記憶
瞼の裏に残るのは、
あの日の匂いと、雨の温度。
呼び掛けようとして、
声が喉の奥で、解けていく。
ただ、擦れ違っただけ、だった。
私と君を、そんな言葉で、
片づけられたなら、
どれだけ楽だっただろう。
そして、私は独り、
今も、ここにいるんだ。
夜を歩けば、溢れるのは、
記憶の中の君の影。
誰もいないのに、
口唇から溢れ落ちる、
君の名だけが、
風に残るんだ。
何故、忘れられないのだろう。
何故、消えてくれないのだろう。
一度断たれた糸を、
何度、結ぼうとしても、
解けてしまうのに。
遠くに君を感じる度、
堪らなく、笑いたくなって。
堪らなく、泣きたくなる。
記憶という名の檻に、
自分で鍵をかけて、
逃げられなくしているのは、
きっと、私自身なんだ。
きっと君は、還らない。
それでも、君を愛している。
〜〜〜〜〜〜
もう二度と
もう二度と、
あの声に包まれることはないと、
夜の隙間から溢れ落ちる、
夢の欠片が崩れる様を、
独り、眺める。
擦れ違いの果てに、
交わした言葉は、
刃よりも鋭く、静かに、
氷よりも冷たく、深く、
胸の奥を裂いていった。
別れを選んだのは、
確かにこの手だった。
なのに今も、心だけが、
あの面影を求めて彷徨う。
届きそうな距離に、
あの眼差しの残響がある。
その向こうで、
赦しを湛えた温もりが、
こちらに向けて、
その手を伸ばしていることは、
気付いている。
……だが、私には、
あの光に触れる資格など、もうない。
壊すことしか知らぬこの手で、
もう一度、その微笑みに触れるなど、
きっと、赦されはしない。
だから、この想いは、
風の中に置いてきた、
あの日のまま、
静かに終わらせたい。
強がりではない、と。
誰に言い訳するでも無く、
ただ。
その温もりを忘れぬように、
胸の奥にしまい込む。
もう二度と。
触れることも、
語ることもない。
ただ――
それほどまでに、
お前が、愛おしかったんだ。
雲り
朝は、雲一つない青空が、
何処までも広がっていたのに。
気が付けば、
少しだけ灰色を帯びた
大きな雲が、
空を静かに埋め尽くしていた。
雲が太陽を覆い隠すと、
ほんの少しだけ、
楽になれる気がする。
こんな俺には、太陽は、
ただ、眩し過ぎるから。
曇り空の下を、歩く。
俺は、その他大勢の一人。
爽やかに輝く青空より、
鈍色の雲が、きっと似合ってる。
君への叶わぬ恋に、
雁字搦めになって、
臆病な遠吠えさえできない俺を、
鼠色の雲が、
せめて、この冷たい街から、
包み隠してはくれないかと、
叶わぬ幻想に縋ってるんだ。
湿気を纏った風が、
重い鎖のように絡みつく。
まるで、胸に残る、
後悔そのものみたいに。
そして、ジワリジワリと、
俺の首を絞めていくんだ。
いっそ、雨になればいい。
雨に濡れてしまえば、
頬に流れる未練の涙を、
雨粒だと、自分に、
誤魔化せる気がするから。
太陽がその輝きを、
雲の向こうに隠した空に、
俺はそっと願いを掛ける。
君の空は、いつも、
青く澄んでますように。
でも。
俺の恋模様は、
ずっとずっと、雲り。
そして、時々、雨。
……それで、いいんだ。
bye bye…
静かだった夜が、
君の温もりを、
忘れてしまったみたい。
でも、瞼の裏には、
君の香りだけが、
まだ残ってる。
あれは恋じゃなかった──
そう言い聞かせても、
触れた肌の温もりの記憶が、
君を想った気持ちは、
仮初めなんかじゃなかったって、
胸の奥に囁くんだ。
誰かの代わり。
それでもよかった。
ただ、独りじゃないと、
思える時間が欲しかっただけ。
本当は、最初から知ってた。
君の心が、遠くにあることは。
それでも、もう少しだけ、
寄り掛かっていて欲しかったんだ。
最初から決まってた。
私は、君の帰る場所には、
なれないことも。
君が、別の誰かのもとへ、
戻っていくことも。
