ戻ってこの事を彼に報告しておきましょうか。
そう決めると、私は時間も惜しいと急ぎ帝都の本部へ向かった。
==========
今は、午後の休憩時間。
ちょうど彼女が用事を済ませて戻って来たところだった。
そこで聞かされたのは、帝都郊外で行われていた違法な宗教の勧誘だった。
思い当たる件はいくつかある。
近頃、帝都で人々の恐怖心を煽る事で何の価値も無い物に法外な値段を付けて売り付ける事で金を騙し取っている詐欺の集団があると通報が寄せられているそうで、その対策についての案が提出されていた。
ところがこれまでの通報では、売り付けられた物や金額に関しての証拠は全く無かった。多様な商品をそれぞれ少数ずつ揃えて販売の為流通ルートは辿れず、個別訪問で直接金品をやり取りしていたらしく、立件出来る程の物的証拠は残されていなかったのだ。
「というわけで、これがその売買契約書です。予約扱いではありますが。」
と、物は後程購入するからと言いくるめてその詐欺集団から予約の契約書を受け取ってきた彼女が、書面を手渡してきた。
…まさか彼女がこんな物を釣って来るとは思わなかった…。
「あ、はい、ありがとうございます。然るべき部署に通して対処したいと思います。」
僕は狐につままれたような気持ちで書面を受け取った。
だって、信じられないだろう。
「でも、まさか『大地の玉』として売り出すなんて思いませんでしたよ。本当にびっくりして笑っちゃうところでしたもん。」
もう少しで気付かれるかとハラハラした、と関係者以外は知らないであろう大地の玉についてコロコロと笑いながら話す彼女。
誤解が解けたとは言え、先日までは僕が邪神に魅入られた者として監視し、場合によっては手を下すつもりであった女性なのだから。
《誰かのためになるならば》
最近、どうも彼女の様子がおかしい。
僕の公務も立て込んでいる物はない為、時間の不規則さによる睡眠不足などが原因ではない。
が、ここのところ食欲もあまりないようで、いつもの覇気が感じられない。
しかし、理由を聞いても「何でもない」の一言で済まされてしまう。一体何があったのか。
「…すみません、ちょっとだけ出ますね。」
そう断りを入れて、彼女は部屋を出る。
「はい、いってらっしゃい。」
彼女を監視している立場ではあるが、この場合、僕は性別上付いては行けない場所なので部屋で待機している。
これまでの経験上、彼女が逃げ出したりなどはしていないのでここは彼女の行動を信頼している。
そういえば知る限りでは、こうして化粧直しに行った直後が消沈の具合が一番大きい。
…失礼な行為とは思うが、彼女の為にも恥を忍んで。一つ確かめておいた方がいいか。
そう判断し、化粧室手前の廊下までと決めて、彼女が向かったであろう方向へ気配を消して行く。
すると手前の曲がり角向こうから、複数の女性の声がした。
「…何よあの女、生意気にも程があるわ…。」
「あれだけ言ってもあの方から離れないなんて図々しい。」
「どこの馬の骨とも知れない女をお側に置くだなんて、あの方の品位が貶められるだけですのに…。」
「ここは是非とも彼のために…。」
なるほど、状況は漠然とだが把握出来た。
彼女が僕に伴っている事を気に入らない者達が、攻撃の矛先を向けやすい彼女にその鬱憤をぶつけていると言ったところだろう。こちらの事情も知らず、呑気な事だ。
まず、集団で個人を攻撃するというその心根が気に入らない。更に悪いのは、監視による帯同を実行させている僕にではなく、それを余儀なくされている弱い立場の彼女に目標を定めているところだ。
端的に言えば、弱い者いじめだ。腸が煮えくり返るようだ。
都合の良い事に、声の主達はこちらへどんどん近付いてくる。
僕は曲がり角すぐの影で待ち構えた。
「ですから次は…きゃっ!」
角から飛び出てきたのは三人。いずれもそれなりの高官のご令嬢だ。
だが、これを見逃しては本人達の為にもならないだろう。
「次は? 彼女にどうなさるおつもりなのか。そして、どのように僕の為にならないのか。
あちらでお聞かせ願えますか?」
腹の奥から湧き上がるどす黒い感情を押し殺し、僕は笑顔で女性たちに化粧室の方とは反対側の曲がり角を指差し、そう告げた。
「何、短時間で済みますので。」
==========
その後、僕は執務室に戻った。
まあ相手は箱入りに近いご令嬢だけあって、話は数分で済んだ。
ご令嬢の一人が僕に懸想していて、一緒にいる彼女を追い出したいと毎日口頭による攻撃を仕掛けていたらしい。
まず間違いなく、彼女が最近様子をおかしくしていた原因だろう。
取りあえず『僕の任務への妨害と見做される為、このままでは自分達への処分だけでは済まない』とやんわり言い聞かせたので、今後の被害は無いだろう。
が、集団による卑怯な手口。そして、何故彼女はこの事を話してくれなかったのかという疑問。
これらが入り混じり、複雑な心境になったところで彼女が戻ってきた。
「すみません、今戻りました…。」
やはり先程もダメージを受けたのか、微かにではあるが窶れが深まっているように見える。
僕は彼女の目の前へ行き、疑問を口にした。
「あの女性達の事、どうして話してくれなかったのですか?」
すると、彼女は驚いたように大きく目を見開いて動きを止めた。
しばし後、彼女の喉元が上下に動き、辛うじてといった風に口を開く。
「…なんで知って…?」
「申し訳ありません。失礼とは思いましたが、先程曲がり角の所まで様子を見に行ったもので。」
理由は何だ。どうして相談してくれなかったのか。
焦燥に駆られた僕は、被せるように続きを早口で告げる。
「貴女を監視していると言っても、貴女を不当に扱うつもりはありません。何故知らせてくれなかったのですか?」
そうすれば。守れたのに。
しかし、途端に彼女の顔は真っ青になった。
「…え? あの、ど、どこまで聞いていたのですか?」
ん? この反応は一体どういう事だ?
