《花咲いて》
僕達が訪れているのは、温暖湿潤な地域。
今回は、観光の目玉としたいと紹介された植物園に来ていた。特に今の時期は、ちょうど蓮の花が見頃との事。
蓮は夜明けとほぼ同時に開花が始まり、午後には花が萎んでしまうそうなので、前の日は早めに休んで次の日の早朝に備えた。
夜が明けてすぐ宿を出て、植物園内の池のほとりに辿り着く。
池はかなり大きく、地表に顔を出したばかりの太陽に照らされて水面はキラキラと輝いていた。
そして、そこには事前の説明通り、池一面を覆うように鮮やかな緑の丸い葉と、更に少し上にたくさんの薄紅の蕾が広がっていた。
その広大さに見惚れていると、あちこちからほんの微かにカサ、ポン、と音がする。
見れば、ちょうど目の前に外側だけ開いた蓮の蕾があった。
中心部はまだ開いておらず、お互いが重なり合って雄しべと雌しべを守るかのように花弁が閉じられていた。
彼女がそれを指差しながら、反対側の人差し指を立てて、そっと自分の唇に当ててみせた。
僕が頷けば、彼女も頷きかえし、視線を蕾に向ける。
そうして蕾を見つめて何分か経った頃だろうか。
この蕾、もしかして見始めた時よりも丸く膨らんでいる?
そこに気が付いた直後だった。
ポン!
目の前の蕾が、音を立てて花開いた。
丸い薄紅が一瞬で開き、間から薄黄色の雄しべと雌しべが色を添える。
その様は、艶やかでコミカルでもあるのに、敬虔にも思える清廉さで。
初めて見た瞬間に感動して思わず彼女に顔を向ければ、目が合ったと同時ににっこり咲って、胸の高さで拳をグッと握りしめてみせた。
その唐突な行動に不意を突かれ、ポン、カサ、ポン、という音の中、蓮の開花を妨げぬよう声を押し殺して咲ってしまった。
それに気を悪くしたのか、口を真一文字に結び目元を赤らめながらじっと僕の顔を見る彼女に片手を上げて謝罪の意を伝え、また二人で池の蓮に目を向ける。
こんなやり取りの間にも太陽は徐々に水面から離れていき、次々と蓮はその薄紅の花を開いていった。
ここまで日々を咲って暮らせるなど、一年前には想像もしていなかった。
また来年、こうして同じように二人で蓮の花を見に来よう。
《もしもタイムマシンがあったなら》
時を渡る。これは魅力的な響きはあると思う。
例えば、間違ってしまった行動の結果を修正しに過去へ行く。
例えば、今の行動の末に何が起こるかを確かめに未来へ飛ぶ。
色々なことが自由自在に操れる。一見、そんな魅力に溢れてる。
かつて、この世界で少なくとも一人、千年の時を渡る者がいた。
私はそれを擬似的に体験した。
方法は、ある場所で現在か千年前か、行きたい時代のそこの風景を強く思い浮かべるもの。
これには現在と千年前の記憶を鮮明に思い描かなければならない。よって、本来一人の人間が行うのは到底不可能な手段だった。
その人物は、千年前の記憶を移植されたようなものだった。だから、可能だった。
ただ、そもそもこんな事は、ストーリーの展開あればこそ可能な手段だったと思う。
実際、過去の状況を変えた場合、その未来である現在はどのような風景に変化しているか想像も付かない。
ほんの少しの変化を加えただけで、未来は大きく変わる。
特にテクノロジーに手を加えれば、その変化は顕著。それは、元の世界の技術の発展による変化で十分理解した。
だから記憶に頼る時間移動は、実際は不可能と考えたほうがいいと私は思ってる。
そして、もう一つ。
過去の出来事に手を加えれば、当然未来に受け取れるはずの成果も変化する。
単純に考えれば、過去の悪い出来事をなかった事にすれば、今が平穏で幸せなものになる。
