《子供の頃は》
ふと、昔話がしたくなった。
部屋の整理をしていたら出て来た懐かしい絵本。
机の上に置いていたそれを見て目を輝かせた彼女に、聞かれてもいない幼い頃の話をしてしまった。
今は亡き優しい乳母に教わった色んな遊び、歌、ものの見方、考え方。
本当にあの人からは大事なものばかり貰った。
両親が亡くなり物心付いた頃には兄姉から咎められ責められてばかりいたけれど、あの人のおかげで僕は大事なものを見失わずに生きて来れた。
そんな暖かい思い出をまるで引き出しから取り出しやすくするかのように、僕はぽつりぽつりと明るい思い出だけを彼女に語った。
話が一段落したその時、彼女が僕を見て囁くように聞いた。
「…辛くはなかったのですか?」
その眼差しには、溢れる気遣いと少しの悲しみが乗せられて。
「…いえ。優しい乳母のおかげで苦労はあっても心豊かに生きて来られましたから。」
ほんの少し鼻の奥がツンとしたのを堪え、微笑んでそう答えれば、
「そう…ですか。」
と、まるで彼女の方が今にも泣き出しそうな笑顔で言った。
僕は確かめたかったのかもしれない。
心優しく強いあの人は、僕の心の中で喪われずにいると。
何故だろう。彼女ならきっと話を聞き、心を掬い上げてくれる。そんな気がした。
彼女は、闇に魅入られた者のはずなのに。
そういえば、どうして彼女は幼少期の僕が苦しんでいた事を知っている風なのか?
《日常》
場合によっては事はかなり深刻だ。
初めの感想は、その一言に尽きた。
各地の長達からの陳情を纏め、議会にて議論を重ね、元老院からの承認を得る。
時には、その元老院から無用の圧力が掛かる。その対処にも毎度手を焼く。
それも闇の眷属に蹂躙されたこの国を救う為、と形振り構わず走り抜けてきた。
この数年というもの、日々これの繰り返しだった。
やり甲斐はあれど政敵からの妨害に疲弊を感じ、日々の色が失われつつあった時。
旅の仲間の中にかつていた相棒が現れたと知らせが入った。
しかしそこにいたのは、闇に魅入られし色を持つ少女だった。
薄く灰色を帯びた白銀の髪。紫がかった濃い赤の瞳。
それは、かつての旅路を思い起こさせるに充分なものだった。
このままでは仲間も騙される。
そう考えた僕は、自宅に彼女を住まわせ監視を行うことにした。
平和な日々がまた脅かされるかもしれない。しかし、その時は僕自身が始末を付ける。
更なる緊張が重なる中、監視生活は始まった。
彼女の行動を具に観察する。
仲間と言い争いになった僕を真っ先に庇う。
こちらの書物を読み込み知識の吸収に励む。
知人の両親の死に深く涙する。
満月へ僕に命を預けると誓いを立てる。
会話からは励ましと労りの言葉がするりと出てくる。
話しかければいつもにこやかに微笑む。
あまりの想定外の出来事が立て続き、酷く混乱している。
彼女の人物像が分からなくなってきた。
くるくると変わる彼女の表情からは、邪気は微塵も感じ取れない。
こうして日々を暮らしているうちに、不思議と毎日が穏やかに流れるようになっていた。
今日も、本部の私室で僕の終業を待つ彼女を迎えに行く。
いつものようにドアを開ければ、溢れる満面の笑みを湛えた彼女がそこにいる。
以前とは全く違う、今の僕の色鮮やかな日常。
《好きな色》
どこかのみどりのもりのなか、『ふしぎないきもの』がすんでいました。
『ふしぎないきもの』はキュイキュイなきながら、まいにちもりのあちこちをさんぽしました。
さやさやゆれる、たくさんのみどり。
あちこちにてんてんとさく、ちいさなしろ、あお、ももいろ。
あきがくると、そんなもりもきいろやあかにそまります。
そしてやがてくるまっしろいふゆのため、きのははおちて、やさしいちゃいろのつちにまざります。
『ふしぎないきもの』はいつもこうして、たくさんのいろをみてきました。
どれもきれいでだいすきないろばかりです。
だから『ふしぎないきもの』はあるくのがだいすきでした。
きょうもたくさんあるいたと、『ふしぎないきもの』はいずみのそばでやすんでいました。
そらには、まんまるおつきさま。
いっとうだいすきなきいろをみつめ、『ふしぎないきもの』はおもいました。
もりのそとでみるおつきさまは、どんないろだろう。
そうかんがえると、わくわくがとまらなくなりました。
もりのそとにでてみよう。
たくさん、いろんなところをあるいてみよう。
いろんなところのおつきさまのいろをみるんだ。
わくわくしながら、『ふしぎないきもの』はねむりました。
そしてつぎのひ、『ふしぎないきもの』はもりのそとにでました。
はじめてのせかいは、どんなところかな。
だいすきないろがふえるといいな。
ちいさなからだに、ちょっぴりのふあんとたくさんのワクワクをつめこんで。
《あなたがいたから》
「それでね、二人揃ってお礼をしてくれたのが凄く可愛くって。」
そう上機嫌に語る彼女の話を、僕は爽やかなストレートティーの香しさを楽しみながら聞いていた。
話は少し遡る。
強めの雨脚の中で帰路に就いていた僕は、通りの喫茶店の前を見覚えのある女性物の傘が通るのを見掛けた。
