〈紅の記憶〉
通夜の夜、私は斎場の広間で独り座っている。喪主として、独り寝ずの番だ。
線香の煙がゆるやかに天井へと溶けていく。ずいぶん長いこと、こんな静かな夜を過ごしていなかったように思う。
物言わぬ母の横で、息子としての最後の夜を過ごす。
母が亡くなったのは、ほんの数日前。風邪をこじらせ、あっという間のことだった。
葬儀の段取りで役所や斎場を回ったとき、妻が「大丈夫?」と何度も気遣ってくれた。
その車の中で、私はふと口にしていた。
「お前にもずっと苦労をかけたな。
母さんを家で見ていた頃、デイサービスの手続きもお前がほとんどやってくれて……」
妻はハンドルを握りながら、少しだけ肩をすくめた。
「……正直、大変だったわね。パートの時間を調整したり、急に呼び出されたり。
でもね、お義母さん、私の顔は最後まで覚えていてくれたの。あれだけでも救われた気がする」
その言葉に胸が熱くなった。
母は、私の名前を忘れても、妻のことは覚えていた。
きっと、妻に世話になっている自覚がどこかに残っていたのだろう。
「本当に、ありがとうな」
「今さら。本番はこれからよ」
私の言葉に、妻は少し目を赤くして笑った。
──
母は父が亡くなったあたりから少しずつ記憶を取りこぼし、赤子に返っていた。
ここ数年はもう、私の名前も存在も思い出せなくなっていた。施設に預けてからは毎週末顔を見に行ったが、行くたびに表情の輪郭が消えていく。
それでも、私の手を握ろうとする仕草だけはどこかで覚えているようで、そのたび胸が締めつけられた。
ある週、美容ボランティアの人が来て、母に化粧をしてくれたことがあった。
母は手鏡をのぞき込んではにこやかに笑っていた。
明るい色をのせると気持ちが上向くんですよ、と説明されたが、ピンクの口紅はどこか母らしくなかった。
帰り道に妻に話すと、「可愛いじゃない、年配の方はああいう色が似合うのよ」と笑われた。
──けれど、どうしても違和感があった。
私の記憶に残る母の口紅は、もっと強い、真紅の色だ。
──
あの記憶がいつだったのか、はっきりしない。
今日こうして棺に眠る母を前にしても思い出せず、まぶたを閉じても霧のように散ってしまう。
──真っ赤な口紅。
母の唇が、あんな色をしていた日があっただろうか。
広間の灯りに照らされた棺に目をやる。死化粧は上品で控えめな色だ。
スタッフの人に「もう少し赤い口紅を」と頼んだとき、「最後に見るお顔は、派手にしないほうが印象が穏やかですよ」と諭された。
私が食い下がると、妻にも「お母さんに合う綺麗な色を選んでくださったんだから」とたしなめられた。
確かに、その通りなのだろう。けれど、どうしても胸の奥に引っかかる。
私が覚えている母は、あんな優しい色の人ではなかった気がする。もっと強い、凛とした紅をまとっていた。
……いつだ。あれは、いつの母だ。
横になって考えるうちに、ゆっくりと夜が明けはじめる。窓から淡い朱色の光が差し込んできた。光は部屋を染め、ぼんやりと母の顔を照らす。
死化粧の薄い色が、朝焼けに染められてほんのり赤く見えた。
あの日、鏡台の前で見た紅のように。
体を起こして遠い記憶を手繰り寄せた瞬間、ふと胸の奥に風が通った。
──幼い頃の、ある朝。
私はまだ夜と朝の境目がわからない時間に目を覚まし、横で寝ているはずの母がいないことに気づく。
母を探してまだ廊下に出ると、襖の隙間から小さな灯の揺れを感じた。覗き込むと、鏡台の前で口紅を引いていた母の姿があった。
真っ赤な、私が見たこともないような色だった。
母は気づかず、鏡に向かってただじっとしていた。目元がわずかに濡れていて、口紅をもつ手が小さく震えていた。