先程とは全く別の意味で様子がおかしくなっているじゃないか!
これではまるで、彼女の方が何か起こしたような風だ。
「は? いや一体貴女達はここ毎日何を話していたのですか?!」
ずっと抱いていた焦燥感の上に、状況が全く見えなくなった混迷も合わさり感情がかき回されて口調が強くなってしまった。
それに驚いた彼女はビクリと肩を震わせて、目を泳がせながらおずおずと話し始めた。
「あ、あのですね…言わなかったのはいつも忙しい貴方の手を煩わせたくなくてで…」
…まただ。
あの夜、彼女がこっそりと僕に命を預ける決意をしていた時もそうだが、何故ここまで自らを慮らず僕を労るのか。
貴女は、闇に魅入られし者の筈なのに。
「そんな気を使わなくていいです。不当な扱いをそのままにしておくほうが心配になりますので。」
話してくれなかった理由を聞き、少しホッとしている自分がいる。
少々気持ちが軽くなったところで、話の続きに集中する。
「…で、ここ毎日化粧直しに行くたびにあの女の子達に貴方の側から離れろ、どうせ卑しい身分の者だろうとか言われてまして…」
卑しい身分の者。
ここで、僕の中の何かが弾け飛びそうになった。
人間に貴賤など本来はない。
それに僕の乳母…本当は実の母だが、は、その卑しいとされる身分の出だ。
だが、贔屓目無しに高潔な精神の持ち主だった。その故郷である砂漠の村の人々も、辛抱強く優しい人達ばかりだった。
だから僕は、彼らを守ろうとしたのだ。彼らのためになるなら、自分の立場も惜しくはなかった。
そんな人達を卑しいと呼ぶとは何と醜悪な価値観だ。
その醜い価値観を、彼女に押し付けた?
しかも集団で?
やはり見逃すべきではなかったか。
「や! 私は全然気にしてないんですけど! ずっと無視出来てましたし! でもさすがに今日は言ったんです!!」
危うくあの女性達への怒りが表に出そうになったところに、何やら想定外の展開が。
言った? 貴女が? 何を言ったのか?
「こんな影で固まってネチネチとしか物も言えないなんて貴方が一番嫌うやり方だって! 身分が卑しいという見方も地雷だから!
これがバレたら絶対に嫌われるって!! 貴女達の為になりませんよいいんですか、って!!」
彼女は真っ青になりながらそう叫び、こんなの脅しみたいじゃん…だから聞かれたくなかったのに…と憔悴し始めた。
何だ。
彼女は、自分できちんと跳ね返していた。
その言い分も至極真っ当で、申し分なくて。いっそ清々しくて。
腸を満たしていたどす黒い物はその清々しさに全て浄化され、暖かく柔らかい物に変化した。
その心地良さに驚いて、思わずくつくつと笑いが漏れた。
「…呆れましたか?」
何故だろう、彼女は少し不安げに聞いてくる。
「まさか。本当にすっきりしましたよ。」
最高の気分で答えれば、彼女は憑き物が落ちたかのように安堵した明るい笑顔を向けてくれた。
「だけどもう、僕の為になんて無理はしないでくださいね。」
これからは、そんな貴女を憔悴させたくはないので。
《鳥かご》
『鳥が空を見つめてる
青い瞳で見つめてる
風に揺れる木々の中
鳥が空を見つめてる
鳥が木々を見つめてる
緑の瞳で見つめてる
綺麗に磨いたかごの中
鳥が木々を見つめてる』
テーブルに開かれたまま置かれた絵本。
青い空の下で羽を伸ばして小枝に止まっている鳥と、美しい装飾の窓の内側から緑の木々を眺めるかごの中の鳥が、それぞれのページに対比させるかのように鮮やかに描かれていた。
僕は今、邪神の力を持つであろう少女を監視する目的で自宅に住まわせている。
かつての旅の仲間の心の中に住んでいたというが、まだそれが真実だと確認は出来ていない。
その旅の仲間も騙されている可能性があるのだ。
よって、疑惑が晴れるまでは僕の権限をフルに活用できる帝国内で直接監視をする事に決めたのだ。
その彼女は心に響く絵が好きだと、図書館から絵本を借りることも多い。これもまた、そのうちの一冊だ。
