《好きな本》
古い物の整理をしていたら、懐かしい本を見つけた。
小さい不思議な生き物が旅をする話。乳母がよく読んで聞かせてくれていた。
各地の色々な困難を潜り抜け、たくさんの仲間と出会っていき、最後には一つになり本当の故郷へ還る。
幼いながらもその冒険譚に心踊らせたものだ。
清らかな泉が湧く優しい森の主から愛情を受けた彼は、それまで知らなかった世界を目にする。
ゆうゆうと泳ぐ大きな魚達。咲き誇る色とりどりの南国の花。互いを守るように列を成して飛ぶ渡り鳥。
自分の住まう世界しか知らなかった彼らも出会いを果たす事で、自身の中の世界が広がっていく。
一つになるとは、見識が広がることの暗喩だと思っていた。
しかし、僕は見てしまった。いや、正確には人々は、か。
その小さな生き物たちが世界中から集まって、大いなる存在…くじらになる瞬間を。
世界があるべき姿を取り戻したように、彼らもまたあるべき姿へ戻り海へ還った。
きっと、今はゆうゆうと大海を巡っていることだろう。
豊かな花の香りや鳥達の羽ばたきの音を胸に抱いて。
今とは逆に、小さな生き物達が伝説になるその日まで。
《あいまいな空》
月が姿を消した夜
空と海の境が混じり合う
遥か彼方でくじらは唄う
生まれくる命を祝いで
去りゆく命を慈しむ
高らかに上がるくじらの吐息は
柔らかな潮風に乗り
ゆらり揺蕩う雲となる
雲が手を取り重なりあえば
くじらの吐息が雨となる
生きとし生けるものへ
等しく注ぐその吐息
優しくあれば恵みをもたらし
酷しくあれば命の全てを洗い流す
そして吐息は海へと還る
くじらは唄い続ける
かつては離れた丘たちへ
その魂が安らぎますように
いつか許されますように
《あじさい》
かつての相棒が私の様子を見に来てくれた。
渓谷に咲いていた、とあじさいを手にして。
園芸用によく見られるそれとは違い、たくさんの蕾の周りにぽつりぽつりと咲く様が可愛らしい。
滝が落ちる涼やかな光景を思い出しつつ、青や白のあじさいを眺める。
「移り気」「浮気」なんて、色の変わり具合を揶揄するような花言葉が有名だったけれど。
私は、異国の医師の恋愛話から来た「辛抱強い愛」が好きだなぁ。
遠く離れ離れになっても互いを想い続けた医師と妻。
自分はそんな風になれるかな。
決して出会うことのない彼。遠くから見ているだけだったあの頃ならばそんな幻想も抱けたけれど。
隣に立てる喜びを知ってからは、離れる怖さがムクムクと大きくなる。
まるで光を浴びて出来る影のように、光が強ければまた影も強さを増す。
ダメだダメだ!
両手で自分の頬をパチン!と叩く。
金属製の家具の中、青いあじさいが目に映る。
大丈夫。彼は本当に辛抱強くて優しい人。それは絶対に変わらない。
ならば、私の想いも変わることはない。
彼の強さを見習って、私も強くあろう。
気合を入れ直して立ち上がり、部屋を出る。
白いあじさいが揺らめいた気がした。
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ヤマアジサイの青と白のイメージで書かせていただきました。
《好き嫌い》
彼は、負の感情をあまり表に出さない。
他を害するような正義に反する行動に対し怒りはしても、その人自身を厭う感情は決して見せない。
私とは正反対の人。そんなところを尊敬してる。
私はすぐに感情を表に出してしまう。嫌な相手はとことん遠ざける。
だからこそ、不安になる。
私は彼にどう思われているのだろう。
闇に魅入られし色を持つ者…彼にそう断じられた私。
監視を目的として私と同居を始めた彼は、それでも私を手荒に扱ったりはしない。
相手が誰であろうと分け隔てない優しさを持つ彼だからこそ、嫌われたくはない。
闇の者に近寄られても。
そうは思われたくないから、私はこの想いをひた隠す。
あなたの隣で高鳴る鼓動も熱くなる頬も必死に抑え込む。
もうすぐお昼。会議が終われば昼食の時間。
また彼の顔が見れると逸る気持ちを抑えつつ、部屋の扉が開くのを待とう。
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午前の会議が終わり、本部の個人部屋で待たせていた彼女を伴い、食堂へ向かう。
「今日の日替わりのメニューは何でしょうね?」
ニコニコしながら弾む声で彼女は問う。
「今日はほうれん草とベーコンのキッシュに蒸し鶏のサラダだそうですよ。」
彼女の方を向きながらそう答えれば、目元を赤らめ破顔しながら喜んでいた。
「そうですか!楽しみですね!」
ウキウキ。ワクワク。
彼女の全身からはそんなオノマトペが躍り出るようで。
踊る会議に荒んだ心も爽々となり、足取りも軽くなる。
そうか。彼女の好む食事はこれなのか。
自宅の献立にも取り入れようかと、心のメモに書き記しておいた。
《街》
立ち並ぶ堅牢な建物。舗装された広い道。
あちこちに据え付けられた金属が呼吸するかのように吐く煙。
他国よりも圧倒的に発達した機械技術の粋が、太陽の光を受け黄金色に煌めく。
富と繁栄が凝縮された風景。
ここが、僕の生まれ故郷。
しかし、この繁栄の裏には、労働階級達への凄惨な圧政がある。
機械技術を支えるために、彼らに過剰な労働を強いた。
そんな犠牲の元に立つこの街は、僕の目には悲しく空虚な物に映る。
それでも、ここは大切な場所。
歪んだ選民思想に染まった中にも、優しき人も住んでいる。
闇の存在に占拠され、蹂躙されたこの街。この国。
今、僕はここの復興に励んでいる。
傷跡はあまりにも大きい。まだまだ先は長いだろう。
その上、圧政時代の政権が以前の体制に戻そうと妨害を仕掛けてくる。
しかし、苦しんでいる人々のためにも負けるわけにはいかない。
開けた箱から厄災が放たれた後に残された小さな希望のような存在を見つめつつ、全てを立て直す為に全力を注ごう。
皆が等しく笑顔で暮らせる国になれるように。