彼女にしては傘の位置が低い。そう思ってよく見れば、被っていたのは小さな男女の二人組みだった。
偶然同じ傘だったのかと何気なくガラス越しに店内を見やれば、窓際の席から外を見ている彼女と目が合った。
驚いた彼女の様子からもしやと思い店に入れば、やはり手元に傘は無く。
状況を把握した僕は、とりあえず雨脚が弱まるまでと彼女の向かい側に座り紅茶を楽しんでいた。
聞けば、ちょうど子供達がお使いを終え帰宅しようとしたところに雨が降り出したらしい。
親御さんも心配しているだろうと傘を渡すと、その後の自分を気遣いながらも受け取ってくれたと嬉しそうに語る彼女。
そんな彼女の表情は、手に持つミルクティーのような穏やかな笑顔で満ちている。
「その子達は幸運でしたね。あなたがいなければこの雨の中立ち往生だったのですから。」
外を見れば、雨はしとしと振りになっている。これは長引きそうだ。
「うん、本当に居合わせてよかった。」
同じく外を見て彼女は答える。大きな瞳に思いやりを乗せて。
彼女の横顔に思わず目が釘付けになる。
その慈愛の眼差し、次はどこへ向くのだろう。
理由もない考えに耽りかけたところで、ふと思い至る。
「そういえば、あなた帰りはどうするつもりだったのですか?」
指摘をすれば、ちらりこちらに向けた視線をまた軽く外しながら彼女は言う。
「あ…まあ最悪走って帰れば何とかなるかなー、と…。」
浮かべる苦笑いに頭を抱えたくなる。全身濡れ鼠になるつもりだったのか、と。
「何を言ってるんですか。風邪を引いてしまいますよ。」
身体は大切にしなければ、と注意すればするりと返ってきた言葉。
「ごめん。だから私も幸運だったな、って。あなたが来てくれて。」
溢れるような笑顔の眩しさと共にその言葉は僕の心に暖かく染み入った。
「謝らなくていいですよ。雨がこのままなら、一緒に傘に入って帰りましょう。」
妥当な提案の影に、雨が弱まりませんようにと秘密の願いを込めて。
考えれば、この店に入るのはいつ振りだろうか。何しろ職務に忙殺されて、通り道にはあれど入ろうかという心の余裕をここ数年は持ち合わせていなかった。
ふわり漂う柑橘を思わせる芳香を纏った湯気に、心も解ける。切っ掛けでもなければ、こんなゆるりとした安心感を味わうこともなかっただろう。
これも、あなたのおかげですね。
あなたがいたから手に出来る、今の変わらぬ日々の中にあるたくさんの小さな幸福。
《相合傘》
それは、通り道にある喫茶店でお茶を飲んでいた時の事だった。
バラバラバラバラ…外から屋根を叩きつけるような音が始まった。
雨が降ってきたみたい。どうりで今朝から空気がずっしりと重かったわけだ。
念の為に傘を持ってきておいてよかったな。そっとミルクティーを口にしながら考えていると、店の入口近くから声がした。
「雨ふってきちゃった。」
「どうしよう、ママ待ってるのに。」
男の子と女の子がガラスの向こうの雨を見ながら途方に暮れていた。
その手にはこのお店の袋が下げられている。ここはテイクアウトの商品もある。おそらくパンが入っているのだろう。
私もつられて空を見る。どっしりとした雨雲が空全体をまんべんなく覆っている。しばらくは止まないだろうな。
よし。
「ねえ君達。よかったらこの傘使って。」
そう言って、私は彼らに自分の傘を差し出した。
だって、ねえ。
お店に子供は彼らだけ。このまま雨が止まなければこの子達は動けなくて不安も増すばかりでしょう?
急な雨でお母さんも心配してるだろうし。
「いいの?」
男の子が目を輝かせて聞く。すぐに帰れるかもと嬉しそうだ。可愛いなぁ。
「もちろん、いいよ。」
答えて傘を差し出そうとすると、
「でも、おねえちゃんはどうするの?だいじょうぶ?」
女の子が私の手元の傘を見て聞いてきた。気付いて心配してくれてる。優しい子だなぁ。
「うん。ここの紅茶がとっても美味しいからお姉ちゃんもっと飲んでいたいんだよね。だからもうしばらくお店にいようかなって。」
二人の頭を撫でながら傘を手渡すと、女の子がそっと受け取った。
「ありがとう、おねえちゃん。」
はにかみながらお礼をしてくれた。すると男の子も、
「ありがとう!」
元気なお礼。二人ともぎゅうぎゅうに抱きしめたいくらい可愛い。
「どういたしまして。水たまりに気を付けて帰るんだよ。」
ドア口で手を振り見送れば、
「うん!おねえちゃんまたね!」
「またねー!」
小さな手のひらがぶんぶんと大きく振り返される。
そして、二人の身体はすっぽりと大人用の傘に収まってトコトコと仲良く路地を歩いていった。
「ふあぁ。可愛い相合傘だなぁ。」
うっとりしながら店に戻る。店主に席を離れたお詫びを入れて、椅子に座る。
ミルクティーは、残り半分。
さて、飲み終わるまでに降り止めばいいけど。
止まなかったら走って帰ればいいかな、とミルクティーを飲みながらぼんやり窓を眺めていると、窓の外、大きな傘を差して歩いてきた彼とバッチリ目が合った。
あ。
胸がとん、と跳ねた。
そしてドアベルが鳴る。
入店する、閉じられた大きな傘と、大好きな笑顔。
そうだ、さっきの可愛い二人の話をしよう。
雨の中でも明るく見えた、元気で愛らしい相合傘の話を。