桜
『桜の下には死体が埋まっている。
桜の花が美しく咲くのは、
その木の下に、死体が埋まっていて、
養分を吸っているからだという――。』
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貴方は、現し世と戦い、
酷く傷付いていました。
この腐り果てた世の中を、
睨み据える、その瞳が、
何れ程、美しかったか。
私だけは、知っていました。
ねぇ、もう良いでしょう?
冷たい朝も、
無為なる昼も、
虚ろな夜も、
貴方に相応しいものでは、
ありません。
だから、ここまで来たのです。
この桜の木の下まで。
咲き誇る薄紅は、
幾つもの命を吸い、
その花弁に、静かな美を宿す。
だからこそ。
貴方に、似合うと思ったのです。
私の手は、
躊躇う事も、迷う事もなく、
震えてさえ、いませんでした。
何故なら、貴方は、
微笑んでいましたから。
だからこれは、
優しさではなく、欲望なのです。
貴方が、あの影を想い出さないように。
貴方が、誰にも渡らないように。
貴方が、この世の毒に触れないように。
共に堕ちてゆくことが、
救いではないと、
誰が言えるのでしょう。
貴方が、私の刃を、
拒まなかったことを、
私は赦しだと、
勝手に信じました。
冷たい土の中で、私の腕が、
貴方を抱き締め続けるでしょう。
誰にも邪魔されず、
誰にも奪わせず。
春の風が、そっと頬を撫で、
頭上では花びらが、
雪のように舞っています。
惜しげもなく、ひらひらと。
来年も、この桜は、
きっと美しく咲くでしょう。
……貴方という、
たった一つの養分を受けて。
君と
君と…。
──いや。
お前と、過ごした季節を、
今もまだ、忘れられず、
胸の何処かで、
微かに疼いている。
くだらない言葉で、
お前の心を傷つけたのは、
他でもない、私だった。
赦される筈がない。
そんな事は、分かり切っている。
それでも。
夜が深くなる度に、
お前の名を、呼びそうになる。
灯も差さぬ部屋で、
あの声が、あの瞳が、
幻のように、浮かんでは消える。
私にはもう、
お前を愛する資格などない。
それなのに、誰よりも強く、
お前を求めているんだ。
知っている。
お前も未だ、私の名を、
心の片隅に留めていることを。
それでも、私達は、
あの日の前には戻れない。
壊したのは私だ。
取り戻せないと知りながら、
それでも願ってしまう弱さが、
この痛みを、ただ深くする。
あの日、あの時。
怒りに任せて、
お前に叩きつけた「さよなら」は、
今も、私の喉を焼く。
君と──
交わした日々のすべては、
静かに、だが、確かに、
私の中を蝕んでゆく。
そして、今夜もまた、
「君」を「お前」と呼ぶことで、
記憶と現実の狭間に、
ただ、沈んでいく。
空に向かって
独り、空に向かって。
祈るでもなく、
願うでもなく。
ただ黙って、
見上げているお前を、
オレは見ていた。
雲の奥、深く沈んだ声で、
お前はきっと、
あの人の名を、
呼んでいたんだろう。
届かないと知りながら、
それでも呼び続ける心が、
お前を辛うじて、生かしていて。
そして、静かに蝕んでいく。
微笑みを忘れた口唇が、
どうしようもなく、美しかった。
その沈黙に触れたくて、
けれど、触れれば壊れそうで。
何も出来ないまま、
目を逸らしてしまう。
オレには、
お前の哀しみに踏み入ることも、
絶望に手を伸ばすことも、
出来はしない。
だって、そこには、
あの人が、ずっといるから。
なぁ。
お前は空に向かって、
誓ったのか?
必ず、あの人のもとへ還ると。
それまでの命は、
ただの通り道だと。
そんな想いを胸の奥に沈めて、
静かに日々を生きるお前が、
どうしようもなく、憎らしくて。
どうしようもなく、愛おしかった。
見詰めることしかできないオレに、
お前は気付かない。
それが、痛いほど苦しいんだ。
空に向かって、
お前の影が、そっと揺れている。
オレには見えない誰かに、
微笑んでいるみたいで。
そのお前の横顔が、
オレの心に、チクリと、
小さな痛みを与える。
そうして今日も、
お前は生きている。
死を想いながら、
生きるふりをしている。
――その芝居は、
あまりにも真摯すぎて。
オレはただ、空に向かって、
溜息を吐く事しかできないんだ。
はじめまして
月のない夜、
まるで綺羅星の様な、
貴方を想います。
心を闇に囚われ、
灰色の世の中で藻掻き、
意思を殺して生きてきました。
なのに。
貴方の微笑みを、
はじめて見た、あの日、
世界に色が宿ってしまったのです。
「はじめまして」
あの日の言葉が、
いまだに胸を締め付けます。
只の挨拶には、
意味などなかったのに。
ですが、私には。
それが始まりだったのです。
貴方を見つめるたびに、
この痛みを伴う想いが、
静かに私を蝕んでゆきます。
貴方の幸せを、願うほどに、
私は透明になってゆくのです。
穢れ切った私には、
貴方を幸せにはできません。
それが、只の臆病だと笑われても。
この手にあるものが、
余りにも、頼りなくて。
だから、何も言えません。
何も言いません。
貴方を知らなければ、
こんなにも息苦しくなることは、
なかったのでしょうか。
それでも。
貴方に出逢えたこの痛みさえ、
貴方との想い出だからと、
私は、拒めないのです。
「はじめまして」
貴方に出逢った日の私に、
ひとつ、伝えられるのなら。
そのまま、目を伏せて、
振り返らずに歩きなさい、
そう、教えてあげたいのです。
またね!
今夜も儚げな三日月が、
何も言わずに傍にいた。
黙って、ただそこにいてくれる。
想い出の中の彼に、
少しだけ、似ている気がした。
焚き火のような、温もり。
ただ、それが欲しかっただけ。
きっと君も、
そうだったんだよね?
心の隙間に、
偽物の夜を流し込んで。
似たもの同士で、
恋人の真似事をしてた。
だけど。
君の目の奥にいたのは、
私じゃなくて、別の人。
名前しか知らない、
君の――本当の恋人。
君から微笑みを
返されるたび、
胸の奥がチクリと軋むけど。
それに気付かないふりをしてた。
君は「またね」って、
笑ってくれたけど。
それは、帰る場所のある人の言葉。
君とは違って、
どんなに戻りたくても、
私にはもう、
帰る場所なんてないんだから。
夜が深くなるたびに、
君の声は遠ざかっていく。
それが、やけに優しくて。
腹が立つほど、悲しかった。
君と私は偽物だったけど、
君のいないこの静けさだけは、
本物だったんだ。
きっと、君は
愛しい恋人の手を握って、
忘れていくんだろう。
この部屋の匂いも、
お互いの哀しみも、
私の温もりも――全部。
それでも私は、
言ってみせるから。
「またね!」って。
まるで、君のふりをして。