その時、障子の向こうがふいに赤く染まり、朝焼けの光が鏡台に跳ね返って、母の横顔を照らした。
──赤い唇。
ひどく綺麗で、まるで別人のように見えた。
私は怖くなって部屋に戻り、布団にもぐり込んだ。そのあとの記憶はない。
けれどもうひとつ、思い出した光景がある。
買い物帰りに、母が知らない男の人と再会した日もあった。
母は私の手を握りながらどこかぎこちなく、けれど少し嬉しそうに言葉を交わしていた。
胸の奥で、静かに何かがほどけていく。
今思えば、あの口紅と繋がる何かがあったのかもしれない。
母は、母であろうとしながら、きっと女としての時間もどこかで生きていたのだ。
私はそのすべてを知らずに、母をただ“母”とだけ呼んできた。
施設で口紅を引いてもらい、何度も手鏡に笑いかけていた母の笑顔が再び目に浮かぶ。
誰も干渉しない母だけの世界で、恋する少女になっていたのかもしれない。
──
朝になり、妻が家から着替えと朝食の握り飯を持ってきた。
「眠れた? 目が真っ赤よ」
「いいや」
温かい茶を飲み、ため息をつく。
「そういえば、昨日お焼香だけで帰られた方いらっしゃったよね。
結局誰かわかった?」
そうだ。弔問客とのやりとりに気を取られていたが、受付を締めた後の遅い時間に年配の男性が焼香して帰った。通夜ぶるまいも断られたと葬儀社の担当者が言っていた。
顔も思い出せない、父の知り合いかと思っていた。
「記帳していただかなかったし、お香典にも住所書かれてなかったし。
誰に訊けばわかるかしら……」
母の友人に名前を言えば、誰かわかるのかもしれない。
けれど、その影を深追いするのはやめた。これは母の人生で、母の物語なのだから。
朝の光が強まり、棺の中の母の唇がいっそう赤くかすんで見えた。
私はそっと手を合わせる。
──母さん。
その紅の記憶だけは、きっと忘れない。
──────
主人公、淡々と語りますけど奥さんがしっかりサポートしたおかげでは🤔(セルフツッコミ
近頃の斎場って、ホテルと思うような豪華さの客室があるんですよ。しかも朝食付。設備近隣のファミレスの朝食券ですけどね。
〈夢の断片(かけら)〉
夫が逝って半年ほど経った頃、私は自分の終活を始めることにした。
五歳年上だった夫は几帳面な人で、自分の死後の書類や手続きもきちんと整理していた。その姿をそばで見ていたから、私も同じようにしなければと思ったのだ。
けれど、押し入れの奥から取り出した古いノートを開いた瞬間、私は手を止めた。
表紙には「レシピ帳」と書かれている。中学生の頃の、少し背伸びした丸文字だ。
ページをめくると、ショートケーキ、モンブラン、シュークリーム。黄ばんでしまった雑誌の切り抜きの横に、丁寧に書き写したレシピが並んでいる。
高校生になると、ミルフィーユなど新しめの名前も出てくる。雑誌でしか見たことがないケーキでも、材料や作り方を推測して書いている。
定番のレシピにも自分なりのアレンジが加わっていた。
「レモンの皮を入れたら爽やかになるかも」
「クリームにラム酒を少し」
──その頃の私の声が、そのまま閉じ込められていた。
大学ノートに変わったページには、製菓学校の資料請求先がメモされている。その下に、小さな文字で「無理だよね」とあった。
「おばあちゃん、何見てるの?」
振り返ると、部屋の入り口から孫の由真がのぞき込んでいる。高校二年生の彼女は、スマートフォンを手に私の隣へとやって来た。
「昔のレシピノートを見てたのよ。懐かしくてね」
「すごい……おばあちゃん、こんなにいっぱい」
由真が珍しそうに古びたページをめくる。
「若い頃はね。ケーキ屋さんになりたかったの」
「え、本当に?
