汀月透子

Open App
11/12/2025, 11:45:33 PM

〈心の迷路〉

 定年を迎えて三ヶ月。
 家の中に、時間が余るというのはこういうことかと、最近ようやく実感している。

 午前の光が差し込むリビングで、コーヒーを飲みながら求人誌を眺める。
 仕事を探しているというより、ただページをめくっているだけだ。
 何をしたいのか、何ができるのか、自分でも分からない。

「また見てるの?」

 妻の声がした。
 とっさに顔を上げると、冷ややかな視線が突き刺さった。
 笑ってごまかしたが、その笑いがどんな意味を持つのか、彼女にはもう見透かされている気がする。

「いや、まだ決めかねていて」
「あなたの好きにすればいいじゃない」

 そう言い残して、妻は庭へ出ていった。小さく閉まるドアの音が、胸に響く。
──この家にいるのに、妻との距離が昔より遠く感じる。

 働いているあいだ、家庭は妻に任せきりだった。
 単身赴任の間も、彼女は不満を言わなかった。いや、言わせなかったのだろう。自分は家族のために働いている、そう信じて疑わなかった。
 けれど今思えば、あれは「逃げ」だったのかもしれない。仕事という名の言い訳に身を置いていれば、心の不安を考えずに済んだからだ。

 窓越しに、庭のバラを剪定する妻の姿が見える。
 細い枝を切る白い手。いつの間にか小さくなった後ろ姿に、彼女が背負ってきた年月を見る。

 俺たちはいつから、こうしてすれ違うようになったのだろう。同じ家にいながら、別々の時間を生きてきた。
「仕事が落ち着いたら」「子どもが大きくなったら」
 そう言い訳しながら、約束の旅も、何度も先送りにしてきた。

 リビングの時計の音だけが響く。
 求人誌を閉じて立ち上がるが、なかなか声が出ない。
──話しかける。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。

「なあ」

 ようやく声を出すと、妻が振り返らずに答えた。

「何」
「もう一度、旅の計画を立てないか。
 あの頃、行きたいって言ってた場所——」

 返事はすぐには返ってこなかった。代わりに、切り取られた枝が小さく地面に落ちる音だけがした。
 次の瞬間、彼女の声が震えていた。

「ずっと私は待っていたのよ。
 でも、あなたはいつも仕事。私は一人で子育てして、一人で悩んで、一人で生きてきた。
 今さら寄り添うなんて、簡単に言わないで」

 言葉が見つからなかった。胸の奥が、締めつけられる。
 彼女の声は怒りではなく、長い年月を積もらせた悲しみそのものだった。

 俺は何をしてきたのか。
「家族のために」という言葉の影で、心の距離を広げてきただけじゃないのか。
 仕事に逃げ、責任を盾にして、愛情を後回しにしてきた。その迷路の出口を、見失ったまま立っている。

 何かを言わなければと思った。けれど、どんな言葉も軽く響くだけだ。
 それでも、口を開いた。

「……旅じゃなくていい。一緒にできることを考えてくれないか。
 庭の手入れとか、そんな小さなことでも」

 彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かに言った。

「じゃあ、草むしりから始めましょうか」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけた気がした。
 たぶん、まだ許されたわけじゃない。
 けれど、迷路の中にも、光が射す瞬間はある。
 そこからまた歩き出せばいい。

 振り返ると、バラの枝越しに見えた妻の横顔が、ほんの少し柔らかかった。
 その表情を、長い間見逃してきたことに気づく。

 風が庭を抜け、バラの花びらが一枚、俺の肩に飛んできた。
 拾い上げると、指先にほのかな香りが残った。

 人生の後半に入っても、人の心は簡単にはわからない。
 けれど、分かろうとすることはできる。それが、迷路を抜けるための最初の一歩なのかもしれない。
 心の迷路は、まだ続く。だがその奥に、もう一度出会える道がある気がした。

