〈ずっとこのまま〉
俺は背が高い。一八六センチ。
それ自体は悪いことじゃない。けれど、服を買うときはいつもサイズが微妙に合わないし、教室では自然と目立つから、授業でもすぐ当てられる。
なるべく目立たないようにしているつもりでも、そうはいかない。
小川さんは小さい。
一五〇センチ弱だろうか。ゼミで隣に座ると、頭一つ分以上違う。
この間の帰りの電車で、人混みに流されそうになった彼女を助けた。
とっさにつかんだ、小さな手の感触。
そのあと並んで座って話をした。彼女が自分の手にコンプレックスを持っていること。
あれから一週間。
小川さんのことを考えない日はない。
ゼミの教室に入ると、彼女はいつもの席に座っていた。資料を広げ、ペンを走らせている。その横顔を見ただけで、心拍数が上がる。
隣に座ろうとして、足が止まった。
今日も隣でいいのか。
毎回同じだと意識されないか。でも離れるのも不自然で——。
「大田、何してんの」
背中から声をかけられて、びくっとした。杉谷が呆れた顔で立っている。
「入口で固まってたぞ」 「……別に」
肩を叩かれて、我に返る。結局、俺はいつもの席に座った。
「おはよう」 「おはよう、大田くん」
彼女が笑う。それだけで、少し肩の力が抜けた。
ゼミが始まる。
先生の話を聞きながら、つい横目で彼女を見てしまう。ノートをとる小さな手。整った文字。
「大田くん、どう思う?」
名前を呼ばれて、我に返った。
「え、あ……」
頭が真っ白になる。
こういうとき、背が高いことまで目立っている気がして、余計に落ち着かない。
「じゃあ、小川さん」 「はい」
彼女は落ち着いて答えた。ちゃんと集中している。
俺は何をやってるんだ。
ゼミが終わると、逃げるように教室を出た。
廊下のベンチで頭を抱えていると、杉谷が缶コーヒーを差し出してくる。
「小川さんのこと、好きなんだろ」
否定できなかった。
「どうすればいいかわかんない」 「まずは普通に仲良くなれよ。変に構えすぎ」
その言葉が、すっと胸に落ちた。
「この前の打ち上げでさ。『大田くんって親切だよね』って言ってたぞ」
胸が熱くなる。
「次のゼミ、頑張れよ」
杉谷はそう言って去っていった。
三日後のゼミ。
俺は深呼吸して教室に入った。
「おはよう」 「おはよう。今日も寒いね」 「自販機のホット、全部売り切れてた」 「え、じゃあ帰りにコンビニ寄らなきゃ」
気づけば、会話が続いていた。
今日は小川さんの発表だった。
丁寧で、わかりやすい説明。質疑応答で、俺も手を挙げた。
「この部分、もう少し詳しく聞きたい」
彼女は嬉しそうに答えてくれた。
ゼミが終わって、並んで廊下を歩く。
「今日の発表、すごくよかった」 「ありがとう。大田くんの質問、助かった」
照れくさくて、頭をかく。
「あのさ」
小川さんが立ち止まった。
「次のゼミの準備、一緒にやらない?」
はね上がる心拍数を抑えて、言葉にする。でも、慌てなかった。
「うん、いいよ」 「じゃあ、明後日の放課後、図書館で」
夕日が廊下に差し込んで、彼女の横顔を照らしている。
こうして隣を歩いて、他愛もない話をして、笑う。
特別なことは何もない。
──ずっとこのまま、この時間が続けばいい。
背が高いとか、小さいとか。
そういうことを気にしなくていい、この距離が心地いい。
夕焼けの中、俺たちの影が廊下に長く伸びていた。
──────
「手のひらの贈り物」続編です。大きな大田君と小さな小川さんのお話。
この先、進展はあるんですかねぇ笑
〈寒さが身に染みて〉
自動ドアが開くたび、冷たい風が吹き込んでくる。
思わず身をすくめる。ふた月ぶりの外の空気は、思っていたよりずっと冷たい。
「外は寒いですよ」
嫁の佐和子さんが、手にしていたダウンコートを私の肩に掛けてくれた。家から持ってきてくれたのだ。
骨折してこの病院に入院するときには、まだ秋の終わりだった。退院する今は、もう冬本番だ。
「ありがとう」
袖に腕を通す。ふわりと包み込まれる感触が、どこかほっとさせる。
「ふた月ずっと部屋の中だったから、一層寒いでしょうね」
佐和子さんの言葉に、私は頷いた。
息子の一雄は車を取りに駐車場へ行った。
病院のロビーで待つ間、ガラス越しに外を眺める。木枯らしが吹き、枯れ葉がくるくると舞っている。そのうち風に乗って、どこか遠くへ飛んでいく。
