汀月透子

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〈透明な羽根〉

 舞台袖から見る体育館は、十二年前と何も変わっていない。照明の配置も、床の傷も、空気の匂いさえも。
 違うのは、舞台に立っているのが私ではないということだけ。

 リハーサルの重低音が響く中、私は生徒たちの動きを目で追った。三年生たちがターンを決め、羽根飾りが光を受けて揺れる。

……美しい。

 心からそう思う。彼女たちの背中に、美しく透き通る羽根が見える。

──

 私がコーチとして母校に戻ってきたのは、もう十年以上前のことだ。

 大学でもダンスを続けていた私は、交通事故で左足に大怪我を負った。手術は成功したと医師は言ったが、以前のように踊ることはできなくなった。
 リハビリを続けても、体は思うように動かない。ステップを踏もうとすると、足が言うことを聞かず、バランスを崩す。何度転んだか分からない。

──もう踊れない。
 その事実を受け入れるまで、二年かかった。

 そんな時、高校時代の顧問だった近藤佳子先生から電話があった。

「杏子さん、週一でダンス部の指導をしてくれない?」
 私は笑ってしまった。
「踊れない私がですか」
 嘘でも謙遜でもない、本心だった。
 踊れない私は、ダンスと呼べる世界から追いやられたと思っていた。
 断ろうとする私の言葉を先生は遮った。

「あなたがつかんだあの熱意を、後輩たちに伝えてほしいの。
 技術じゃない。あなたたちが舞台で見せてくれた、あの想いを」
「みんな、背中に羽根を持っている。
 羽ばたかせて飛ぶ日を待っているのよ。
 飛び立つのを助けてほしい。」

 その一言が、胸のどこかで、消えかけていた焔の芯に火を点けた。
 私がつかんだ熱は、まだ役割を失ったわけじゃない──

 十年間、あの言葉で私はここに立ち続けてきた。
 最初のころは地獄だった。皆のようには踊れないけれど、それでも伝えようと必死だった。言葉を尽くし、動画を使い、時には手を取って体の向きを教えた。

「あの先生、ちゃんと踊れないのに何で指導してるの?」

 部室から聞こえてきた一年生の声を、今でも忘れられない。
 それでも続けてこられたのは、近藤先生の言葉と配慮があったからだ。

 私の他に数人、先生に声をかけられコーチに来てくれるOGがいてくれたおかげで技術指導は問題なく進められた。
 過去の大会の映像が残されていたことも大きかった。全国大会のみならず県大会の予選の映像も、部員の保護者からダビングさせてもらうなどライブラリーは充実している。
 その中で踊る過去の私の姿は、彼女たちの目にどう映っているのだろう。

 世代は変わる。価値観も方法も変わる。
 SNSで他校のパフォーマンスを見て落ち込む子、完璧を求めすぎて潰れそうになる子。私たちの頃とは違う悩みを抱えている。
 でも、目指す“高揚”の場所は変わらない。

 音と光と汗がかけ算になる一瞬。
 その瞬間を掴もうと、本気の身体で突っ込んでいくあの目。
 舞台で輝きたい。誰かの心に残る踊りがしたい。
 その想いは、十二年前の私と何も変わらない。

──

 文化祭前日。
 舞台袖で、私と先生はいつもの位置取りで立ってゲネプロの様子を見守る。
 体育館に、ゲネの低音が響く。

「今年もあっという間だったね」
 先生は舞台を見ながら言った。
 私が生徒だった頃よりもちょっと老けたけれど、ダンスを見る目の輝きは変わらない。

「はい。今年の三年生は、本当によく頑張りました」
「あなたもね、杏子さん」

 先生は私の方を向いた。

「あなたが教えてくれたこと、ちゃんと生徒たちに届いてるよ」

 三年生のダンスのリハーサルが始まる。
「……この子たち、本当にあの“ラストダンス”を楽しみにして三年間ついてきてくれた」

 そう、ここには“伝統”がある。
 この学校のダンス部は、文化祭ステージのラスト一曲──大きな羽根をつけたハットを投げ上げるフィニッシュ──それに向けて三年間、歯を食いしばって練習する部だ。
 ここだけは十年経っても変わらない。