でも。それって、その悪い出来事を乗り越えて強くなった人に対して失礼じゃないかな。
たくさんの辛い出来事。辛い記憶。確かに少ないほうがいいかもしれない。
大好きな人が傷付き涙を流すところを見るのも、とても辛いことだから。
それでも、たくさんの傷で精神を美しく研磨し、涙も輝きに変えて強く優しくある人を知っているから。
私はそんな彼を尊敬し、今を必死に生きていきたい。
《今一番欲しいもの》
それは、ここ連日睡眠時間を削って調整した議題が一段落し、久し振りの休日を過ごしていた時だった。
「これはまた、ぐっすりと…。」
屋内に彼女の姿が見えないと庭に出てみれば、木の根元に座りながら眠りこんでいた。
その木は大きめで豊かに葉を茂らせていて、木陰も広く風通しも良いので、この季節でも涼しく過ごせる一角になっている。
このところは本部からの帰宅時間も遅かったので、彼女も疲労が溜まっていたのだろう。
膝には、『次に来るのはこれ!秋までに欲しいファッション特集』と書かれたページが開かれた雑誌が置いてある。
これを読んでいたら気持ちよくなって眠ってしまった、といったところだろう。
無理に起こすのも忍びないので、起こさないようにそっと隣に座り、ちらりと雑誌のページを見る。
そこにはトーンは押さえ気味ではあるが色彩も豊かな洋服や、紅葉を思わせるゴールド主体のアクセサリーなど様々な物が掲載されていた。
そうか、世の女性はこういう物を好むのか…。
それにしても、確かにこの木陰は気持ちいい。
するりと吹き抜ける風が、太陽による汗をさらりと引かせてくれる。
ふわり靡いた彼女の長い髪が、僕の腕を撫でる。
それがこそばゆくも心地好く。
目を瞑りながら風と共に流れるその髪を楽しんでいた。
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…あー、寝ちゃってた。
毎日かなりの残業に自宅持ち込みで大変そうだった彼の仕事も佳境を越えたのか、今日は久々のお休み。
たまには帝都の流行りを見るのもいいかな、と図書館から借りてきた雑誌を庭の木陰で読んでいたら、つい眠り込んでしまった。ここ涼しくて気持ちいいから。
うーん、にしても何か肩が重い…
と、顔を横に向けて私は固まった。肩の重みの正体が見えたから。
かっ、かか彼が私の肩に頭を預けて寝てる!!
うわ、どうしよう顔が近い!っていうか寝顔見られてた、涎垂らしてなかったよね私!?
彼の身体を揺らさないように身体は静、頭の中は嬉しいパニックで動も動、あまりに激しく回転している。
それでもそっと瞑られた目と小さな寝息で分かる。
相当疲れてたんだな。毎日毎晩、あんなにお仕事頑張ってたから。
そんな事を考えてたら、彼の頭が肩からズルっと落ちかけた。
起きるんじゃと驚いたけど、それでも起きる様子はない。
熟睡してるみたい。身体起こしたままじゃ辛いよね。
そうと決めれば、私は雑誌を横に避けてからそうっと慎重に彼の頭を下に降ろしていき、自分の太ももに乗せた。
いわゆる、膝枕というやつです。
…わ、何これ。物凄い心臓ばくばくする。
起こさないようにするのもドキドキしたけど、そんなの全然比べ物にならない。
小さく開いた口元から微かに聞こえる寝息。
伏せられた瞼を縁取る、女の私よりも、ってくらい長くてふさふさの睫毛。
艶のある綺麗な髪。
それでも男性の逞しさを垣間見せる、顎から耳にかけてのライン。
スリムだけど、きっちり筋肉の付いた肩。
自分でこの体勢にしといて何だけど、刺激が強過ぎやしませんか?
