《あなたがいたから》
「それでね、二人揃ってお礼をしてくれたのが凄く可愛くって。」
そう上機嫌に語る彼女の話を、僕は爽やかなストレートティーの香しさを楽しみながら聞いていた。
話は少し遡る。
強めの雨脚の中で帰路に就いていた僕は、通りの喫茶店の前を見覚えのある女性物の傘が通るのを見掛けた。
彼女にしては傘の位置が低い。そう思ってよく見れば、被っていたのは小さな男女の二人組みだった。
偶然同じ傘だったのかと何気なくガラス越しに店内を見やれば、窓際の席から外を見ている彼女と目が合った。
驚いた彼女の様子からもしやと思い店に入れば、やはり手元に傘は無く。
状況を把握した僕は、とりあえず雨脚が弱まるまでと彼女の向かい側に座り紅茶を楽しんでいた。
聞けば、ちょうど子供達がお使いを終え帰宅しようとしたところに雨が降り出したらしい。
親御さんも心配しているだろうと傘を渡すと、その後の自分を気遣いながらも受け取ってくれたと嬉しそうに語る彼女。
そんな彼女の表情は、手に持つミルクティーのような穏やかな笑顔で満ちている。
「その子達は幸運でしたね。あなたがいなければこの雨の中立ち往生だったのですから。」
外を見れば、雨はしとしと振りになっている。これは長引きそうだ。
「うん、本当に居合わせてよかった。」
同じく外を見て彼女は答える。大きな瞳に思いやりを乗せて。
彼女の横顔に思わず目が釘付けになる。
その慈愛の眼差し、次はどこへ向くのだろう。
理由もない考えに耽りかけたところで、ふと思い至る。
「そういえば、あなた帰りはどうするつもりだったのですか?」
指摘をすれば、ちらりこちらに向けた視線をまた軽く外しながら彼女は言う。
「あ…まあ最悪走って帰れば何とかなるかなー、と…。」
浮かべる苦笑いに頭を抱えたくなる。全身濡れ鼠になるつもりだったのか、と。
「何を言ってるんですか。風邪を引いてしまいますよ。」
身体は大切にしなければ、と注意すればするりと返ってきた言葉。
「ごめん。だから私も幸運だったな、って。あなたが来てくれて。」
溢れるような笑顔の眩しさと共にその言葉は僕の心に暖かく染み入った。
「謝らなくていいですよ。雨がこのままなら、一緒に傘に入って帰りましょう。」
妥当な提案の影に、雨が弱まりませんようにと秘密の願いを込めて。
考えれば、この店に入るのはいつ振りだろうか。何しろ職務に忙殺されて、通り道にはあれど入ろうかという心の余裕をここ数年は持ち合わせていなかった。
ふわり漂う柑橘を思わせる芳香を纏った湯気に、心も解ける。切っ掛けでもなければ、こんなゆるりとした安心感を味わうこともなかっただろう。
これも、あなたのおかげですね。
あなたがいたから手に出来る、今の変わらぬ日々の中にあるたくさんの小さな幸福。
6/20/2024, 1:12:32 PM