ぴぴぴぴ、とヒヨコの形を模したタイマーが時を告げる。
お腹のボタンを押して鳴きやませた灰原は、目の前のポリスチレン容器の蓋の一部を剥がす。
「えっ!?何その穴開き部分!なんでそこだけはがれるのお?!」
「これは湯切りのためだよ!ここから中のお湯を捨てるんだよ」
容器を持って隣のシンクへ移動し、傾けて中の湯を流していく灰原を観察している椋に声をかける。
「ほら、くーくんもやってみて?」
「うん」
ぺりぺりと湯切り口の蓋を慎重にはがし、近くのゴミ箱に捨ててから、容器を両手でしっかり持つ。
湯を捨て終わった灰原が場所を譲ると、椋は静々とシンクの前に立ち、先の灰原を真似する角度で容器をななめに傾ければ、ジョウロのようにお湯が落ちていく。
「おぉ…」
謎の感嘆詞。
「おっかなびっくりなくーくんって初めて見た!」
「そりゃあ大抵のことはそつなくこなすぼくだってぇ初めてのことはすべて初めてがあるわ…わぁ!はーくん!!」
視線を合わせず会話をしていると、突如椋が騒ぐ。
よく話は聞くけれどやったことはない、麺を流し台にぶちまける大事件でも起きたかと持っていたソースの袋を手放して覗き込めば、シンクはいつもの銀色だった。
「キャベツ!ぼくの貴重なキャベツの欠片が落ちちゃった!」
たしかに目を凝らせば、黄緑色の欠片がチラチラと排水口に流れていくののが見えた。
「あー細かいのは仕方ないよ、諦めよう」
「はーくんが諦めるとか言うの解釈違いなんだけどお!?零れ落ちたものも救ってみせようとするのがはーくんでしょお?!」
「さすがの俺も排水口に落ちてったキャベツは助けないよ」
「そ、そんな…」
「あっでもかやくを入れる時、麺の下に入れると麺に引っかかるからあんまり流れ落ちないって聞いたことあるよ!」
「それは最初に言ってよお!」
本気なのか冗談なのかわからないが、楽しんでいるようでなにより。
「いつもくーくんには教えてもらうばっかりだから、こんなことでも教えられてよかった!」
「こんなこと、じゃないよぉ!とってもだいじなこと!」
ようやくお湯を捨てきれた椋が思っていたより真剣な顔をしていたので、灰原は笑ってしまった。
【時を告げる】
遠くでざわめく人の声がする。
坊ちゃんの我儘のためここへ追随しただけで、本来椋なぞそこそこの一族は到底出席などできない、御三家を主とした集会だ。
散々連れ回されてから放逐された椋は、どこか誰もいない場所に隠れたい心持ちだったが、間者か何かと間違われても困る。
そこで母屋に面した広大な庭の中心にある池のほとりに突っ立っていた。
屋敷の喧騒はひそめき程度にしか届かず、庭の裏手にある竹林の葉たちのさざめく音が聞こえる静けさ。
見晴らしは良いが人気はない、ちょうど良い逃げ場所だ。
椋が20人入っても有り余るほどの目の前の池には、観賞用の鯉が何匹か泳いでいる。
池のそばにしゃがみこむと、白や赤や金がいろめいて、椋の近くへとひしめきあう。
これは人が近付いてくると餌がもらえるのを知っているからだ、と坊ちゃんの家の人間に聞いたことがある。
宙にパクパクと浮かぶ口に指を入れたら、噛み千切られてしまうんだろうか。
水面のゆらめく様をぼうっと眺めていると、屋敷の方がどよめき、椋は顔を上げる。
どうやら誰かが縁側に出てこちらの方面へと歩いてきているらしい。
しばらくすると、曲がり角から1人の少年があらわれた。
椋と同い年か少し上くらいの少年の口は一文字に閉ざされていて、がやがやとうるさいのは後ろから続く大人たちだった。
よろしければ我が家に、うちの娘と是非、献上したい物が、折り入ってご相談が、
とぎれとぎれに聞こえる言葉から、一人の少年にどんな欲望が投げつけられているのかは、ひらめきと言うほどでもなく想像がついた。
