汀月透子

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〈心の境界線〉

 夕方の研究室は静かだった。
 ゼミ生たちが帰った後、私は机の上に広げた資料を眺めながら、今日の議論の余韻に浸っていた。
 指導教授が「視点が面白い」と言ってくれた私の発表。それに対して誰よりも真剣に意見をくれた瀬川くんの言葉。充実感が胸を満たす。

「田村さん、もう少しいい?
 さっきの論点、もう一回話したくて」

 瀬川くんが声をかけてきた。いつものことだ。
 ゼミ後、二人で議論を続けるのは珍しくない。私たちは同じ理論に興味を持ち、同じように貪欲に学ぼうとしている。

「いいよ。どの部分?」

 私が椅子を引くと、彼は自分の椅子を少し近づけて座った。
 資料を指差しながら話し始める彼の横顔を見て、ふと、先週の飲み会での友人の言葉を思い出した。

「瀬川くん、絶対田村のこと好きだよね」

 そんなわけない、と私は否定した。
 彼は研究仲間として私を見てくれている。対等な議論相手として、尊重してくれている。それが何より心地いいのだ。

「──田村さん、聞いてる?」

「あ、ごめん。もう一回言って」

 議論が再開する。彼の意見は鋭く、私の考えを深めてくれる。
 こういう時間が、私は好きだった。恋愛に時間を費やすより、今はこうして学ぶことの方がずっと面白い。

 でも。

 ふと訪れた沈黙の中で、彼の視線を感じた。
 資料を見ているはずなのに、彼は私を見ている。

 心臓が跳ねる。

 瀬川くんが口を開きかけて、やめた。喉が小さく動くのが見えた。
 この沈黙が何を意味するのか。彼が言おうとしている言葉が、どんなものなのか。
 頭の中で、様々な想像が駆け巡る。もし彼が告白したら、私はどうする?

 断れば、この関係は壊れてしまう。毎週のゼミ後の議論も、気軽に意見を交わし合える空気も、きっと失われる。

 では受け入れる?
 それも違う。今の私は恋愛に傾ける時間が惜しい。研究が面白くて、もっと学びたくて、この充実した日々を手放したくない。
 そして何より、彼と対等に議論できる今の関係が、一番心地いい。

 私は立ち上がった。

「そろそろ閉めようか。明日も朝から授業だし」

 瀬川くんは一瞬、寂しそうな表情を見せた。でもすぐに「そうだね」と頷いて、立ち上がる。

 二人で資料を片付け、研究室の電気を消す。廊下を並んで歩きながら、私は努めて明るい声で言った。

「今日の議論、すごく面白かった。
 また明日、続き聞かせてね」

 彼は少し驚いたように私を見て、それから、いつもの笑顔を浮かべた。

「うん、また明日」

 これでいい。

 この境界線を、今は越えない。越えたくない。それが彼を傷つけることになったとしても、私は今、この関係を守りたい。

 建物を出て、夜風に吹かれながら、私は振り返った。暗くなった研究室の窓を見上げる。あそこで過ごす時間が、議論に没頭する時間が、私は好きだ。

 この気持ちを、恋だと呼ばなくてもいい。

 今はただ、学ぶことが楽しい。彼と語り合うことが楽しい。それを恋愛という形に変えてしまったら、きっと何かが失われる。

 私は自分の選択を信じることにした。この心の境界線の、こちら側に留まることを。

 いつの間にか暮れた空を見上げると、星が瞬いていた。

──────

瀬川くんサイドから書いたらどうなるんでしょうねぇ、これ。

11/10/2025, 3:46:37 AM