心の羅針盤
あの頃の私は、
頑固で、弱くて。
お前の優しさを、受け取れず。
自分の非を、認められず。
お前の言葉を無視して、
私はお前の元を去った。
心の羅針盤の針は、
ずっとお前を示していたのに、
私は気付かない振りをして、
目を閉じ、耳を塞ぎ、
心を閉ざしていたんだ。
月も登らぬ新月の夜。
後悔の波に耐えられず、
そっと溜息を吐き、
一人、空を眺める。
空の小さな煌めきに励まされ、
心の羅針盤と、
静かに向き合う。
羅針盤の針は、
昔と相変わらず、
お前の方向を指していた。
ずっと、分かっていた。
もう一度、
お前の隣に立ちたいと、
想い続けていた事。
心の羅針盤を、
壊してしまえれば。
こんなに苦しまずに、
済むのかも、知れない。
だが、私は、
心の羅針盤に従うことも、
心の羅針盤を壊すことも、
出来ずにいるんだ。
またね
貴方は突然、
生命を奪われた。
残酷な世間は、
善良な人間から、
様々な物を奪う。
俺達の身体には、
消えない傷跡が、
幾つも残り、
俺達の心には、
治らない傷が、
血を流し続けていた。
それでも。
傷だらけの俺に、
貴方は笑い掛けてくれた。
だけど。
余りに醜い世の中は、
貴方から生命までも、
奪い取ったんだ。
貴方が言った、
『またね』の言葉。
よくある、何気ない、
いつもの挨拶だったのに。
叶わなかった、約束。
二度と戻らない日常。
『またね』
『また明日』
泡になりたい
ただいま、夏。
残酷な世の中で、
人に裏切られ、傷付けられ、
与えられず、奪い取られ、
逃げるように、
夜の闇の中で生きてきて。
明るい場所は苦手だった。
隠してるボクの傷跡を、
白日の下に晒すから。
作った笑顔で、
傷だらけの心を隠して。
長袖の服で、
傷だらけの身体を隠して。
その他大勢になろうと、
自分の気持ちを押し殺す。
生きるだけで精一杯の、
忙し過ぎる日々の中で。
心も、身体もすり減らし、
休む余裕さえない、
そんな日々。
夏の傍若無人な太陽は、
酷く早起きで、
ボクの大切な夜の時間さえ、
奪い取っていく。
小鳥さえ寝ぼけ眼の時刻から、
青を纏うようになった空に、
悲しい程、真っ白な、
大きな綿菓子のような、
可愛らしい雲が浮かぶ。
早朝。多くの人間は、
まだ夢の中の住人で、
嫌われ者のボクも、
今だけは、
息を潜めずにいられる。
空を仰ぎ、
大きく深呼吸する。
鮮やか過ぎる青と白に向けて、
騒ぎ出した蝉と一緒に、
挨拶をする。
ただいま、夏。
ぬるい炭酸と無口な君
かつて。
私の隣には、
ある人が居た。
私が心を赦した、
大切なひと。愛しい君。
普段は、物静かで、
無口な君だけど、
酒に酔うと、
少しだけ饒舌になる。
君の心の声が聞きたくて、
夜毎勧める盃。
君は遠慮がちに、
ゆっくりと口に運ぶ。
泡立つスパークリングワイン。
部屋の温度につられて、
ぬるくなる炭酸。
止まらない気泡。
そして、
君の口から溢れるのは、
微細な泡の様な、
優しくも秘められた、
心の言葉。
でも、今はもう、
私の前に、君は居ない。
君を想い、
過去を悔やみながら、
重ねるグラス。
ぬるくなる隙さえもない、
スパークリングワインの炭酸が、
私の口内を無遠慮に刺激する。
ぬるい炭酸と無口な君。
戻らない愛おしい時間。