汀月透子

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〈 寂しくて〉

 結婚して初めての秋は、静かに過ぎていく。
 窓の外では冷たい雨が降り続いている。十一月も半ばを過ぎて、夜になると部屋の空気がひんやりと肌に触れるようになった。
 暖房をつけようかと迷っているうちに、妻がそっと俺の背中にくっついてきた。

「寒い」
 小さな声でそう言って、妻は俺のシャツの裾を掴んだ。
 二歳年下の彼女は、こういう時まるで子どものようだ。

「暖房つけようか」
 そう言いかけたけれど、妻は首を横に振った。

「寂しいからこうしてたい」
 ぽつりと呟いて、彼女は俺の腕に自分の頬を押し付けてくる。その温もりが妙に愛おしくて、思わず抱き寄せようとしたら、するりと身をかわされた。
 振り返ると、妻はいたずらっぽく笑っている。

「なんだよ」
「だって」

 猫みたいに気まぐれなやつだ。結婚前から知っていたけれど、一緒に暮らし始めてからその傾向はますます顕著になった。
 べったりくっついてきたかと思えば、こちらから触れようとすると逃げていく。でもまた数分後には、何事もなかったように側に寄ってくる。

 ソファに座ってテレビを眺めていると、妻が今度は俺の隣に腰を下ろした。
 そしてまた、そっと俺の腕に触れてくる。

「ねえ」
「ん?」
「私ね、小さい頃、両親が共働きだったから」
 妻は俺の腕を両手で抱えながら、どこか遠くを見るような目をした。

「学校から帰ってきても誰もいなくて。
 鍵開けて、一人で家に入って。冬はすごく寒かったの」
 テレビの光が彼女の横顔を淡く照らしている。

「ストーブつけて、宿題して、でもやっぱり寒くて。
 寒いと余計に寂しくなって」
 妻の指先が、俺の腕をぎゅっと握りしめた。

「だから、寒くて独りきりは寂しくて嫌なの」

 その言葉に、少し切なくなった。俺は何も言えずに、ただ妻の頭にそっと手を置いた。彼女は抵抗しなかった。

 外では相変わらず雨が降っている。冷たく窓を叩く音が静かに聞こえる。

──俺も独りは苦手だ。

 一人暮らしをしていた頃、休日に誰とも話さずに一日を終えるのはしょっちゅうだった。そんな夜は、部屋がやけに広く感じられて、自分がひどく小さな存在に思えた。
 誰かに電話しようかと考えても、こんな夜に誰を呼び出せばいいのか分からなくて、結局何もせずに布団に潜り込んだ。
 でもそんなこと、彼女には言ったことがない。

「寂しいのは俺も同じだよ」
 そう素直に言えたらいいのに、言葉は喉の奥で止まってしまう。代わりに俺は、妻の肩にそっと自分の頬を寄せた。

「あったかい」
 妻がぽつりと言った。

「うん」
 俺も小さく応えた。

 妻の温もりが、俺の腕に伝わってくる。そして俺の温もりも、きっと彼女に届いているんだろう。
 寂しいのは妻だけじゃない。俺もずっと、誰かの温もりを探していたんだと思う。

 テレビの音が遠くなっていく。外の雨音も、いつの間にか子守唄のように聞こえ始めた。

 妻の呼吸が、ゆっくりと穏やかになっていく。俺の腕を抱えたまま、彼女はうとうとし始めているようだった。その重みが心地よくて、俺も少しずつ瞼が重くなっていく。

 もう一人じゃない。
 そう思ったら、不思議と安心した。

 これから訪れる寒い冬も、冷たい雨も、二人ならきっと大丈夫だ。
 互いの温もりを感じながら、俺たちは静かに眠りに落ちていった。

 窓の外では、まだ雨が降り続けている。

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脳内BGMは太田裕美「雨だれ」です。
情景が浮かぶような展開を書くのは難しい……

11/10/2025, 3:02:59 PM