汀月透子

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〈ティーカップ〉

 外は風が強くて、木々がざわざわと鳴いていた。
 冬の初めの空気は乾いていて、ひとりでいると、なんだか胸の奥まで冷えてくるようだ。

 食器棚の奥から、久しぶりにあの箱を取り出した。紺色のビロードの箱。中には磁器のティーカップとソーサーが二客眠っている。白地に淡い金の縁取り、小さな花々と緑の葉。指でなぞると、ひんやりとした磁器の感触が伝わってくる。
 これを最後に使ったのは、いったいいつだったろう。たしか、夫が亡くなる少し前──二人で小さなケーキを分け合って、おしゃべりをした午後だ。

 その夫が、このカップを買ってくれたのは初めての結婚記念日だった。新宿の百貨店で、私はお小遣いの範囲で買えるものを見ていたのに、彼が「どうせならいいものを」と言って、ずいぶんと高いティーカップを差し出したのだ。
「他のは少しずつ揃えような」と、彼は言った。
 けれど、息子が生まれ仕事に家事に追われるうちに、そんな余裕はなくなってしまった。
 あのブランドも、日本から撤退したと聞いたとき、夢がはじけて消えてしまったようで寂しかった。

 そんな思い出をたどっていると、玄関の方から声がした。
「ふみさん、ただいまー。英国展、すっごい行列でしたー」
 息子の嫁、佐和子さんが息を弾ませて入ってくる。手には百貨店の紙袋。
「さすが人気の店、スコーンが残り二個。危なかったぁ」
「あなたにお任せして正解ね、行列っていうだけで私はパス」
「ふみさんのためなら、並ぶのなんてなんのそのですよ」
「はいはい、口のうまいこと」
 思わず笑ってしまう。ほんとにこの人は、いつも調子がいい。

「ご指定のクロテッドクリームもありましたよ。
 このレモンケーキも美味しそうで地下で買ってきました」
「まあ、素敵。じゃあ、お茶を入れましょうか」

 佐和子さんがスコーンと焼き菓子をトースターで温める。リベイクというらしい。
 ケトルが小さく唸り始める。湯気が立ちのぼる台所に、甘い香りがただよう。
 私はそっと、さっきのティーカップをテーブルに置く。

「あら素敵なカップ。初めて見ました」
「とっておきよ。普段使いは絶対ダメ」
「取り扱い注意ですね」
 佐和子さんは「ふふ」と笑って、温まった菓子とスコーンを皿に並べ、ジャムとクリームを添える。気づけば、テーブルには可愛いブーケも飾られている。

「さあ、ふみさん。
 アフタヌーンティーのお支度ができましたよ」
「素敵……本当に百貨店のティールームみたい」

 カップを持ち上げる。軽い。薄い磁器が光を透かす。口をつけると、懐かしい感触が唇に触れた。
 温かいスコーンに、佐和子さんが驚くほどクリームを盛り、ジャムをのせて頬張る。
 佐和子さんの手作りジャムは、甘味と酸味のバランスが丁度良く、クリームと共にスコーンの小麦の味を引き立てる。
 そこでまた紅茶を口に含むと、香りが鼻に抜けていく。

「美味しいわ」
「良かった。ふみさんが喜んでくれて」

 手にしたティーカップを、そっと手で包み込む。
「これね、結婚記念日にって夫に買ってもらったの。
 若い頃はね、これでアフタヌーンティーをするのが夢だったのよ」

 ティーポットからおかわりを注ぐと、紅茶の香りがふわりと広がる。琥珀色の液体の向こうに、昔の私がうっすらと見える。
 忙しくて余裕がなくて、それでも楽しかった日々。初めてのアフタヌーンティーは、ティーバッグの紅茶に、駅前の和菓子屋さんで売っていたカステラ。
 イギリス映画の中に出てくるティースタンドに憧れたけど、夢また夢。せめて雰囲気だけでもと、背伸びして買ったティーカップ。
 小さなちゃぶ台にそれらしく並べて、二人で笑いながらお茶を飲んだ──

「ふみさん、夢は叶ったじゃないですか」
「そうねえ、美味しいものばかりで嬉しいわ」

 ティーカップの金の縁取りが光を受けて、ほんのり輝いている。湯気の向こうで、佐和子さんが笑っている。その笑顔を見ていると、ほんのりと心が温まる。
 夫のいない寂しさは、消えることはない。でも、その隙間をそっと埋めてくれる人がいる。

「おいしかった。……買ってきてもらったの、全部食べちゃったわね」
「大丈夫、レモンケーキ残ってますし。
 一雄さんには栗きんとんも買ってきました」
 息子が紅茶よりは緑茶が好きなことをわかってる、さすがは佐和子さん。この人がいて、本当に良かった。

「ふみさん、今度ホテルのアフタヌーンティー行きましょうよ」
「嫌よ、混んでいるんでしょう」
「予約すれば大丈夫ですよ、マダム二人でおしゃれして楽しみましょうよ」
「あら、あなたマダムになれるの」
「……努力します」

 笑い声と紅茶の香りが、やさしく部屋を満たしていく。
 昔の約束の続きを、ようやく果たしているような気がした。

──────

ふみさん佐和子さんの嫁姑漫才です。
ふみさんの若い頃だから、ティーバッグが出たばかりの昭和30年代でしょうか。ミントンのグリーンウィッチ、欲しかったなぁ……

佐和子さんが買ってきたレモンケーキ、ホントは長い名前がついてます。
「なんとかカカオ?の、なんとかクーヘン」。ああ、美味しい紅茶と一緒にいただきたい。

11/12/2025, 7:01:40 AM