──────

以前書いた「旅は続く」の夫側ストーリーです。
妻側か夫側か悩んで、夫側はボツにしてました。

どうしたらいいのかわからない夫さんの扱い、妻さん側も迷うもんですよ……

11/12/2025, 7:01:40 AM

〈ティーカップ〉

 外は風が強くて、木々がざわざわと鳴いていた。
 冬の初めの空気は乾いていて、ひとりでいると、なんだか胸の奥まで冷えてくるようだ。

 食器棚の奥から、久しぶりにあの箱を取り出した。紺色のビロードの箱。中には磁器のティーカップとソーサーが二客眠っている。白地に淡い金の縁取り、小さな花々と緑の葉。指でなぞると、ひんやりとした磁器の感触が伝わってくる。
 これを最後に使ったのは、いったいいつだったろう。たしか、夫が亡くなる少し前──二人で小さなケーキを分け合って、おしゃべりをした午後だ。

 その夫が、このカップを買ってくれたのは初めての結婚記念日だった。新宿の百貨店で、私はお小遣いの範囲で買えるものを見ていたのに、彼が「どうせならいいものを」と言って、ずいぶんと高いティーカップを差し出したのだ。
「他のは少しずつ揃えような」と、彼は言った。
 けれど、息子が生まれ仕事に家事に追われるうちに、そんな余裕はなくなってしまった。
 あのブランドも、日本から撤退したと聞いたとき、夢がはじけて消えてしまったようで寂しかった。

 そんな思い出をたどっていると、玄関の方から声がした。
「ふみさん、ただいまー。英国展、すっごい行列でしたー」
 息子の嫁、佐和子さんが息を弾ませて入ってくる。手には百貨店の紙袋。
「さすが人気の店、スコーンが残り二個。危なかったぁ」
「あなたにお任せして正解ね、行列っていうだけで私はパス」
「ふみさんのためなら、並ぶのなんてなんのそのですよ」
「はいはい、口のうまいこと」
 思わず笑ってしまう。ほんとにこの人は、いつも調子がいい。

「ご指定のクロテッドクリームもありましたよ。
 このレモンケーキも美味しそうで地下で買ってきました」
「まあ、素敵。じゃあ、お茶を入れましょうか」

 佐和子さんがスコーンと焼き菓子をトースターで温める。リベイクというらしい。
 ケトルが小さく唸り始める。湯気が立ちのぼる台所に、甘い香りがただよう。
 私はそっと、さっきのティーカップをテーブルに置く。

「あら素敵なカップ。初めて見ました」
「とっておきよ。普段使いは絶対ダメ」
「取り扱い注意ですね」
 佐和子さんは「ふふ」と笑って、温まった菓子とスコーンを皿に並べ、ジャムとクリームを添える。気づけば、テーブルには可愛いブーケも飾られている。

「さあ、ふみさん。
 アフタヌーンティーのお支度ができましたよ」
「素敵……本当に百貨店のティールームみたい」

 カップを持ち上げる。軽い。薄い磁器が光を透かす。口をつけると、懐かしい感触が唇に触れた。
 温かいスコーンに、佐和子さんが驚くほどクリームを盛り、ジャムをのせて頬張る。
 佐和子さんの手作りジャムは、甘味と酸味のバランスが丁度良く、クリームと共にスコーンの小麦の味を引き立てる。
 そこでまた紅茶を口に含むと、香りが鼻に抜けていく。

「美味しいわ」
「良かった。ふみさんが喜んでくれて」

 手にしたティーカップを、そっと手で包み込む。
「これね、結婚記念日にって夫に買ってもらったの。
 若い頃はね、これでアフタヌーンティーをするのが夢だったのよ」

 ティーポットからおかわりを注ぐと、紅茶の香りがふわりと広がる。琥珀色の液体の向こうに、昔の私がうっすらと見える。
 忙しくて余裕がなくて、それでも楽しかった日々。初めてのアフタヌーンティーは、ティーバッグの紅茶に、駅前の和菓子屋さんで売っていたカステラ。
 イギリス映画の中に出てくるティースタンドに憧れたけど、夢また夢。せめて雰囲気だけでもと、背伸びして買ったティーカップ。
 小さなちゃぶ台にそれらしく並べて、二人で笑いながらお茶を飲んだ──