 そして私も、その“ラストダンス”に一目惚れして入部したひとりだ。
 中三の秋、文化祭のステージを見に来た時、羽根がライトに揺れた瞬間、胸を撃ち抜かれた。
“あの中に入りたい”
 たった一回の光景で人生を曲げるほどの出来事が、本当にあるのだ。

 だから、先生の「背中に羽根を持っている」という言葉は、私にとって単なる比喩ではない。
 あの羽根は本当に“本物の羽根”だったのだ。
 目には見えなくても。

──

 当日。

 客席が埋まり、照明が落ちる。私は舞台袖で、緊張した面持ちの生徒たちを見送った。

「いってらっしゃい」

 そう声をかけると、三年生リーダーの明日見ひなたが振り返って笑った。

「いってきます、先生」

 音楽が始まる。
 ドン、と重低音が響いた瞬間、生徒たちの体が動き出す。

 私は息を呑んだ。
 美しい。完璧だ。

 練習で何度も見てきた振り付けなのに、今日の彼女たちは違って見えた。
 羽根飾りが光を受けて揺れるたび、まるで本当に空を飛んでいるようだった。

 気づけば、私の体も音楽に合わせて揺れている。
 体の中でリズムを刻む。心臓の鼓動がビートと重なり、汗が首筋を伝う。

 私は踊っていた。
 舞台の上ではなく、舞台袖で。体は動かなくても、確かに、生徒たちと一緒に踊っていた。

 曲が終盤に差しかかる。
 ラストのフォーメーション。全員が視線を合わせる。

 ──せーの。

 一斉にハットが宙を舞った。
 その瞬間、私の目から涙が溢れた。

 美しい。
 なんて美しいんだろう。

 観客席から歓声と拍手が湧き起こる。
 私は手で口を押さえ、嗚咽をこらえた。

 三年生たちが舞台袖に戻り、泣きながら抱き合っている。

「杏子先生! 見てましたか!」

 皆が駆け寄ってきた。

「見てた。最高だったよ」

 私は涙を拭いながら、一人一人を抱きしめた。
 少し離れたところで、近藤先生も目を潤ませながら、生徒たちを見守っている。
 あのときと同じ──十二年前と変わらぬ光景だった。
 
──

 文化祭のプログラムはすべて終わり、三年生から二年生への引き継ぎが行われた。
 その後はお菓子とジュースで、打ち上げパーティーが始まる。十代特有の笑い声に満ちたホールは、なんともにぎやかだ。
 若いコーチたちも、部員の輪に入って笑っている。

 私はいささか少し疲れて、すでに腰を下ろしている近藤先生の横に座った。
「どうした、お疲れ?」
「いやー若いもんの体力にはついていけないです」
「何言ってんの」

 しばらく無言のまま、二人で会場の喧騒を眺めていた。

「……私、また踊りたいです」
「うん」
「もちろん、以前のようには踊れないけど……コンテンポラリーダンスを勉強したい。
 体の動く範囲で、表現する方法を探してみたいんです」
「うん」
 先生は静かに微笑んで、頷いた。
 それだけで、十分だった。

 透明な羽根は、まだ揺れている。この胸の中で、確かに。
 私の羽根は、もう前ほどは飛べないかもしれない。けれど、羽ばたく方法は一つじゃない。
 生徒たちに伝えることも、新しい表現を探すことも、きっと飛び立つための一歩なのだ。

──────

以前書いた「揺れる羽根」のサイドストーリーです。サイドの方が文字数多いやーん(

近藤佳子(過去)
今岡杏(今日)子
明日見ひなた

登場人物のネーミングで笑っていただければ幸いです。

11/9/2025, 3:29:58 AM