「病院の中は暖かいんだけどね」
ふと、口をついて出た。
「夜は寒さが身に染みるのよ」
佐和子さんが、少し驚いたような顔でこちらを見た。
──
夜の病室は、昼間とは違った。
消灯時間が過ぎると、廊下の明かりだけが頼りになる。薄暗い部屋の中で、天井を見つめる。
空調は効いているから、温度は十分なはずなのに、どうしてだろう。身体の芯から冷えてくるような気がした。
日中は看護師さんが声をかけてくれる。隣のベッドの患者さんと、たわいもない話をして笑い合う。リハビリの先生と一緒に廊下を歩く。忙しくしていれば、気は紛れた。
でも夜は、そうもいかない。
夫が亡くなってから、もう五年になる。一人には慣れたつもりだった。けれど、病院という見知らぬ場所で、見知らぬベッドで、ひとり目を覚ますと──
ああ、私は本当にひとりなんだと、あらためて思い知らされた。
寂しいから、余計寒さが身に染みる。
そう気づいたとき、ひとすじの涙が頬を伝った。誰にも見られていない暗闇で、私は静かに泣いた。
──
「ふみさん」
佐和子さんの声で、我に返った。
「コーヒーでも買ってきましょうか?」
心配そうに、私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫よ」
私は笑顔を作った。
「家に帰ってお茶飲むのが楽しみなの」
「そう言うと思って」
佐和子さんが、嬉しそうに笑った。
「ここの横のカフェで焼き菓子買ったんですよ。
帰ったら紅茶淹れましょうね」
「まあ、ありがとう」
この人は、いつもそうだ。さりげなく、私が嬉しくなることをしてくれる。
ロータリーに、見慣れたフォルムの車が現れた。一雄が車を降りる。
「さあ、行きましょう」
佐和子さんが、私の腕をそっと支えてくれた。
自動ドアをくぐる。風が、ざあっと吹きつけてきた。
その冷たさに、思わず身震いする。枯れ葉が足元をかすめて、遠くへ飛んでいく。
でも、もう寒くはない。
佐和子さんの温かい手が、私の腕を支えている。一雄が車から降りて、こちらへ駆けてくる。
──ああ、私はひとりじゃない。
そう思ったら、胸の奥から、じんわりと温かいものが広がってきた。
冬の風は、確かに冷たい。でも、帰る家がある。待っていてくれる人がいる。一緒にお茶を飲んで、焼き菓子を食べて、他愛もない話をする。
そんな当たり前の幸せが、私を待っている。
寒さが身に染みる季節だからこそ、温もりの尊さが心にしみるのかもしれない。
──────
嫁姑漫才()ふみさん佐和子さんシリーズです。
コーヒーより紅茶の方が温まるような気がするのは、気のせいですかね?
やあ(´・ω・`)
「20歳」ってお題でまとめてたけど(´・ω・`)
昔のアレな記憶が蘇ったから書き直すよ(´・ω・`)
さっさと切り替えればちいのにね、やーね(´・ω・`)
じゃ(´・ω・`)
(´・ω:;.:...
〈三日月〉
定時のチャイムが鳴り、パソコンを閉じた。窓の外はもう薄暗く、街灯が一つずつ灯り始めている。
退職してから三年半。母は通院と多少の介護が必要だけれど、日常生活は送れるまでになった。
私は地元の小さな会社で週五日、事務のパート勤務をしている。
この会社は定時で帰れるし、休みも取りやすい。その点では前の職場よりずっと働きやすい。
けれど、昔ながらの体質が残っていて、細やかな改善を提案しても「今ので十分」と流されることが多い。書類の整理方法も、来客対応も、もう少し工夫すれば効率的になるのに、と思うことはある。
でも、それでいいのかもしれない。ここでは私が全力で走る必要はなく、穏やかに歩く場所なのだから。
会社を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
ふと空を見上げると、西の空に細い三日月が浮かんでいる。
猫の目のように細く欠けた月。けれど、よく見ると暗い部分もうっすらと光っている。
地球照──地球を照らす太陽の反射光が月を照らす現象だと、昔どこかで読んだ。
駅へ向かう道を歩きながら、昨夜読んだメールのことを思い出す。
宇佐見さん──私が退職する少し前に入社した、後輩からの便りだった。
『岡部さん、お久しぶりです。お元気ですか?