「ふみさん、夢は叶ったじゃないですか」
「そうねえ、美味しいものばかりで嬉しいわ」

 ティーカップの金の縁取りが光を受けて、ほんのり輝いている。湯気の向こうで、佐和子さんが笑っている。その笑顔を見ていると、ほんのりと心が温まる。
 夫のいない寂しさは、消えることはない。でも、その隙間をそっと埋めてくれる人がいる。

「おいしかった。……買ってきてもらったの、全部食べちゃったわね」
「大丈夫、レモンケーキ残ってますし。
 一雄さんには栗きんとんも買ってきました」
 息子が紅茶よりは緑茶が好きなことをわかってる、さすがは佐和子さん。この人がいて、本当に良かった。

「ふみさん、今度ホテルのアフタヌーンティー行きましょうよ」
「嫌よ、混んでいるんでしょう」
「予約すれば大丈夫ですよ、マダム二人でおしゃれして楽しみましょうよ」
「あら、あなたマダムになれるの」
「……努力します」

 笑い声と紅茶の香りが、やさしく部屋を満たしていく。
 昔の約束の続きを、ようやく果たしているような気がした。

──────

ふみさん佐和子さんの嫁姑漫才です。
ふみさんの若い頃だから、ティーバッグが出たばかりの昭和30年代でしょうか。ミントンのグリーンウィッチ、欲しかったなぁ……

佐和子さんが買ってきたレモンケーキ、ホントは長い名前がついてます。
「なんとかカカオ?の、なんとかクーヘン」。ああ、美味しい紅茶と一緒にいただきたい。

11/10/2025, 3:02:59 PM

〈 寂しくて〉

 結婚して初めての秋は、静かに過ぎていく。
 窓の外では冷たい雨が降り続いている。十一月も半ばを過ぎて、夜になると部屋の空気がひんやりと肌に触れるようになった。
 暖房をつけようかと迷っているうちに、妻がそっと俺の背中にくっついてきた。

「寒い」
 小さな声でそう言って、妻は俺のシャツの裾を掴んだ。
 二歳年下の彼女は、こういう時まるで子どものようだ。

「暖房つけようか」
 そう言いかけたけれど、妻は首を横に振った。

「寂しいからこうしてたい」
 ぽつりと呟いて、彼女は俺の腕に自分の頬を押し付けてくる。その温もりが妙に愛おしくて、思わず抱き寄せようとしたら、するりと身をかわされた。
 振り返ると、妻はいたずらっぽく笑っている。

「なんだよ」
「だって」

 猫みたいに気まぐれなやつだ。結婚前から知っていたけれど、一緒に暮らし始めてからその傾向はますます顕著になった。
 べったりくっついてきたかと思えば、こちらから触れようとすると逃げていく。でもまた数分後には、何事もなかったように側に寄ってくる。

 ソファに座ってテレビを眺めていると、妻が今度は俺の隣に腰を下ろした。
 そしてまた、そっと俺の腕に触れてくる。

「ねえ」
「ん?」
「私ね、小さい頃、両親が共働きだったから」
 妻は俺の腕を両手で抱えながら、どこか遠くを見るような目をした。

「学校から帰ってきても誰もいなくて。
 鍵開けて、一人で家に入って。冬はすごく寒かったの」
 テレビの光が彼女の横顔を淡く照らしている。

「ストーブつけて、宿題して、でもやっぱり寒くて。
 寒いと余計に寂しくなって」
 妻の指先が、俺の腕をぎゅっと握りしめた。

「だから、寒くて独りきりは寂しくて嫌なの」

 その言葉に、少し切なくなった。俺は何も言えずに、ただ妻の頭にそっと手を置いた。彼女は抵抗しなかった。

 外では相変わらず雨が降っている。冷たく窓を叩く音が静かに聞こえる。

──俺も独りは苦手だ。

 一人暮らしをしていた頃、休日に誰とも話さずに一日を終えるのはしょっちゅうだった。そんな夜は、部屋がやけに広く感じられて、自分がひどく小さな存在に思えた。
 誰かに電話しようかと考えても、こんな夜に誰を呼び出せばいいのか分からなくて、結局何もせずに布団に潜り込んだ。
 でもそんなこと、彼女には言ったことがない。