だから、最後に言うね。
bye bye…
声にならないくらい、
優しく、静かに。
そして──
微笑みを浮かべて、
そっと手を振って、
また、独りに戻るだけ。
〜〜〜
君と見た景色
君と見た景色が、
胸の奥に焼き付いて、
離れない。
あの日の空は、
何処までも静かで、
風は優しく、
頬を撫でていたのに。
なのに、どうして。
今、こんなにも冷たく、
鋭く痛むのだろう。
「ずっと一緒ですよ。」
君のその声が、
まだ、耳に残っている。
君は優しかった。
だが、笑顔の奥の影が、
酷く美しくて、脆くて。
そして…怖かった。
私の手を握る君の指先が、
まるで鎖のように重く、
逃れようもない程に、
きつく絡みついていた。
だが。
君の手を解けないのは、
私がまだ、君と見た景色に、
救いを求め、縋っていたから。
君は私の世界を、
終わらせようとしていた。
だが、私は、
どこかで望んでいた。
この醜く歪んだ世界から、
解き放たれ、
君と堕ちることを。
夜の底で、君は囁いた。
「これで本当に一緒になれますね」
甘い毒のような、その言葉に、
私は、救われた気がした。
君と見た景色。
それは、
終わらない夢のようで、
醒めない悪夢のようでもあった。
最期に目に映ったのは、
君の微笑みと、
あの日と同じ、
美し過ぎる空、だった。
手を繋いで
あのとき、貴方は、
手を繋いでくれましたね。
柔らかくて、暖かくて、
まるで、赦されたようでした。
貴方は、優しすぎました。
だから、私から、
少しずつ遠ざかっていくのが、
分かってしまったのです。
優しい人は、残酷です。
そういう風に出来ているのです。
貴方には、私の隣で、
私だけを見ていて欲しかったのです。
初めは…それだけだったのです。
なのに、
貴方の視線が、
他の誰かを捉える度に、
胸の中で、何かが蠢いて、
私は、視界に映る全てを、
壊してしまいたくなったのです。
貴方がくれた言葉を、
抱き締めながら、
一人で眠る夜は、
もう限界でした。
夢の中の貴方は、
優しすぎて。
でも現実は、
冷たすぎて。
貴方が傍にいない朝は、
凍えるように寒いのです。
あの日、貴方は、
世の中の不条理と人の悪意に、
傷付けられ、踏み付けられ、
汚れた襤褸切れの様な私を、
助けてくれました。
私にとっては、貴方の救いが、
世界の全てでした。
だから。
私の生きる意味は、
貴方、ただ一人なのです。
けれど、
貴方にとっての私は、
何だったのでしょうか。
私の心は、貴方で埋め尽くされ、
もう、とっくに壊れていたのに。
だから、最後に。
ひとつだけお願いです。
手を繋いで、ください。
私はもう、二度と、
貴方を離さないと誓いますから。
そして。
神でも、悪魔でも、
私たちを引き離せない場所へ、
行きましょう。
そして――
ふたりで一つの影になりましょう。
どうか、お願いです。
手を繋いでください。
――もうすぐ夜が来ます。
夜が明けることも、
月の昇ることさえ無い、
永遠みたいな夜が。
どこ?
静かに眠る貴方に、
私はそっと囁きかけます。
――お願いです。
目を開けて、私を見て下さい。
独り眠る貴方の瞼の裏に、
私は映っているのでしょうか?
触れれば、温かいのに、
呼びかけても、声は届かなくて。
指先でなぞる、頬の温もりは、
ゆっくりと、確実に、
私から遠ざかっていくのです。
ねえ、置いていかないで。
もしも、貴方が悪夢に囚われるなら、
私もそこへ行きたいのです。
貴方はまるで、
眠れる森の王子様。
何度、口付けても
魔法が解けることはなく、
ただ、夜が巡るばかり。
この世界に、
貴方がいないのなら、
私が生きる意味なんて、
どこにもないのに。
――貴方は、どこ?
私の声は、届いていますか?
もしも、
貴方の世界へ行けるのなら、
この身も、魂も、
全て悪魔に売り渡しても、
かまわないのに。