…本当に、ただ寝てるだけでも素敵ってどういうことなんでしょ。
荒ぶる心臓を落ち着かせる為に深呼吸しながら、ほんの少しだけ頭を撫でてみる。
あ、凄い、髪の毛サラサラ。
指の間から、するすると零れ落ちてく。
風がさわさわと木の葉をすり抜けて、火照った頬を冷ましてくれる。
木の葉の緑の間から、澄み切った高い夏空の青。
思えば、こんな贅沢はないな。
あなたに触れられるなんて、死んでも叶わないと思ってた。
もう本当に、何にもいらない。彼と二人のこんな穏やかな時間が、私がずっと欲しかったものだから。
《私の名前》
私は、自分の名前が好きではなかった。
何より、両親が嫌いだった。
自分本位で酔うと暴力的になり、家族を省みることもなかった父親。
そんな父親を疎み、その不満を私に毎日ぶつける母親。
この両親から渡された物だと考えると、自分の名前もこれっぽっちも好きにはなれなかった。
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今にも降り出しそうな曇天をガラス越しに見上げぼんやりしていると、気が滅入る。
やっぱり低気圧のせいかな、身体も怠い。嫌な記憶も蘇る。
ソファの背もたれに身を任せ、ふうっと息を吐く。
重なる黒雲につられて気持ちも落ちるけれど、何とか気分を変えなくちゃ。
重みを取り払おうと思わず頭を振る。
すると、背後から柔らかな低温で私の名前を呼ぶ声が。
とくん。胸に暖かいものが降り積もる。
「どうしましたか? 具合でも悪いのですか?」
振り向けば、体調を気遣ってくれる彼がまた、私の名前を呼ぶ。
壊れ物を扱うかのように、優しく大事そうに、私の名前を口にしてくれる。
とくん。また、胸がふんわり暖かい。
今までずっと、こんな事なかった。
名前を呼ばれて、とても嬉しくて、泣きたくなるなんて。
胸に降り積もった暖かさで溶けていく、昔の嫌な記憶と思い。
解けていく、私の硬くなった心。
心配を掛けまいと涙を堪えて、笑って何ともないよと彼の名前を呼び返す。
彼は雨上がりの日差しのように穏やかに笑み返しながら、私の隣に腰掛けた。
あなたが呼んでくれる私の名前だけは、一生大事な宝物。
《視線の先には》
私はあの日、空の上で彼の命を救おうと身を投げ出し、逆に彼に命を救われた。
そして、闇の印とされていたほぼ白かった髪は銀に、同じく赤紫の瞳は青紫に変わった。
結果、彼からの闇の者としての疑いは完全に晴れて、今に至る。
それでもお互いの習慣みたいになったので、私は今も彼に伴って出勤先である本部へ来ている。
今は、昼休み。
食堂で昼食を食べ終わり、彼が食後のお茶を持ってきてくれるために席を離れていた時だった。
「失礼します。これ、読んでもらえますか?」
脇からそっと声を掛けられたのでそちらを向くと、ダークブラウンの髪の若い男性兵士が二つに折ったメモを私の目の前に置き、お辞儀をしていた。
不意を突かれたのと相手の態度が丁寧だったのもあって、私はついメモを受け取っていた。
「はい、分かりました。」
すると若い兵士はパッと顔を上げて喜んだと思えば、また深々と頭を下げて、
「ありがとうございます。それでは失礼します。」
とまた丁寧なお辞儀をして、足早に立ち去っていった。
何があったか分からないままメモを見ると、そこにはちゃんと揃えて書こうという努力が見られる文字でこう書かれていた。
『今日15時に、誰にも知らせずにこちらの場所へ来てください。
決して危害を加えるつもりはありません。伝えたいことがあります。』
その下には、軍の所属と氏名。たぶん、さっきの人の物。
伝えたいこと…心当たりはないけど、何かあったのかな。
とりあえずメモをポケットに入れて、紅茶とデザートを持ってきてくれた彼にお礼を言った。
その時、背後の食堂出入り口の辺りから男の人達のちょっとした歓声が聞こえてきた。
15時前、私は彼にちょっと出てくる事を伝えて所定の場所に向かった。
来てみれば、ほぼ人通りのない建物の裏手。袋小路みたいなところ。
その壁際にさっきの手紙の主、ダークブラウンの髪の若い兵士が背筋を伸ばして立って、こちらを見ていた。
「すみません、お待たせしました。何のお話でしょうか?」
待たせてしまったお詫びも含めて挨拶をすると、兵士は更に姿勢を正し、ぴしっと敬礼をした。
「いえ、こちらこそご足労いただきまして申し訳ありません!」
食堂の時は声を潜めていたのだろう、その時とは全く違うキリリとした発音で挨拶が返ってきた。
「話は、ですね…。」
が、本題に入ろうとした途端に兵士は口籠った。
その表情は、かなりの緊張に包まれてて、目元も赤い。
え、私もしかして何かやらかしちゃったのかな?
