ささやき
君が扉を閉めたときの音が、
未だに耳の奥で、
繰り返し、響いている。
言葉は、刃よりも鋭く、
傷は癒えることなく、
心の奥深くまで、沁みていく。
あの日、道を違えたのは、
私と君――どちらだったのかな。
それとも。
正しさが、二人を裂いた。
ただ、それだけのこと、
だったのかもしれない。
君の背を追わなかった理由を、
今も探している。
愚かにも、あの時の私は、
立ち去る君を、見送ることで、
愛を示せると思っていたんだ。
ねえ。
あれは幻だったのかな?
私たちの時間も、
触れた指先も、
交わした約束も、
誓い合った未来さえも。
堕ちるように、恋をして、
溺れるように、誰かを抱く。
偽りの吐息に紛れて、
私は、君を忘れたふりをしてる。
でも、どれほど、
誰かの唇に触れても、
誰かの声に名前を呼ばれても、
誰かの温もりに身を重ねても、
私の心は、君の輪郭を、
濃く、濃く、なぞるだけ。
夜の底で、今夜も、
ささやきが聞こえる。
「…愛してる。」
君を離せないままの私は、
独り、君への想いを、
夜の帷に揺蕩わせる。
その、ささやきは、
朝の陽を見ることもなく、
静かに、溶けてゆく。
星明かり
月がない夜は、
とても静かだ。
太陽は余りにも眩しくて、
月は美し過ぎるから。
月のない夜に、
ボクは、星明かりに見守られ、
少しだけ、微笑んでみる。
月の輝く夜には、
見ることが叶わない、
星の瞬きは、
まるでガラスの欠片の様に、
儚く、美しくて。
人の欲望と欲望が、
汚泥のように揺蕩う、
醜く汚い、この世だけど。
夜の闇は、
偽りの笑顔も、虚栄の街も、
隠してくれるから。
優しく、悲しい、
星明かりの下で。
何の役にも立たない、
影のようなボクも、
少しだけ、赦される気がした。
星の煌めきは、
ボクの心に、小さな小さな、
傷を刻み、痛みを与える。
キラキラと。チクチクと。
それでもボクは、星を眺める。
星明かりに見守られて、
ボクは、そっと呟く。
…お願い。君を忘れさせて。
太陽のように暖かく、
月のように優しい君は、
道端の小石の様に、
誰の目にも留まらない、
有りふれた存在のボクには、
決して手が届かないから。
太陽も月も見えない、
星明かりだけの夜空の下で。
ボクは、独りでも生きていける。と、
そっと、目を閉じた。
影絵
ひとつ灯を灯せば、
君の輪郭が壁に映る。
影だけが真実のように、
静かに、私をなぞるのだ。
あの日の君は、
誰にも気づかれず、
誰にも触れられず、
泣くことさえ許されず、
まるで、風のように、
この世から零れ落ちていた。
「君はもう独りじゃない」
幾度も、そう囁いた。
だが、その言葉すら君には、
鎖にしかならなかったのだろう。
共に暮らした部屋は、
夜の棺のようだった。
恋も、愛も、
とうに遠ざけてしまっていた。
吐息すら重く、
目を閉じれば夢までも、
君の声色をしていた。
私は、君を救ったつもりだった。
打ち捨てられた心に、
せめて灯のある場所を、
与えたつもりだった。
ただ、それだけだった。
だが、君の想いは違った。
君は私を抱き締めた。
言葉よりも深く。
想いよりも痛く。
「貴方の全てになりたい」
そう小さく呟いた君の声は、
酷く悲しく、
そして…恐ろしかった。
そして、あの夜。
君は静かに笑って、
私の胸に刃を滑らせた。
赤に染まる部屋の中で、
私はようやく、
君の「好き」のかたちを知った。
それは、残酷で、酷く優しい、
ふたりきりの影絵だった。
壁には、
ひとつに重なる二つの影。
それは、血と涙で、
ゆるやかに、ゆるやかに、