パパが冗談で言ってたけど、あれ本当だったんだ」
私は笑って首を振った。
「冗談よ。ただの夢。
でもね、七歳の誕生日に叔母が都会のお店で生クリームのケーキを買ってきてくれて……
あの頃はバタークリームが普通だったから、あの味は魔法みたいだったの」
「それで、ケーキ屋さんになりたいって?」
「ええ。でも高校を卒業する頃には家計が厳しくてね。弟たちもいたし……
製菓学校なんて夢のまた夢だったわ」
由真はノートを愛おしそうに撫でた。
「でも、おばあちゃんのケーキ、プロ級だよ。
この前焼いてくれたパウンドケーキ、友達と食べたら“どこのお店の?”って聞かれたくらい」
「お世辞でしょう」
「本当だよ。
小さい頃からパパがずっと「おばあちゃんはケーキ屋さんだった」って言ってたの、ずっと信じていたもん」
息子の優しい嘘が、こんなふうに由真の中で育っていたなんて。
胸が少しあたたかくなった。
そこへ、買い物から帰ってきた由香さんが紙袋を抱えて入ってきた。
「由真、進路調査のプリント書いたの?」
「まだだよ。そんなに早く決められないって」
「面談までには決めなさいよ」
由真は、わかってるよとでも言いたげに唇を尖らせた。
「お義母さん、駅前でモンブラン買ってきたので、お茶にしましょう」
「あら、アベなんとかってお店?」
「『アヴェニール ラディユー』ですよ」
私と由香さんは、よく一緒に新しい店のスイーツを味わっては感想を言い合っていた。
由香さんは私のお菓子作りをいつも喜んでくれる、気の合う嫁だ。
「これ、栗の風味が濃厚ね」
「本当ですね。でも私、お義母さんのモンブランも大好きですよ」
「栗の初物も出てきたし、作ろうかしら」
モンブランを見つめていた由真が、ふいに顔を上げた。
「ねえ、おばあちゃん。一緒に動画作ろうよ」
「動画?」
「そのノートのレシピでケーキ作って、動画サイトにあげるの。
絶対ウケるって」
由真がスマホでケーキ動画を見せてくれる。画面の中では、様々なケーキがきびきびと作り上げられていく。
「そんな、私なんか……」
「やろう? お願い」
由真のまっすぐな瞳に押されて、私は小さく頷いていた。
翌週、撮影を始める。
「はい、じゃあ始めます。ともえです」
「ゆまぴーです!」
カメラに向かって手を振るなんて初めてで、私は少し恥ずかしかった。
「今日は、昔のレシピノートから、いちごのショートケーキを作ります」
私はゆっくりとスポンジを焼き、生クリームを泡立てた。手が震えてデコレーションに時間がかかると、由真が笑いながら言う。
「焦らなくて大丈夫だよ。ゆっくりでいいし、失敗しても編集しちゃうから」
最後に、由香さんがマジパンで作ってくれた“私”と「チャンネル登録してね」のプレートを飾ると、画面越しでも嬉しくなるような一皿になった。
「美味しそう!」
撮影を終え、由真が親指を立てる。
私たちは紅茶でささやかな打ち上げをした。
「動画、編集できたよ。アップしていい?」
「え、もう?」
「うん。絶対、みんな喜んでくれるよ」
数日後、最初の動画は千回再生を超え、コメント欄は優しさでいっぱいになった。
「おばあちゃんの手つきが丁寧で癒されます」
「レシピ、真似して作ってみます!」
由真は撮影の角度を研究し、BGMを選び、編集の技術をどんどん磨いていった。
私は、忘れていた記憶を拾い集めるようにレシピ帳をめくり続けた。
三ヶ月後、チャンネル登録者数は一万人を突破した。
相変わらず、コメント欄は優しい。
「ともえさんケーキ、どこに行けば食べられますか!w」
「ゆまぴー、ウラヤマシス」
一つ一つ読むたびに、頬が緩む。
動画サイトを見ている私の横で、由真がぽつりと呟く。
「私、勉強したいことが見えてきた気がする」
「えっ?」
「フードコーディネーターっていうのかな。
それだけ目指すのも難しいけどさ」
由真は、色んな学校の資料をテーブルの上に並べる。
「ケーキをどう撮るか、どう見せるかを考えるの、すっごく楽しくて……
最初はただバズらせたいだけだったけど、色々研究するうちにやりたいことが見えてきたっていうか」
