ありがとう
月明かりさえ届かぬ、
新月の夜。
闇の静寂の中で、
君はただ、
静かに微笑んでいた。
「もう、苦しまなくて、
いいのですよ」
まるで歌うような、
柔らかな君の声が、
私を包み込む。
華奢な指先に握られたのは、
闇に揺らめく銀の刃。
夜に溶けきれぬ、
冷たく光る、刹那の断片。
――これで。
漸く、終わらせることが出来る。
過去に囚われた心も、
後悔に苛まれる日々も、
絶望に沈む未来も。
「君を置いて逝くことを、
どうか赦して欲しい」
震える声で告げる私に、
君は優しく微笑んで言った。
「私もすぐに、貴方の元へ…」
――ありがとう。
私は瞳を閉じる。
――愛しています。
銀色の刃が閃き、
闇に赤が滲む。
……。
全てを終わらせてくれて。
私を救ってくれて。
――ありがとう。
〜〜〜〜
そっと伝えたい
冷え切った夜の隙間に、
君の名をそっと呟く。
誰にも届かない声ならば、
せめて影にだけ囁こう。
笑顔の裏に隠した傷、
気付かれたくなくて。
でも、見つけて欲しくて、
矛盾が胸を蝕んでいくんだ。
月明かりが滲む夜、
私は独り立ち尽くす。
もう二度と、
君に触れることも、
触れられることもなく。
この痛みを言葉にすれば、
君が遠くなる気がして、
きつく口を閉ざした。
それでも。
いつか君が、気付いてくれるなら、
何も望まない。
何も奪わない。
ただ、君の心に、
小さな棘を残したいんだ。
そっと伝えたい。
今でも、君を――。
未来の記憶
俺は闇の中に、
一つの光を見た。
それは遠く、儚く、
…酷く、淡い。
只、胸に疼く痛みだけが、
鮮やかに蘇り、
その光を覚えていた。
まるで過去から未来へと続く、
細い糸のように。
名前も知らない…お前。
声も知らない…お前。
それでも心は知っている。
こんなにも切なく、
涙さえ滲むほどに、
お前を求めてしまうのは、
何故だろう。
俺は闇の中で、
何度も何度も手を伸ばす。
だが、指先は虚空を掴むだけ。
冷たい闇が、俺を嘲笑う。
それでも。俺は諦めない。
どんなに遠くても、
俺は未来にお前を探す。
俺とお前は、
隣に立ち、笑い合い、
そして…消える。
その儚い一瞬を、
俺は知っている。
まだ訪れていない筈の、
未来の記憶。
ココロ
夜の静寂に沈む部屋。
私と貴方だけの、
小さな世界。
貴方を失い、
私の胸は、
空っぽになりました。
嘗て、ここにあった筈の鼓動は、
何処か遠くへ、
消えてしまったのでしょうか。
それとも――最初から、
存在しなかったのでしょうか。
風が吹いても、雨が降っても、
私は何も感じません。
ただ、世界が動いていくのを、
ぼんやりと眺めているだけ。
遠くで、誰かが、
私の名前を呼んだ気がしました。
けれど、それはもう、
私には何の意味もない事。
この身体は、ただの器。
この瞳は、ただのガラス玉。
私がココロを失ったのは、
いつだったのでしょう。
それは、きっと――
貴方の全てを、
私のものにしようと、
その温もりを奪ったあの日。
だって、私のココロは、
貴方がくれたもの。
…だったのですから。
星に願って
夜の帳が降りるたび、
独り、空を見上げる。
星に託す願いは、
叶う筈もないと知りながら。
全て、棄ててしまいたい。
温もりを知ってしまった過去も、
義務と過ちに縛られる現在も、
闇に覆われ、光の見えぬ未来も。
「あの頃に戻れたなら。」
許される筈のない願いを、
星はただ、静かに見下ろす。
願う程に、遠ざかる。
ならば、いっそ。
全てを消してしまいたい。
記憶も、意識も、
この存在さえも。
だから、星に願って、
静かに目を閉じる。
その輝きが、
冷たい刃となり、
この胸を貫き…。
全てを。
終わらせては、くれないか。
君の背中
君の背中が、
遠ざかっていく。
冷たい風の中で、
声すら、もう届かない。
並んで歩いていた筈なのに、
いつの間にか、
俺は影になって、
君の光に溶けていたんだ。
君は笑う。
迷いもなく、振り返りもせず。
その眩しさに、
俺は目を細めることしか、
出来ないんだ。
肩を叩ければ。
名前を呼べれば。
そんな小さな願いさえ、
この距離は許してくれなくて。
君の背中は、
遠くなるばかり。
伸ばした手が、
風を掴むたび、
指の隙間から、
想いが溢れ落ちる。
君は光の中を歩いていく。
俺は影の中に立ち尽くす。
もう追いかけることさえ、
出来はしない。
だから、せめて。
君の背中が、
見えなくなる、その瞬間まで、
この目で、君を見届けさせて。