溶けてゆく。
そして、私たちは、
ひとつの影となり、
同じ夜に溶けていった。
――どうか忘れないで欲しい。
これは、君が描いた、
私という影絵の、
終焉なのだということを。
物語の始まり
貴方は、嘗てあの人と、
強く想い合っていて。
でも、貴方は、
その優し過ぎる心を、
無惨に傷付けられ。
怒りに駆られて、
あの人を傷付け、
逃げ出したと聞きました。
あの人は、貴方にとって、
思い出したくない過去。
今でも赦せない、憎き人。
私は、そんなあの人から、
貴方を護ろうと決めたのです。
嘗て、貴方が、
冷たい社会の差別の目や、
醜悪な言葉の刃から、
私を護ってくれたように。
だって、貴方は。
欠陥品だと決めつけられ、
世の中からはじき出されて、
孤独だった私を、救ってくれた、
唯一の優しい温もりなのですから。
なのに。あの人は、
あの人は、再び貴方に近付き、
貴方に微笑み掛け、語り掛け、
私達の仲間のような顔をして、
貴方を私から盗もうとしたのです。
ある夜。
貴方は、微笑んでいました。
まるで、今までの苦しみから、
解放されたような。
でも、何処か、
幸せそうな微笑みでした。
だから私は。
あの人を探しに行きました。
きっと、あの人が、
貴方に戯言を吹き込んで、
私から貴方を、
奪おうとしているのだと、
気付いたからです。
私は、あの人に言いました。
嘗て、アンハッピーエンドで、
止まってしまった物語の続きは、
描く必要はありません。
私達に近付かないで下さい、と。
しかし、あの人は、
私に言いました。
これから描くのは、
止まってしまった物語の続き、
ではなくて、
新たな物語の始まりなんだ、と。
嬉しそうに微笑むあの人を見て、
私の中の、張り詰めた何かが、
ぷつりと切れる音がしました。
だから、私は、
貴方を夜の森に誘いました。
そして、静かな森の中で、
蒼い月に照らされながら、
貴方を抱き締めます。
そして、私は、
貴方の首に手を掛け、
力を込めていきました。
次第に虚ろになる、
貴方の美しい瞳。
そこに映るのは、
ただ、私だけ。
静かに横たわる貴方に、
そっと口付け、
耳元で囁き掛けます。
私もすぐに、
貴方の元に行きますから、と。
そうです。これは、
終わりなどではなく、
私と貴方、二人きりの、
物語の始まり、なのです。
静かな情熱
ひとつの火種を、
ずっと胸の奥に、隠してきた。
これは、決して——
燃やしてはならぬ炎だと、
何度も、自分に言い聞かせながら。
子供だった筈のお前は、
いつの間にか影を纏い、
目を伏せる理由を覚え、
俺の知らない夜を、
他の誰かの温もりに包まれながら、
生きるようになっていた。
それが、どうしようもなく、
苦しくて、羨ましくて——
ただ、情けなかった。
守ればいいと、思っていた。
風に攫われそうな、儚い背を。
風雨に晒されぬよう、抱きとめ、
孤独に凍える夜には、
その小さな手を握り締め、
ささやかな温もりを与えた。
そんな俺を——
お前は、兄のように、
慕ってくれたけれど。
俺は——
恋をしていた。
ずっと、ずっと。
けれど、俺に許されたのは、
『兄』の顔だけだった。
だけど。それを告げたところで、
お前の心に積み重ねてきた、
幼き日からの俺との想い出が、
壊れてしまうだけだと、
知っていたから。
この想いは、
静かな情熱として、
俺の中に埋めておくしかない。
だから。俺は、そっと願うんだ。
せめて、遠くから——
お前の幸せを、見守らせてくれと。
たとえ、もう二度と。
触れることさえ、赦されなくても。