「寂しいのは俺も同じだよ」
 そう素直に言えたらいいのに、言葉は喉の奥で止まってしまう。代わりに俺は、妻の肩にそっと自分の頬を寄せた。

「あったかい」
 妻がぽつりと言った。

「うん」
 俺も小さく応えた。

 妻の温もりが、俺の腕に伝わってくる。そして俺の温もりも、きっと彼女に届いているんだろう。
 寂しいのは妻だけじゃない。俺もずっと、誰かの温もりを探していたんだと思う。

 テレビの音が遠くなっていく。外の雨音も、いつの間にか子守唄のように聞こえ始めた。

 妻の呼吸が、ゆっくりと穏やかになっていく。俺の腕を抱えたまま、彼女はうとうとし始めているようだった。その重みが心地よくて、俺も少しずつ瞼が重くなっていく。

 もう一人じゃない。
 そう思ったら、不思議と安心した。

 これから訪れる寒い冬も、冷たい雨も、二人ならきっと大丈夫だ。
 互いの温もりを感じながら、俺たちは静かに眠りに落ちていった。

 窓の外では、まだ雨が降り続けている。

──────

脳内BGMは太田裕美「雨だれ」です。
情景が浮かぶような展開を書くのは難しい……

11/10/2025, 3:46:37 AM

〈心の境界線〉

 夕方の研究室は静かだった。
 ゼミ生たちが帰った後、私は机の上に広げた資料を眺めながら、今日の議論の余韻に浸っていた。
 指導教授が「視点が面白い」と言ってくれた私の発表。それに対して誰よりも真剣に意見をくれた瀬川くんの言葉。充実感が胸を満たす。

「田村さん、もう少しいい?
 さっきの論点、もう一回話したくて」

 瀬川くんが声をかけてきた。いつものことだ。
 ゼミ後、二人で議論を続けるのは珍しくない。私たちは同じ理論に興味を持ち、同じように貪欲に学ぼうとしている。

「いいよ。どの部分?」

 私が椅子を引くと、彼は自分の椅子を少し近づけて座った。
 資料を指差しながら話し始める彼の横顔を見て、ふと、先週の飲み会での友人の言葉を思い出した。

「瀬川くん、絶対田村のこと好きだよね」

 そんなわけない、と私は否定した。
 彼は研究仲間として私を見てくれている。対等な議論相手として、尊重してくれている。それが何より心地いいのだ。

「──田村さん、聞いてる?」

「あ、ごめん。もう一回言って」

 議論が再開する。彼の意見は鋭く、私の考えを深めてくれる。
 こういう時間が、私は好きだった。恋愛に時間を費やすより、今はこうして学ぶことの方がずっと面白い。

 でも。

 ふと訪れた沈黙の中で、彼の視線を感じた。
 資料を見ているはずなのに、彼は私を見ている。

 心臓が跳ねる。

 瀬川くんが口を開きかけて、やめた。喉が小さく動くのが見えた。
 この沈黙が何を意味するのか。彼が言おうとしている言葉が、どんなものなのか。
 頭の中で、様々な想像が駆け巡る。もし彼が告白したら、私はどうする?

 断れば、この関係は壊れてしまう。毎週のゼミ後の議論も、気軽に意見を交わし合える空気も、きっと失われる。

 では受け入れる?
 それも違う。今の私は恋愛に傾ける時間が惜しい。研究が面白くて、もっと学びたくて、この充実した日々を手放したくない。
 そして何より、彼と対等に議論できる今の関係が、一番心地いい。