つられて私も緊張してしまう。
「はい…。」
そして暫しの沈黙。
どんな内容が来るのかのハラハラもあり、気まずい空気。
その空気を取り除くかのように、兵士は一つ大きく息を吸って、切り出した。
「先にお詫びします。
あなたのご迷惑になるだろうとも、あの方の意に背くだろうことも理解しております。」
深呼吸で気まずい空気を取り去った若い兵士は、ハキハキと口にする。
その表情は先ほどとは打って変わって、緊張は解けていないが決意にも溢れていた。
私の迷惑? 彼の意に背く?
出だしの深刻さに真剣に耳を傾ける。
その言葉は、先へと続いた。
「それでも、言わせてください。
私は、あなたが、好、……っ!!」
す? 何?
そこまで続いた言葉が、急に途切れる。
その瞬間、兵士の顔が真っ青になり、今にも震えだしそうな目でこちらを見ている。
私? どうかしたの?
緊張と兵士の豹変に驚いて言葉も出せずに、私は思わず自分の顔を指差した。
ところが、兵士は目を逸らすことなくぶるぶると顔を横に振る。
なら視線は私の後ろか、と振り向けば。
そこには、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……という効果音を背負っていそうな迫力の彼が、無表情で立っていた。
「「……ひっ!!!!」」
口から飛び出るのを何とか押さえた悲鳴が、知らず兵士とユニゾンする。
たたた、確かにこれは震える!
でも何これ意味分かんない!!
「そこの君。」
地の底を這うような彼の声が響く。
「はっ、はい!!!!」
若い兵士は彼の声に圧倒され、ダークブラウンの髪を逆立てん勢いで姿勢を伸ばし最敬礼をした。
私も同じく圧倒され、呼ばれてもいないのに背筋がびくんと伸びた。
「現在、我が国の軍は前皇帝の侵略や弾圧行為もあり、国内外共に厳しい目で見られている状況だ。
そんな時にこのような人気のない場所に女性を呼び出し二人きりになるなど、あらぬ誤解を受けかねない行動を取らないように。」
あ、そうだ。
3年前に邪神復活を先導していた前皇帝は、自国の下級労働者を弾圧し、他国への侵略を進めていた。
帝都の住民や上流階級は優遇されていたからむしろ現状に不満を示す人もまだ多いけど、国内の他の地域や他の国の人々は今もかなりの割合が帝国に忌避感を持っている。
私も考えなしだったな。反省しなきゃ。
しょんぼりしてる私の横で、胸を反らし空を見上げるような体勢になっている若い兵士が叫ぶように答えた。
「仰るとおりです!大変申し訳ありませんでした!!」
それを見た彼は一息の間の後、
「理解出来ればいい。持ち場に戻りなさい。」
と、兵士に指示を出した。
「承知しました!それでは失礼させていただきます!」
若い兵士は再度最敬礼を取ると、私にも頭を下げた後に一目散に兵士休憩室へ向けて走り去っていった。
その後姿を彼と二人で見送っていたけど、彼が大きく息を吐いたかのように肩を一度動かすと、くるりと私の方へ振り向いた。
怒られる!
完全に私が悪いと分かっているけど、さっきの彼の迫力に圧倒されていた私は、思わずぎゅっと目を瞑る。
「ご、ごめんなさ…」
まずは考えなしに動いたことの反省の意を示そうと謝罪を口に出した瞬間、目の前から声がした。
「本当に、心配を掛けないでください…。」
さっきとはまるで違う、不安が漏れ出たような、勢いのない声。
その声に誘われたかのように、私はおずおずと目を開いた。
するとそこには、腰をかがめ、私に目線を合わせている彼の顔。
眦を下げ、不安そうな瞳には私がはっきりと映っている。
その視線に絡め取られて動けないまま、再度私は謝罪する。
「はい、ごめんなさい。」
謝罪は聞き届けられ、彼の表情は緩く解けた。
「…何もなければ、それでいいです。」
受け入れてくれた返事の声も、緩く柔らかに解けて、いつもの彼に戻っていた。
そんな彼を見てホッとした私も全身の強張りが抜け、表情も緩む。
「それでは、戻りましょうか。」
彼はいつもの笑顔で私の手を取り、歩き出した。
私もその手を握り返して、一緒に歩き出した。