私は驚きながらも、胸の奥が熱くなった。
「おばあちゃんが夢を完全には捨ててなかったから、私も気づけたの。
ありがとう」
照れながら笑う由真の瞳は、未来に向けて輝いていた。
画面の向こうで、誰かが私のレシピで笑顔になっている。
私はケーキ屋にはならなかった。けれど、私の夢のかけらが由真の道しるべになり、ケーキで誰かを幸せにできた──
それは、七歳の私が思い描いた夢よりも、ずっと大きな幸せだった。
世の中は、新しいケーキが増え続けている。私もまた、新しくレシピノートを作ろう。
ノートの最初のページに、私は万年筆を走らせた。
「夢は、かけらのままでも光を放つことができる」
──────
またおばあちゃんと孫です。同居してお嫁さんと仲がいいシリーズです。
ファンタジー()でいいの、私が読みたいんだから(
つーか、こういうの書くとケーキ食べたくなるのよねぇ……
〈見えない未来へ〉
離婚届を折らないように透明なクリアファイルへ滑り込ませ、カバンにしまう。
役所を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を刺した。深い呼吸が喉の奥で震え、長く重たかった時間がようやくほどけ始める。
結婚してから住んだのは、私の実家から二十分程度のところだった。
子どもが生まれたら母に手を貸してもらえるように──“そうなるはずの未来”を疑いもせずに描いていた。
でも未来は一度も私たちのほうを向いてはくれなかった。
──
夫への違和感は、些細な日常の継ぎ目から漏れた。
遅くなることが増えた帰宅。増えていく「今日は出張で泊まる」という連絡。帰宅後すぐに浴室へ向かう足早な背中。浴室から聞こえてくる、ひそやかに返信する気配。
問いただす前に、確かな形を集めようと私は静かに動いた。
夫が無防備にごみ箱に捨てていたクレジット明細。見覚えのないレストランの名前。日付も時間も、夫の言う出張と一致しない。
出張の夜のスマホの位置情報は、県外にも職場にもない場所に灯りをともしていた。
そして深夜、夫が寝たあとに画面に残っていた短い通知。「早く会いたい」。
そこまで揃えば、もう見なかったことにはできない。私はもう目をそらさず、スマホで探偵事務所を検索した。
──
対峙したのは、雨の音が強くなり始めた土曜の夕方だった。不倫相手のところにも、内容証明が届いている頃だ。
夫がリビングでTVをつけたままぼんやりしていたので、私は窓際のテーブルに探偵事務所からの報告書やクレジット明細、夫のスマホ画面を撮影した画像を静かに並べた。
「話したいことがあるの」
その言い方だけで、夫は何かを察したのだろう。リモコンを置き、姿勢を正すでもなく、ただ少しだけ眉が動いた。
「これ、見てくれる?」
私が証拠を差し出すと、夫は一枚ずつ目を通した。
表情は、変わらなかった。驚きも、言い訳の気配も見せなかった。ただ、逃げ場を探すように視線だけが揺れた。
「……誰?」
静かに問いかけると、ほんの一拍ののち、夫は小さな声で言った。
「……会社の人だ」
報告書に書かれていることとは違う。ため息が出る。
「その“会社の人”と、この店に行ったんだよね。それから──ここ。」
私はスマホの画面を示した。
不倫相手の住所に夫の位置情報の点が記された地図、そして短い通知の文。夫は視線を逸らし、両手を膝の上で組んだ。
「いつから?」
「……去年の秋くらい」
あまりにも淡々とした声だった。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに切れた気がした。もう戻れないところまで来ているのだと腑に落ちた。
「妊活を始めた頃だよね」
泣きそうになるのを懸命にこらえ、夫の表情を伺いながら尋ねる。
「私たち、子どものこと、ずっと頑張ってたよね。
あなたも“欲しい”って言ってたよね」
夫は黙ったまま俯き、答えは返ってこなかった。
その沈黙こそが、私たちの関係の終点を告げていた。
「……離婚しよう。