 私は立ち上がった。

「そろそろ閉めようか。明日も朝から授業だし」

 瀬川くんは一瞬、寂しそうな表情を見せた。でもすぐに「そうだね」と頷いて、立ち上がる。

 二人で資料を片付け、研究室の電気を消す。廊下を並んで歩きながら、私は努めて明るい声で言った。

「今日の議論、すごく面白かった。
 また明日、続き聞かせてね」

 彼は少し驚いたように私を見て、それから、いつもの笑顔を浮かべた。

「うん、また明日」

 これでいい。

 この境界線を、今は越えない。越えたくない。それが彼を傷つけることになったとしても、私は今、この関係を守りたい。

 建物を出て、夜風に吹かれながら、私は振り返った。暗くなった研究室の窓を見上げる。あそこで過ごす時間が、議論に没頭する時間が、私は好きだ。

 この気持ちを、恋だと呼ばなくてもいい。

 今はただ、学ぶことが楽しい。彼と語り合うことが楽しい。それを恋愛という形に変えてしまったら、きっと何かが失われる。

 私は自分の選択を信じることにした。この心の境界線の、こちら側に留まることを。

 いつの間にか暮れた空を見上げると、星が瞬いていた。

──────

瀬川くんサイドから書いたらどうなるんでしょうねぇ、これ。

11/9/2025, 3:29:58 AM

〈透明な羽根〉

 舞台袖から見る体育館は、十二年前と何も変わっていない。照明の配置も、床の傷も、空気の匂いさえも。
 違うのは、舞台に立っているのが私ではないということだけ。

 リハーサルの重低音が響く中、私は生徒たちの動きを目で追った。三年生たちがターンを決め、羽根飾りが光を受けて揺れる。

……美しい。

 心からそう思う。彼女たちの背中に、美しく透き通る羽根が見える。

──

 私がコーチとして母校に戻ってきたのは、もう十年以上前のことだ。

 大学でもダンスを続けていた私は、交通事故で左足に大怪我を負った。手術は成功したと医師は言ったが、以前のように踊ることはできなくなった。
 リハビリを続けても、体は思うように動かない。ステップを踏もうとすると、足が言うことを聞かず、バランスを崩す。何度転んだか分からない。

──もう踊れない。
 その事実を受け入れるまで、二年かかった。

 そんな時、高校時代の顧問だった近藤佳子先生から電話があった。

「杏子さん、週一でダンス部の指導をしてくれない?」
 私は笑ってしまった。
「踊れない私がですか」
 嘘でも謙遜でもない、本心だった。
 踊れない私は、ダンスと呼べる世界から追いやられたと思っていた。
 断ろうとする私の言葉を先生は遮った。

「あなたがつかんだあの熱意を、後輩たちに伝えてほしいの。
 技術じゃない。あなたたちが舞台で見せてくれた、あの想いを」
「みんな、背中に羽根を持っている。
 羽ばたかせて飛ぶ日を待っているのよ。
 飛び立つのを助けてほしい。」

 その一言が、胸のどこかで、消えかけていた焔の芯に火を点けた。
 私がつかんだ熱は、まだ役割を失ったわけじゃない──

 十年間、あの言葉で私はここに立ち続けてきた。
 最初のころは地獄だった。皆のようには踊れないけれど、それでも伝えようと必死だった。言葉を尽くし、動画を使い、時には手を取って体の向きを教えた。

「あの先生、ちゃんと踊れないのに何で指導してるの?」

 部室から聞こえてきた一年生の声を、今でも忘れられない。
 それでも続けてこられたのは、近藤先生の言葉と配慮があったからだ。

 私の他に数人、先生に声をかけられコーチに来てくれるOGがいてくれたおかげで技術指導は問題なく進められた。
 過去の大会の映像が残されていたことも大きかった。全国大会のみならず県大会の予選の映像も、部員の保護者からダビングさせてもらうなどライブラリーは充実している。
 その中で踊る過去の私の姿は、彼女たちの目にどう映っているのだろう。

 世代は変わる。価値観も方法も変わる。
 SNSで他校のパフォーマンスを見て落ち込む子、完璧を求めすぎて潰れそうになる子。私たちの頃とは違う悩みを抱えている。
 でも、目指す“高揚”の場所は変わらない。

 音と光と汗がかけ算になる一瞬。
 その瞬間を掴もうと、本気の身体で突っ込んでいくあの目。
 舞台で輝きたい。誰かの心に残る踊りがしたい。
 その想いは、十二年前の私と何も変わらない。