子供向けとされてはいるが、その絵はコントラストを上手に活用して描かれており、大人の鑑賞にも耐え得る作品だ。
絵の美しさに心惹かれて眺めていたが、僕にはやはり鳥かごの鳥というのは哀れなものに感じられてしまう。
思い出すのは、左遷された先の村で見た風景。
真っ白い鳥達が美しい雲の中、列を成して飛んでいる様。
まさに安らぎを象徴するような、平和を切り取った風景だった。
「この鳥も大空を羽ばたきたかったでしょうに…。」
思わず呟けば、向かいに座る彼女はきょとんとした顔で答えた。
「そうですか? どちらも幸せならいいと思いますけど?」
僕にはそれが理解出来なかった。
鳥に生まれたからには、大空を羽ばたいている事こそが幸せなのではなかろうか。
「何故ですか?」
聞けば、彼女はこう言った。
「えっと、まず飼われてる動物はもう自分で食事を見つける能力も無ければ外敵から身を守る本能も無くしているので、今更外に離されても死ぬだけですよね?」
「…なるほど、言われてみればそうですね。」
僕はほぅ、と息を吐く。
確かにそうだ。
飼い慣らされて野生の本能を失った物が野に放たれても、生きてはいられない。現在の人間から文明を奪うようなものか。
普通に暮らしていると見落としがちな発想だ。
これには素直に感心した。
「まあ、飽きたから、用が無くなったから、手に余るからと捨ててしまう人もいますけど…。」
視線を絵本に落とし、淋しげな表情で彼女は呟いた。
僕も、動物を捨てる心情は全く理解出来ない。家族として迎えたのなら、最期まで一緒にいたいとは考えないのだろうか。
思考を巡らせていると、彼女がふと顔を上げた。
「それでも、きちんと食事と水が与えられて、暖かで綺麗な家があって、大好きな人の傍なら間違いなく幸せですよ。」
そう言い切った彼女の表情は、この上なく満たされたような笑顔で溢れていた。
そう。まるで、今の監視されている生活が心から幸せだと言うように。
ふわりと窓から入ってきた風が、絵本のページを捲る。
そこにはかごから出た鳥が人の手に乗り、指に顔を擦り寄せている様子が描かれていた。
『鳥は空を愛してる
青い大空を愛してる
優しく薫る風の中
鳥は喜び羽ばたいた
鳥は人を愛してる
暖かな人を愛してる
慈しみの柔らかい指先に
鳥は安らぎ頬を寄せた』
《友情》
それは、本部外での用事が出来た為に帝都郊外の喫茶店で遅めの昼食を取っていた時の事だった。
後ろに座っていた男性客二人の会話が耳に入った。
「俺は!友達と出掛けるって!聞いてたんだ!」
「うんうん。」
「それなのに、あいつ!俺の知らない男と!手ぇ繋いで歩いてやがったんだ!」
「そりゃまずいわ。」
「手ぇ繋ぐとか!友達とはしねぇだろぉ!」
「だよなぁ。女同士ならともかくなぁ。」
…あらかじめ断っておくが、声が大きかったから聞こえてしまっただけで、断じて耳を欹てていたわけではない。
どうも片方の男性の恋人に浮気の疑いが上がったらしい。
他の男性と手を繋いでいた…か。確かにそれは辛いものがある。
そして相談をしていた男性は、遂には大泣きを始めてしまい、もう一人の男性に店を連れ出されていた。
「うああああぁぁぁぁ…俺はっ、俺は!!」
「はいはい、ちょっと早いけど今から飲みに行こうぜ。何なら奢るからさ。」
「あああぁぁ!持つべきものは親友だ!ありがとうなぁぁ!」
そうこうする間に二人の男性客は退店し、店内は元の静けさを取り戻していた。
しかし、込み入った内容を気軽に話していた事と言い、それをある程度受け流している風な素振りを見せつつも憂さが晴れるまで付き合おうという姿勢と言い、良い友人関係なのだろうな、とコーヒーを口にしつつ感心していた。
……ん? 手を繋ぐ?
ここでふと、僕は最近の自分の行動に思い当たる。
気が付けば自分から、彼女の手を取り歩く事が多い。
何故だ?
他の男性と手を繋ぐ、それが辛い?
…何故だ?
僕は真っ白になった頭でコーヒーカップから口を離し、今の僕の心のようにカップの中で揺らぐ黒をぼんやりと見つめていた。