何をどう取り繕われても、もう一緒には歩けない」
ふたりの間に、雨の音が落ちていく。
夫はほんの少し肩を震わせ、そしてあきらめたように目を閉じた。
「……悪かった」
その謝罪は、不思議なほど軽かった。
軽さが悪いのではなく、そこに“戻りたい”という意思が一つも含まれていなかった。その事実を、私は静かに受け入れた。
──
役所を出たあと、気がつけば私は川のそばまで歩いていた。
ここは子どものころ、友達と石を投げ、水切りをして遊んだ場所だ。夕暮れの光に照らされる水面が、懐かしい記憶を鮮やかに呼び起こす。
あの頃の私は、未来は無限に続いていると思っていた。結婚して、家族が増えて、笑い声に満ちた生活を築くと疑いもしていなかった。
“幸せな未来”を当然のように描いていた自分が、今の私を見たらどう言うだろう。
「よく頑張ったね」か。「早く逃げて」か。それとも、黙って抱きしめるだけか。
どれでもいい。どれも正しい気がした。
川面に視線を落としていたときだった。
「……薫、だよな?」
ふり返ると、そこには修平が立っていた。小学校の同級生。
互いに距離を保ちながら、軽い挨拶を交わす。
「久しぶり。こんなとこ来るんだな」
「修平こそ」
沈黙が気まずくなく、むしろ落ち着いた。
私はふと、今の自分を隠す気になれなくなっていた。
「……離婚するのよ。今、届けもらってきたところ」
修平は驚きすぎず、同情しすぎず、ただ受け止めるように頷いた。
「大変だったな」
その一言に、肩の力が抜けた。
「俺も最近、会社辞めたところ。
ブラックな会社で消耗してて、未来なんて全然見えないよ」
「そうなんだ」
「まあ……そういう時もあるよな」
互いに踏み込みすぎない距離。けれど十分に温度のある言葉。
夕陽が沈みきるころ、修平がふと空を見上げて言った。
「薫。落ち着いたらでいいけど……どっかでコーヒーでも飲もうか。話したくなったらでいい」
「この辺に住んでる奴らを誘って、飲み明かすんでもいい」
期待も圧もない、静かな提案だった。
「……うん。落ち着いたら」
そう返すと、修平は一度だけ頷き、去っていった。
残された私は、カバンの中のクリアファイルが鳴る音を聞きながら歩き出す。
未来はまだ見えない。でも、見えないからこそ選び直せる。
夫の不倫相手との”バトル”も待っているから、立ち止まっている場合ではない。むしろ、その事実が私の背筋を伸ばす。
“見えない未来へ”。
その言葉が、少しだけ前向きに胸の中で灯った。
──────
もっとドロドロしたり長期化するかもしれないけど、ほら読後感すっきりするために、淡々としないと。
(表現力のなさを露呈する
〈吹き抜ける風〉
風が冷たい。三月の終わりとはいえ、山あいの町はまだ冬を手放しきれずにいる。
私は古びた校門の前で立ち止まり、ゆっくり息を吸った。かつて朝の声が満ちていた場所。
今はただ、吹き抜ける風だけが通り過ぎていく。三十五年前、初めてこの学校に赴任したときと同じように。あの日も、こんな風が吹いていただろうか。
明日、この校舎は取り壊される。
「清原先生、鍵、開けますね」
隣には元木──私がこの中学校に初めて赴任した年、初めて担任したクラスにいた教え子が立っている。
今では立派な中年男性になって、市役所に勤めている。管理課の職員として、この廃校の最期を見届ける。
「忙しいのに、すまんな」
「いえ。先生の初任校ですから。
俺もやることあるんで」
しばらく開け閉めしていなかったせいか、少し錆びた鍵が重い音を立てて回る。扉が開き、冷えた校舎の空気が押し寄せてきた。
薄暗い校舎はかつての喧騒を失い、時を止めていた。
「少子化の影響もあるんですが、校舎自体がもう古くて耐震基準に見合わないんですわ。
再利用も検討したんですが」
市内の人口も減っている。時代の流れだ、仕方ない。
「先生はゆっくり回ってきてください。俺は設備の最終確認してきます」
そう言って、元木は事務室へ消えていく。
私は、ひとりになった廊下を歩き出した。埃と共に、ここでの記憶も舞い上がってくる。
