〈永遠なんて、ないけれど〉
仕事帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見て、思わず目を逸らした。疲れているのか、あるいは迷っているのか。
社会人3年目、もう人生に手詰まりを感じている自分が情けない。
ふと、彼女のことを思い出した。
中学のときの同級生。笑い声が大きくて、ちょっと不器用で、それでもクラスの中心にいるような存在だった子。
高校受験を控えたある日、交通事故で急にいなくなってしまった。
葬儀の帰り道、ブレザーのポケットに入っていたミントキャンディの味を、私は今でも覚えている。
あの子がくれたキャンディ。甘いのに冷たくて、涙の味と混ざって胸が詰まった。
あれから十年。私は大学を出て、社会人になって、ただ流されるように毎日をこなしている。
あの子がもし生きていたら、今ごろどんな道を歩いていただろう。まっすぐに夢を追っていたんだろうか。
それとも私と同じように、現実に迷っていたんだろうか。
考えても答えは出ない。でも一つだけ確かなのは、あの子には「今」がないということだ。永遠に十五歳のまま、写真の中で笑っている。
同い年の友達が突然いなくなるなんて、考えられなかったあの頃。
希望に満ちた日々が、永遠に続くと思っていたあの頃。
「永遠なんて、ない」
中学生の私は、泣きながらそう呟いた。
けれど今は違う意味でその言葉を思う。
永遠がないからこそ、人は立ち止まってはいられないんだ、と。
あの子の時間は止まってしまった。だから、残された私が動き続けるしかない。たとえ迷っていても、不器用でも。
電車が駅に着き、ドアが開く。冷たい夜風が頬を撫でた。
永遠なんて、ないけれど。
今この瞬間を生きるため、私はこの一歩を踏み出していく。
〈涙の理由〉
仕事帰りに立ち寄ったカフェの窓際で、私は冷めかけたカフェラテを指先で揺らしていた。
ガラス越しの街は灯りに満ちているのに、胸の奥にはどうしても影が残る。
三十三歳。親も親戚も同僚も、皆そろって「結婚」を口にする。
「そろそろ決めたら?」
「彼がいるなら安心だね」
数年付き合っている真司の存在を言えば、決まりきったように「じゃあ次は式だね」と笑顔を向けられる。
真司は穏やかで、どこまでも優しい。けれど、彼と歩む未来を思い描こうとすると、胸の中にぽっかりと白い空白ができる。
温かな手のひらのように確かに支えられているのに、その先の景色がどうしても見えない。
同僚が結婚を決めたと聞いた日。
笑顔で「おめでとう」と言った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
私もそうあるべきなのか。
それとも、違う道を選んでもいいのか。
数日後に真司と過ごした後、不意に涙が滲んだことがあった。
「どうした? 泣いてる?」
真司の声で初めて気づいた。理由を答えられず、私は笑ってごまかす。
その涙は、悲しみでも喜びでもなく、自分でも名前のつけられない感情だった。
涙の理由は、まだはっきりとは言えない。
ただ、周囲の期待と、自分の中の曖昧な答えの狭間で、押し出されるように溢れていたのだと思う。
カフェを出て夜風に触れたとき、ようやく私は自分に問いかけた。
「私はどうしたいんだろう」
すぐには答えが見つからない。また涙がにじむ。
けれど、この涙──心の声に耳を澄ませれば、いつか辿り着ける気がする。
街の灯りが遠ざかる。私はひとり歩きながら、頬に残る涙の温度を確かめていた。
それが私を導く、最初の手がかりになると信じながら。
〈コーヒーが冷めないうちに〉
学食の隅のテーブルで、俺はコーヒーカップを見つめていた。淹れたてでまだ口に含むには熱すぎる。
隣では、同じゼミの井上と高橋が昨夜のコンパの話で盛り上がっている。
「なあ、あの子、絶対俺に気があったって!