既視感。
目の前の魚達ではなく、家に帰れば椋の周りにいつもあるそれと。
「何事ですか?」
「あれが例の五条家の嫡男様だよ」
「あぁ、あの神に選ばれし才を持って生まれたと噂の?」
「才を持ったなんてもんじゃないよ、あのようなお方を神童と呼ぶのさ」
椋と同じくこの雑音に気付いたらしい使用人らがどこからともなく集まり、ささめく。
そうかあれが。
椋が抱いたのは畏怖や羨望ではなく、おこがましくも、親近感だった。
そんな椋の邪な気持ちが気付かれたのだろうか、全てを遮断していた少年が、ふとこちらを見た。
少年のあおい瞳は、きらめきをたずさえていた。
その美しさにときめく間もなく離された視線は、おそらく椋をとらえていたものではない。
それでも椋は、あの瞳に。
「…きれい」
ぼちゃん、と派手な水音で椋は我に返る。
無意識に前へと進んでいた椋の足が、池の縁にあった小石を蹴り飛ばし、池に落としてしまったらしい。
広がるのは波紋だけで、鯉たちの姿は見えなくなっていた。
石がなかったら、おちていたかもしれない。
きらめく、というのが、あんなに乱暴なものだったとは知らなかった。
椋はうごめく心臓を抑えて呼吸を整えた。
もしもう一度出会った時は。
その時は、逃げ出すことはできるだろうか。
【きらめき】
端から見たらほんの些細なことでも、人生も世界も乙女心も動くもので。
あの日、あの日の私の宝物を直してもらった程度のことで、初恋は転がっていってしまった。
宝物は、違う意味でもっと大切になった日から数年後。
「真依ちゃん!」
あれから転がっていった心はもう見えなくなって、尊敬の念しか持っていない。
いないのだから、名前を呼ばれるだけで心臓が跳ねて喜ぶのは、敬愛の気持ちだけ。
「久しぶりだねえ」
笑顔を見ただけで頭が白くなるのは、だだの名残で、パブロフの犬みたいなものに決まってる。
それだけったら、だけだってば。
【些細なことでも】
友人へ他愛もない返事をした後、ふとトーク一覧をスクロールする。
一画面分以上降りていくと、「1」の付いたライン。
特段仲が良かった訳ではない。
ただの仕事仲間で、仕事の時はそれこそ軽口も叩けるくらい気軽なやり取りをしていたけれど、プライベートで遊ぶような気安い関係でもなかった。
未読無視していたのに気付いたのは、彼が死んだ後だった。
日付は彼が死ぬ前の日。
彼は最期の前日に何を送ってきたのだろう。
事務的な仕事の連絡か、まさか次の日いなくなるとは想像もしていないくだらない話か、はたまた何かを悟って遺書めいた言葉か。
タップすればわかることなのに、その「1」を消すことができない。
ここを押してしまえば、二度と数字が灯ることはないから。
ひらけないのか、あけないのか、
いまだにぼくは答えられずにいる。
【開けないLINE】
直哉が戦慄くのが見えた。
「…ほんまに、わかっとるんか椋くん。
『ソレ』を捨てたら、今の力も地位も消えるんよ?もう二度と、あちら側には、」
無くすのは椋なのに、悲痛な顔をしているのは直哉の方で。
椋は首をかしげる。
「そうですね、今の『コレ』があったから、ぼくは『完璧な僕』を演じてこれた。あちら側が見える位置にも来られた。
でもぼくはそれよりも、明日ハンバーガーが食べたい」
「は…?」
椋は、晴れやかな笑顔で言葉を続ける。
「人目を気にせず安いハンバーガーにかじりつきたい。
口の周りにソースが付いてる『不完全な僕』がいい。
完璧で完成された未来より、ゲラゲラ笑いながらポテトを頬張ってお喋りしても赦される明日がほしい。」
「だから、さよならをするんです」
「まっ…!!」
静止の声を無視して、椋は整った蝶々結びの『縁』を、ほどいた。
【不完全な僕】