最初に立ち寄ったのは、理科室。窓際に並んだ人体模型が、私を見下ろしている。
ここで若い理科教師と夜遅くまで教材研究をした。教科書だけでは学べない、興味から学びへ結びつけるためのアイデアを出し合った。
彼は今、どこで何をしているだろう。
音楽室。ピアノは撤去されたが、壁に貼られた作曲家の肖像画はそのままでひっそりと見守っている。
合唱コンクールの練習で、クラスが思うようにまとまらず指揮者の女子生徒が泣いていた。茶化していた男子生徒たちは彼女の涙に動じることはなかったが、最終的には女子たちにやりこめられ、まとまっていた。
コンクールで見事に歌い上げたあとには、達成感から感極まって泣く男子もいたくらいだ。
放課後の家庭科室では、思春期の女子たちがいつも小さく固まっておしゃべりをしていた。
テレビやドラマ、アイドルの話。人間関係、家族との付き合い方、秘密の恋……
もちろん、トラブルもあった。彼ら彼女らのキャパシティを超え、どうにもならなくて仲裁に入ったことも多かった。
「人を傷つける言葉は、思っているより長く残る。大人でも忘れられないことがある。
君たちは、それを知ったうえで選べる人になってほしい」
思春期の心の揺れは厄介だが、その分だけまっすぐだった。
若さの揺らぎ、その真っ只中で、不安や恥ずかしさと闘っている姿が愛おしかった。
階段を上がる。手すりは冷たく、滑らかだ。何千人もの子どもたちが、ここを駆け上がり、駆け下りた。
元木がどこかの窓を開けたのだろう、吹き抜ける風が廊下を渡り、私の頬をなでる。
私もまた、様々な学校を渡り歩いた。風のように、一つの場所に留まることなく。
この学校で過ごした数年間が、教師としての私を形作った。
風に流されるように、けれど確かに自分の足で歩きながら、いくつもの中学校を巡ってきた。
そのたび生徒たちと衝突し、笑い、泣き、また次の学校へ旅立っていった。
そんなことを思い出しながら、最後の教室の前に立った。
初めて担任を持ったクラス。元木もこの部屋で机を並べていた。
ドアに手をかけた瞬間、胸が強く締めつけられた。
だが、ゆっくりと開けると──
「せんせー、遅いよ!」
声が弾けた。
私は固まった。
整えられた机のほとんどに、大人になった教え子たちが座っていた。
卒業した年の生徒だけでなく、私がこの学校にいた数年の間の下級生たちまでいる。十数人、二十人……いや、それ以上だ。
最前列には元木が立っていた。どこか誇らしげに。
「三日前に先生から電話もらったとき、集まれるやつに声かけたんです。
来られないやつもいるけど……ほら」
何人かが、スマホやタブレットを持っている。ビデオ通話や会議システムの向こうで、何人もの顔が笑っていた。
「先生ぇ、聞こえる?」
「おーい、清原先生!」
「遅刻したら怒られるの、先生の方だな!」
思春期の頃と変わらない軽口が飛び交う。
笑い声が、風と一緒に胸の奥まで入り込んできて、言葉を奪った。
「……お前ら」
やっと出た言葉はそれだけ。
だが彼らは、あの頃と同じように嬉しそうに笑った。
私は教卓の前に立った。かつて何千回も立った場所。長い教師人生で、何度もした姿勢が自然と体に戻る。
黒板には、誰かが書いたのだろう、「最後の授業」という文字があった。
「最後の授業をしよう」
静まり返る教室。
胸が熱くなり、目が滲む。
「──私は教師として、君たちに何かを教えてきたつもりだった。
けれど、思春期の揺れる心と向き合い、学ばせてもらったのは、私の方だった。
ぶつかり、悩み、励まし合い……私がここまで来られたのは、君たちがいたからだ」
風がまた窓から吹き抜ける。
まるで私の言葉に応えるように、優しく、とてもあたたかく。
「ありがとう。私は幸せな教師だったよ。
今日まで歩いてこられたのは、間違いなく君たちのおかげだ」
拍手が、波のように広がった。
画面の向こうからも、遠い街からも、同じ音が響いた。
「先生、最後に一つだけ、いいですか」
元木が言った。
「この学校は明日なくなります。
