汀月透子

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〈三日月〉

 定時のチャイムが鳴り、パソコンを閉じた。窓の外はもう薄暗く、街灯が一つずつ灯り始めている。
 退職してから三年半。母は通院と多少の介護が必要だけれど、日常生活は送れるまでになった。
 私は地元の小さな会社で週五日、事務のパート勤務をしている。

 この会社は定時で帰れるし、休みも取りやすい。その点では前の職場よりずっと働きやすい。
 けれど、昔ながらの体質が残っていて、細やかな改善を提案しても「今ので十分」と流されることが多い。書類の整理方法も、来客対応も、もう少し工夫すれば効率的になるのに、と思うことはある。
 でも、それでいいのかもしれない。ここでは私が全力で走る必要はなく、穏やかに歩く場所なのだから。

 会社を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
 ふと空を見上げると、西の空に細い三日月が浮かんでいる。
 猫の目のように細く欠けた月。けれど、よく見ると暗い部分もうっすらと光っている。
 地球照──地球を照らす太陽の反射光が月を照らす現象だと、昔どこかで読んだ。

 駅へ向かう道を歩きながら、昨夜読んだメールのことを思い出す。
 宇佐見さん──私が退職する少し前に入社した、後輩からの便りだった。

『岡部さん、お久しぶりです。お元気ですか?
 この春の人事で、瀬尾さんが課長になりました。
 相変わらず気遣いの人です。私が体調を崩して休んだ時も、『無理しないで』ってメールをくれて、翌日には業務の振り分けまで済ませてくれていました』

 ああ、あの瀬尾さんなら。
 異動してきたばかりの頃、不安そうに資料を確認していた姿が浮かぶ。その瀬尾さんが、今は誰かを気遣う立場になっている。

『岡部さんのお茶淹れマニュアル、今も使われているんですよ。
 私も新人の頃に岡部さんに教わって、今は後輩に教える立場になりました。他のフロアにも広がっていて、岡部さんの名前を知らない新入社員も活用してます』

 壁に貼られた、マニュアルの写真。
 私が書いたメモを誰かが清書して、パウチまでされているのを見ると、少し不思議な気持ちになった。
 あれは業績にも評価にも残らなかったけれど、若い人たちの間で静かに受け継がれている。私の名前が忘れられても、誰かの役に立ち、それがまた誰かを照らしている。

 信号待ちで足を止め、もう一度空を見上げた。
 すっかり暮れた空で、三日月はさっきより光を増している。

 自分が前の会社で残したものは、もう私の手を離れて、若い人たちの中で静かに息づいている。それが巡り巡って、また誰かを照らしているのかもしれない。

 今の私も、小さな職場で細々とした光を放っている。
 評価されることもなく、大きく満ちることもないけれど、三日月のように欠けていても、見えないところで光は巡っている。

 いつか、この小さな光も誰かを照らし返すかもしれない。
 そう思いながら、青に変わった信号を渡った。

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「moonlight」「君を照らす月」「心の片隅で」の続編?です。
ベタベタな話は苦手なので、ほんのり匂わせつつ(笑)こんな形で話を続けるのは少し楽しいですね。

1/10/2026, 4:14:04 AM