この春の人事で、瀬尾さんが課長になりました。
相変わらず気遣いの人です。私が体調を崩して休んだ時も、『無理しないで』ってメールをくれて、翌日には業務の振り分けまで済ませてくれていました』
ああ、あの瀬尾さんなら。
異動してきたばかりの頃、不安そうに資料を確認していた姿が浮かぶ。その瀬尾さんが、今は誰かを気遣う立場になっている。
『岡部さんのお茶淹れマニュアル、今も使われているんですよ。
私も新人の頃に岡部さんに教わって、今は後輩に教える立場になりました。他のフロアにも広がっていて、岡部さんの名前を知らない新入社員も活用してます』
壁に貼られた、マニュアルの写真。
私が書いたメモを誰かが清書して、パウチまでされているのを見ると、少し不思議な気持ちになった。
あれは業績にも評価にも残らなかったけれど、若い人たちの間で静かに受け継がれている。私の名前が忘れられても、誰かの役に立ち、それがまた誰かを照らしている。
信号待ちで足を止め、もう一度空を見上げた。
すっかり暮れた空で、三日月はさっきより光を増している。
自分が前の会社で残したものは、もう私の手を離れて、若い人たちの中で静かに息づいている。それが巡り巡って、また誰かを照らしているのかもしれない。
今の私も、小さな職場で細々とした光を放っている。
評価されることもなく、大きく満ちることもないけれど、三日月のように欠けていても、見えないところで光は巡っている。
いつか、この小さな光も誰かを照らし返すかもしれない。
そう思いながら、青に変わった信号を渡った。
──────
「moonlight」「君を照らす月」「心の片隅で」の続編?です。
ベタベタな話は苦手なので、ほんのり匂わせつつ(笑)こんな形で話を続けるのは少し楽しいですね。
〈色とりどり〉
年始の街は、いつもより浮かれている気がする。
初売りに家族で出かけるのは、いつ以来だろう。正直、家で寝ていたかった気持ちもある。でも来てみると、思っていたより悪くない。
百貨店のドアをくぐった瞬間、空気が変わる。外の寒さや人混みから切り離されて、明るさと音楽と人の声が一斉に流れ込んでくる。
「やっぱり混んでるわねえ」
母はそう言いながらも、どこか楽しそうだ。
父は入口で一度立ち止まり、フロア案内を見上げてから言った。
「俺、上の書店に行ってくるよ。時間になったらいつもの喫茶店で」
それぞれの目的に分かれるのは、いつものことだった。私は母のあとについて、婦人服売り場へ向かう。
店内には、色があふれていた。
赤いセールの文字、金色の飾り、マネキンが着せられた淡い色のコート。コスメ売り場からは、花の名前がついた香りが漂ってくる。
普段からこんなに色があっただろうか、と不意に思う。
「ねえ、これどう思う?」
母に声をかけられ、マフラーを手に取る。深い緑色で、端に小さな刺繍がある。
「いいんじゃない。似合いそう」
そう答えながら、指先で布の感触を確かめる。柔らかくて、少しだけ温かい。
母は笑って、マフラーを元に戻したあと、何気ない調子で言った。
「何か上の空ね?」
「久しぶりにこういうところに来たから、色々目に入って。
ぼーっとしちゃった」
「あんた、毎日忙しいもんね。
朝早くに出て、夜遅くに帰ってくるから」
責めるでも、同情するでもない声だった。
ただ事実を言っただけの、静かな口調。
私は「そうだね」と返しながら、胸の中では自分の在り方に戸惑っていた。
仕事のある日は、決まった道しか通らない。まだ暗いうちに家を出て、夜になって帰る。見る景色は、グレーのビルと、白い灯と、スマートフォンの画面くらいだ。季節の色が変わっていくことに、気づく余裕もなかった。
忙しいのは嫌いじゃない。仕事をしている自分は、ちゃんと立っている感じがする。でも、その代わりに、何かを見落としていたのかもしれない。
エスカレーターで上の階に上がる。
見下ろすと、フロア全体がひとつの模様みたいに広がっている。人の服の色、紙袋のロゴ、照明の光。それぞれが違うのに、うるさくはない。
こんなに色とりどりだったっけ。
街も、世界も。
単一の景色しか見えていなかったのは、世界が狭かったからじゃない。自分が、そこしか見ていなかっただけだ。そう思うと、少しだけ可笑しくなる。
時間を見て、母と喫茶店へ向かう。
奥の席に、父が先に座っていた。紙袋から、分厚い本の背表紙がのぞいている。
「やっぱり混んでた?」
父はそう言って笑い、コーヒーを一口飲む。
テーブルの上には、運ばれてきた紅茶の琥珀色、ショートケーキのイチゴの赤とクリームの白、窓から差し込む冬の光。
カップを持つと、湯気が立ちのぼる。
きれいだ、と思う。
忙しい日々もきっと続くけど、無理に何かを変えなくてもいい。
顔を上げれば、世界はこんなふうに、ちゃんと色づいている。
それをきれいだ、と感じる。それだけで十分な気がした。
そう気づけただけで、有意義な一日だった。
──────
都会のお店って、何であんなに鮮やかなんでしょうね……デパ地下とかキラキラしすぎて、めまいがします……