でも、先生がここで教えてくれたことは、俺たちの中に残ってる。それって、すごいことですよね」
そうだそうだと、生徒たちが皆思い出を語り始める。忘れがたい、セピア色に変わり始めている思い出たち──
私はそっと目を閉じる。
吹き抜ける風の中に、自分の歩いてきたすべての季節があった。
私は風だった。一つの場所に留まらず、様々な学校を巡った。
でも今、改めて認識する。
風として私が運んでいたのは、ここで学んだすべてだったのだと。この教室で初めて「先生」と呼ばれたときの、あの感動だったのだと。
そして今、この教室いっぱいの笑顔が、私の最後の授業を照らしていた。
吹き抜ける風の中で、私は最後の礼をした。
──────
夢路行氏「あの山越えて」という作品があります。
リアルでもあるし、現代の学校ものとしてはある意味ファンタジーなのかもしれない作品です。
でも、親身になってくれる教師が奮闘するお話は、読んだあと自分の子供の頃の担任を思い出してしんみりします。
今は先生の負担が大きすぎますよね……
〈記憶のランタン〉
その夜、私はいつもより遅くまでテレビの前にいた。
夜空にゆっくりと昇っていく、たくさんのランタン。オレンジ色の光が、まるで星のように輝いているのをプリンセスが見ている場面だった。
風にあおられながら、ふわりと昇っていく光の粒たち。すごくきれい。
「……ああ、懐かしいねえ」
隣の座椅子に座っていたひいばあが、ぽつりと言った。
私は驚いて顔を向ける。
いつもは「あらきれいねえ」とか「最近の映画は難しくてねえ」なんて言うだけなのに。
「懐かしいの?」
「ああ……」
ひいばあは、テレビの向こう側の、もっと遠くを見ているようだった。
「ひいばあ、この映画見たことあるの?」
私が聞くと、パパが教えてくれた。
「台湾のランタンかなぁ……
ひいばあは子供の頃、ひいばあのお父さんの仕事で台湾に住んでいたんだよ。
その頃に見たんだろうね、ランタンを」
私は目を丸くした。ひいばあが台湾に?
同じ家で暮らしているのに、そんな話、聞いたことがなかった。
映画の光景が、急に本物の景色みたいに思える。私は胸がわくわくして、もっと知りたいと思った。
ひいばあは何も言わずに、ただ画面を見つめていた。
──
次の日、私はタブレットで調べてみた。
台湾。地図で見たことはあるけれど、よく知らない場所。
「台湾 ランタン」──検索すると、夜空に舞う光の祭りの写真がたくさん出てきた。お祭りみたいできれいだった。ひいばあが見たのも、こんな景色だったんだろうか。
でもスクロールする指が止まった。
「台湾 昔 日本」と調べていくうちに、私は知らなかったことをたくさん知った。
「……太平洋戦争……?」
関連ページには、戦争、終戦、引き揚げという言葉が並んでいた。
太平洋戦争。日本が台湾を統治していたこと。そして終戦。引き揚げという言葉。着の身着のまま帰ってきた人たちのこと。戦後の食べ物のない暮らし。
学校では習わなかった。いや、習ったのかもしれないけれど、それが自分の家族のことだとは思わなかった。
読んでいると、胸がぎゅっとしめつけられた。 ランタンのある思い出がきれいな分だけ、そのあとにあったものが、余計に重く感じられた。
──
夕方、夜ご飯の支度をしているばあちゃん—ひいばあの娘—に聞いてみた。
「ばあちゃん、ひいばあが台湾から帰ってきた時のこと、知ってる?」
「あら、パパから聞いたの?」
ばあちゃんは少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと話してくれた。
「私が生まれたのは、戦争終わってから十年経っていたし、直接は知らないけれど……
お母さんが引き揚げてきた後は大変だったみたいよ。何も持たずに帰ってきて、食べるものもなくて。
あまり昔のことを話さなかったの。つらい思い出だったんでしょうね」
物語のように思っていた「戦争」、身近な人にが体験してたこと。
氷を背中に入れられたように、寒くなる。
「……そんなの、学校じゃ習わないよ」
「そうね。