LINE交換したし、今度映画でも誘ってみるわ」
井上の声が響く。
「おい中村、今度一緒に来いよ。
就活前なんだし、リフレッシュも必要だって」
高橋が振り返り、笑顔を向ける。慌ててコーヒーをすすったら、熱すぎて舌がひりっとした。
「……今度な」
言葉だけ合わせたが、気は重い。
俺は昔から、ああいう場がどうにも苦手だ。盛り上がり方も、話す内容も、よくわからない。
「そういえばさ、おまえ就活どうするんだよ?もう十二月だぞ。
俺ら、業界研究始めてるけど」
井上の言葉に、気づくとカップの中で小さな渦ができていた。スプーンを無意識に回していたらしい。
「まだ……考え中かな」
それが正直な気持ちだった。
みんなは未来に向かって走り出しているけど、俺はまだスタートラインに立てていない気がする。
バイト先の店長の声がふと蘇った。
「中村君は真面目だし、お客さんからの信頼もあるよ。
自分のいいところを、もっと信じてみたら?」
その言葉が、少しだけ背中を押す。
カップを傾けると、最後の一滴はもうぬるかった。
でも、その苦味の奥に不思議と優しい甘さを感じた。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「なあ、今度キャリアセンターに一緒に行かないか?」
自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。
コンパじゃ盛り上がれなくても、就活なら肩を並べられるかもしれない。
「おっ、それいいな!俺たちも相談したいことあるし」
井上と高橋が笑顔で答える。
学食を出るとき、振り返ると俺が座っていた席には、別の学生が新しいコーヒーを手にしていた。
湯気が立ち上り、明るい昼の光に溶けていく。
最後の一口の苦味を反芻しながら、先に行く友の背を追う。
あれこれ躊躇せず思い立ったら踏み出さないと。そのカップのコーヒーが冷めないうちに。
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※一部表現を修正しました。
〈パラレルワールド〉
日曜の昼前、リビングで編み物をしていた。夫はソファで新聞を読んでいる。
夫婦の会話は最低限。子どもたちが独り立ちしてからはずっとこんな時間を過ごしている。
見るわけもなく点けているテレビからは懐かしのメロディーが流れていた。
シャルル・アズナブールの「Hier encore」が響いた瞬間、編み針が止まる。
あの頃、酔うと「彼」がよく口ずさんでいた歌。フランス語の意味も知らずに、歌う彼の横顔を見ていたっけ。
「帰り来ぬ青春」──記憶の扉が静かに開いた。
「一緒に歩いて行こう」
彼はそう言って私の手を握った。将来も見えていないのに。
私は安定を選んだ。両親の期待、世間の常識、将来への不安。すべてが私を今の道へと導いた。
オペラのような歌声が響く。それは別の世界からのメッセージのように感じられる。
もし、あの時違う選択をしていたら。
パリの小さなアパートで彼と朝食を取り、午後はセーヌ川沿いを散歩して、夜は彼の歌声に耳を傾けている。そんな私がいるのだろうか。
気づけば、テレビからは別の曲が流れていた。
子どもたちの成長を見守り、夫と築き上げた穏やかな日々。
この世界で、私なりに幸せを見つけた。
パラレルワールドの私がどんな人生を歩んでいようと、こちらでも十分なほど満ち足りている。
懐かしのメロディーも終わり、テレビはもうすぐ正午を告げる。
「お昼、何にする?」
夫に訊ねると、いつものように「何でも」と素っ気ない言葉が返ってくる。
この世界はこの繰り返しね、と心の中で呟く。
「そうだ……あの喫茶店、まだあるかな」
不意に、夫が立ち上がる。
──あの喫茶店?
新婚の頃、よく行った喫茶店。
商店街の中にある落ち着いた雰囲気の古い店で、子どもが生まれてからはすっかり足が遠のいてしまったけど。
──さっきの、懐かしのメロディーで何を思い出したのかしら。
まあ、音楽で記憶を引き戻されるのも悪くないわねと思いつつ、いつもとは少し違う日曜の午後に足を踏み出した。
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※「時計の針が重なって」の奥さん側ストーリーです。
よろしければそちらも。
〈時計の針が重なって〉
午後零時。時計の針が重なった瞬間、私は妻の存在を強く意識した。
テレビで懐かしのメロディーが静かに流れている。
リビングのソファで新聞を読む私の横で、妻は黙々と編み物をしている。時計の秒針の音がやけに響く。
いつからだろう、私たちの間にこんな「静寂」が降りるようになったのは。
結婚二十五年。子供たちが巣立って三年。残されたのは、会話を忘れた夫婦だった。
「お昼、何にする?」
妻が突然口を開いた。久しぶりに聞く声が、なぜか懐かしく感じられる。
「何でも」
いつものように素っ気なく答えかけて、ふと時計を見る。針が重なったまま、一秒、二秒と過ぎていく。
「そうだ」
私は立ち上がった。
「あの喫茶店、まだあるかな」
妻の手が止まる。驚いたような顔で私を見上げる。
「商店街の奥の、小さな店。昔よく行った」
「まだあるわよ。でも随分行ってないわね」
夏も終わり、過ごしやすくなってきた。妻と歩くことが、何だか気恥ずかしい。
二十数年ぶりに足を向けた喫茶店は、看板も内装も当時のままだった。
奥の席に座ると、妻がぽつりと言った。
「ここで初めて、将来の話をしたのよね」
「覚えてるのか」
「忘れるわけないでしょう」
ナポリタンを頬張りながら、私たちは昔のことを語り合った。子供たちが小さかった頃、一緒に見た映画、初めての喧嘩。
いつしか会話が弾んでいる。
帰り道、商店街で買い物をしながら妻が微笑む。久しぶりに見る笑顔だった。
腕時計を見ると、針は再び重なろうとしていた。でも今度は怖くない。
私たちの時間は、また動き始めたのだから。
手を繋ごうかと思ったが、やめた。急がなくていい。
大切なのは、同じ速度で歩くことだ。