──

 文化祭前日。
 舞台袖で、私と先生はいつもの位置取りで立ってゲネプロの様子を見守る。
 体育館に、ゲネの低音が響く。

「今年もあっという間だったね」
 先生は舞台を見ながら言った。
 私が生徒だった頃よりもちょっと老けたけれど、ダンスを見る目の輝きは変わらない。

「はい。今年の三年生は、本当によく頑張りました」
「あなたもね、杏子さん」

 先生は私の方を向いた。

「あなたが教えてくれたこと、ちゃんと生徒たちに届いてるよ」

 三年生のダンスのリハーサルが始まる。
「……この子たち、本当にあの“ラストダンス”を楽しみにして三年間ついてきてくれた」

 そう、ここには“伝統”がある。
 この学校のダンス部は、文化祭ステージのラスト一曲──大きな羽根をつけたハットを投げ上げるフィニッシュ──それに向けて三年間、歯を食いしばって練習する部だ。
 ここだけは十年経っても変わらない。

 そして私も、その“ラストダンス”に一目惚れして入部したひとりだ。
 中三の秋、文化祭のステージを見に来た時、羽根がライトに揺れた瞬間、胸を撃ち抜かれた。
“あの中に入りたい”
 たった一回の光景で人生を曲げるほどの出来事が、本当にあるのだ。

 だから、先生の「背中に羽根を持っている」という言葉は、私にとって単なる比喩ではない。
 あの羽根は本当に“本物の羽根”だったのだ。
 目には見えなくても。

──

 当日。

 客席が埋まり、照明が落ちる。私は舞台袖で、緊張した面持ちの生徒たちを見送った。

「いってらっしゃい」

 そう声をかけると、三年生リーダーの明日見ひなたが振り返って笑った。

「いってきます、先生」

 音楽が始まる。
 ドン、と重低音が響いた瞬間、生徒たちの体が動き出す。

 私は息を呑んだ。
 美しい。完璧だ。

 練習で何度も見てきた振り付けなのに、今日の彼女たちは違って見えた。
 羽根飾りが光を受けて揺れるたび、まるで本当に空を飛んでいるようだった。

 気づけば、私の体も音楽に合わせて揺れている。
 体の中でリズムを刻む。心臓の鼓動がビートと重なり、汗が首筋を伝う。

 私は踊っていた。
 舞台の上ではなく、舞台袖で。体は動かなくても、確かに、生徒たちと一緒に踊っていた。

 曲が終盤に差しかかる。
 ラストのフォーメーション。全員が視線を合わせる。

 ──せーの。

 一斉にハットが宙を舞った。
 その瞬間、私の目から涙が溢れた。

 美しい。
 なんて美しいんだろう。

 観客席から歓声と拍手が湧き起こる。
 私は手で口を押さえ、嗚咽をこらえた。

 三年生たちが舞台袖に戻り、泣きながら抱き合っている。

「杏子先生! 見てましたか!」

 皆が駆け寄ってきた。

「見てた。最高だったよ」

 私は涙を拭いながら、一人一人を抱きしめた。
 少し離れたところで、近藤先生も目を潤ませながら、生徒たちを見守っている。
 あのときと同じ──十二年前と変わらぬ光景だった。
 
──

 文化祭のプログラムはすべて終わり、三年生から二年生への引き継ぎが行われた。
 その後はお菓子とジュースで、打ち上げパーティーが始まる。十代特有の笑い声に満ちたホールは、なんともにぎやかだ。
 若いコーチたちも、部員の輪に入って笑っている。

 私はいささか少し疲れて、すでに腰を下ろしている近藤先生の横に座った。
「どうした、お疲れ?」
「いやー若いもんの体力にはついていけないです」
「何言ってんの」

 しばらく無言のまま、二人で会場の喧騒を眺めていた。

「……私、また踊りたいです」
「うん」
「もちろん、以前のようには踊れないけど……コンテンポラリーダンスを勉強したい。
 体の動く範囲で、表現する方法を探してみたいんです」
「うん」
 先生は静かに微笑んで、頷いた。
 それだけで、十分だった。

 透明な羽根は、まだ揺れている。この胸の中で、確かに。
 私の羽根は、もう前ほどは飛べないかもしれない。けれど、羽ばたく方法は一つじゃない。
 生徒たちに伝えることも、新しい表現を探すことも、きっと飛び立つための一歩なのだ。

──────

以前書いた「揺れる羽根」のサイドストーリーです。サイドの方が文字数多いやーん(

近藤佳子(過去)
今岡杏(今日)子
明日見ひなた

登場人物のネーミングで笑っていただければ幸いです。

Next