でもね、家族の中にだけ残っていく歴史もあるのよ」
ばあちゃんの声は静かだった。
私は、ひいばあにそんな“秘密みたいな歴史”があったことに胸がざわついた。
──
夜ご飯のあと、私はひいばあの部屋へ行った。
ひいばあはベッドで横になりながら、ラジオを聴いていた。
「ひいばあ、台湾のこと教えて」
「あらあら、そんな昔のこと」
「イヤだったら話さなくていいよ」
少し考えたあと、ひいばあはよっこいしょと体を起こして、ちょっとずつ話してくれた。
ひいばあのお父さんが台湾の会社で働いていたこと。
暖かい気候のこと。
市場で食べたマンゴーの甘さ。
隣に住んでいた女の子、おさげ髪の佳玲ちゃんのこと。一緒に遊んだ路地。
そして、ランタン祭りの夜。
私は、タブレットで見たランタン祭りの光景を思い浮かべる。
「きれいだった?」
ひいばあはゆっくり目を細めて笑った。
「きれいだったよ。空がね、光の花でいっぱいになるんだよ。
ひとつひとつにね、願いが込められてるんだ」
「ひいばあは、何をお願いしたの?」
問いかけると、ひいばあは天井を見上げて、遠い昔に呼びかけるように言った。
「……家族が無事でありますようにって。
戦争のことが聞こえてきてね、毎日が不安でいっぱいで……だから、そう願ったんだよ」
私は息をのんだ。
ランタンは、ただきれいなだけの光じゃなかった。
ひいばあは、その後のことも話してくれた。
ある日突然、帰国命令が出たこと。
佳玲ちゃんに会えなくなったこと。
船に乗って帰ってきたこと。
日本に着いても、家はなく、食べ物もなく、毎日が必死だったこと。
佳玲ちゃんと別れたときの話で、ひいばあは悲しそうな顔をした。
私もつられて泣きそうになる。
「怖くなっちゃったかね」
あわてて、ひいばあが私の頭をなでる。
「つらいことばかりじゃなかったよ、結婚して子供が生まれて、孫が生まれて。
こんな可愛い幸ちゃんも生まれてきた」
「向こうでの暮らしは、本当に楽しかった。
佳玲ちゃんと遊んだことも、あのランタンの光も、ひいばあの中でいい思い出なんだよ。
忘れたくないこともたくさんある」
「ひいばあ……」
私の目から、涙がこぼれた。
「幸ちゃん」
ひいばあは私の手を取った。
「覚えていてくれる? ひいばあの昔のこと」
私はひいばあの手をそっと握った。しわくちゃで、でもとてもあたたかい手。
「忘れないよ……
ひいばあの思い出を、私が消さないようにする」
そう言ったら、ひいばあは目を細めて笑った。
「ありがとう。
あなたが覚えていてくれるなら、ひいばあの人生も、無駄じゃなかったわね」
ひいばあが見上げたランタンは、消えてしまったわけじゃない。
ひいばあの小さな願いが、空へ昇っていった証だったんだ。
ひいばあの思い出の中で、私の中で受け継がれている。
私は記憶のランタンをひとつ受け取ったような気がした。
──
それから私は決めた。少しずつ、ひいばあの話を書いていこうって。
ひいばあは最初おろおろしてたけど、
「忘れないうちに、幸ちゃんに伝えないとね」
と、色んなことを話してくれるようになった。
そして、教えてもらった地名で検索して、今の画像をタブレットで見る。
「母さんばっかり幸奈に色々教えてもらって」と、ばあちゃんも一緒になって見るようになった。
いつか、その空に、本物のランタンが浮かぶところを見てみたい。ひいばあと一緒に。
ひいばあは「もっと長生きしなくちゃねぇ」と笑ってる。
歴史の教科書には、年号と出来事しか書いていない。でも、その一つ一つに、ひいばあみたいに生きた人がいる。笑って、泣いて、大切な思い出を持っている人が。
私も、ひいばあの大切な思い出を誰かに伝えたい。
記憶という名のランタンを、未来へつないでいくために。
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ランタンと言えばあのプリンセスらしいんですが、どうも原作とランタンが結びつかない……(映画未見
おばあちゃんの記憶と言えば、しわしわで柔らかい手です。