胸の鼓動
これほど煩雑なものも、そう無いんじゃないか。
空気に適応した体ってものでは、水で死ぬし、落ちれば死ぬし、空気が無ければ死ぬし、筋肉の塊である心臓ってやつが動かないと死ぬし、動いててもリズムがある程度ちゃんとしてないと死ぬし…いっそ無ければ、簡単な話なのに。
体を捨てて、空気になって、空に風に混ざりたい。
「ふうん、人間てそんなこと悩むの?ふうん」と言いたい。空気には分からないだろうな、と言い返されたら、うん分からない、と頷いて、「そんなことより、遊ぼうよ」と、誘いたい。体を捨てることになるけど、些細なことだよね。
…そういう想像で心はとても軽くなって、まるで、起きなくていい穏やかな朝の布団のまどろみのようだ。しかし悲しいかな、自分は人間なので、然るべき時までは、体を使うのでしょう。
ああいつか、もう一度存在しなければならないのなら、選べるのなら…名もない、存在するのかも危うい、有機物ではない、何かでありたい。
心の健康
…というテーマを出されたわけだが、まず、真剣にこれについて考えると、心の健康から離れていく感覚がある。
私としては、心のことや、死生観など、考えるのは嫌いではない。一方で、世の中には、こういったことをほとんど考えない人もいるらしい。それでも良いと思う。
考えてもよい。考えなくてもよい。生きたいように生きられるのなら、それがいちばん心の健康に繋がると思うからだ。そう、色々考える中で何度か思ってきた。
重要なのは、今日のおやつ、何にするかってことだ。
気持ち的にはミスドだけど…うーんでも、暑いし、かき氷とかいいよね。でも、アイスカフェオレが飲みたい。スタバ行くか?
さてお時間です。おやつの空想は終わりです。
短い昼休みだった。
俺、この連勤が終わったら、スイパラに行くんだっ!
この道の先に
ちなみにもう知った道だ。
知りすぎて、あえて描写するほどの物も風景もない。にも関わらず、今日は空は優しいグレーに雲がかかり、コンクリートの道は明るく、猫は僕に視線で挨拶して元気にどこかへ行く。
この道の先には駅がある。のんびり歩けば徒歩15分、うちから最寄りの小さな駅だ。
自動ではない改札の外で待つ。かろうじて、電子の…スイカ?メロン?を読み取る機械くらいはある。駅員が改札横の部屋に居る他は、ほとんど人がいない。住み良いド田舎である。
改札から入っていく人の背中を見送るたびに「良い旅を!」と心のうちで唱えた。4回ほどそうしたころ、ついに踏切が鳴り出した。来た、来た!
ガタゴトと音が近づいてくる。改札前から垣間見える駅のホームに、電車が入る。まばらな乗客。やがて電車が止まり、アナウンスと共にドアが開く。
5,6人ほどが降りてきて、ピ、ピ、と電子の…アレを機械に当てて改札を出てくる。最後のひとりは、切符を、駅員に渡して出てきた。出てくる直前から僕は待ちきれなくて、彼女に手を振って思わず呼んでいた。「ゆみこちゃん、ゆみこちゃん!」
彼女は真っ直ぐこちらにやってきて、
「やめてよ恥ずかしい、いい歳してはしゃいじゃって」
「3年ぶりなんだから、仕方ないだろう」
「まあ、私も嬉しいわよ、会えて。カズくん」
ゆみこちゃんは僕の小学校時代のマドンナだ。小学校時代でマドンナなんて、こどもの遊びの延長みたいな気もするだろうが、僕たちにとってはちゃんとマドンナだったし、僕の永遠の友達、そう、友達なのだ。僕たちは別々の人と結婚して、暮らして、今はひとりになったけれど、小学生の頃からなぜか気が合って、でも恋はしなくて、文通とか、最近では、メール? とは別物の、えー、らいん…? えすえぬえす…? もしていた。かれこれ70年ほどの付き合いになる。
ゆみこちゃんは相変わらず可愛い。綺麗な白髪。ほとんどシワの無い優しい顔。ちなみに僕は目が悪い。でも僕にとってはシワなど無いのだ。気取らない言葉、声。杖もおしゃれ。背筋が曲がってないのもすごい。
「カズくんはまだ杖を使わないのね。丈夫な膝ねぇうらやましい!」
「ゆみこちゃんは杖もおしゃれだねえ! 僕もそろそろ必要だろうから、どんなのが良いか教えてよ」
歳をとった会話をしながら、帰り道をいく。ゆみこちゃんは明日、知り合いのお葬式があるそうで、まぁこの歳にもなると、そういうことでもないとなかなか遠出はしないので、亡くなられた方が僕たちに機会をくれたというわけではないが、近くに来るのなら、と、会うことにしたのだった。電車で1時間のところに住んではいるが、これでも今の僕たちにとっては遠出なのだ。
「私ねえ、膝が悪くなってきたから、カズくんのお葬式には行けないかもしれないわ。でもちゃんとお祈りするし,すぐ会いに行くから許してね」
「いいとも。それに、すぐじゃなくても、お土産話をこしらえてからでも構わない。それに、先に旦那さんに会いに行ってやれよ」
「あら、そうだったわ。毎日会ってる気分だったから忘れてた!」
ゆみこちゃんの旦那さんは、もうすぐ亡くなってから20年だ。
「僕も、ゆみこちゃんのお葬式には行けるかわからないけど、同じようにするよ」
「あとから来る方はお土産話をもっていく約束にしましょ」
どんな道の先であっても、友達がいると良いものだなぁ、と、80年でしみじみ思う。
落下
リンゴ、ころがって、落ちて落ちて落ちて
リンゴ、ころがって、落ちて落ちて落ちて…
こつん、と、靴に当たった。
リンゴが落ちるのを見ていた人間が、靴に当たったリンゴを拾った。
「リンゴは、どうやって木から落ちたのだろう」
人間が呟いた。
だからリンゴは答えた。
「重くなったから ひとりだち したのさ!」
「おどろいた。リンゴは、しゃべるのか」
「人間だって、しゃべるでしょう!」
「ああ、本当だ。でも、リンゴには、口が無いのに、しゃべるのか」
「どうして、人間とリンゴの『口』が同じだと思うんだい!」
人間は、少し考えて、ははあ、と頷いた。夢を見ているのかもしれないと思った。
「きみは、面白いリンゴだね。向こうでゆっくりお話しないかい?」
「お話する時間はたっぷりとある!いいよ、お話しよう!」
「ありがとう。あー、ええと、人間相手ならお茶を出すところだけれど、リンゴには、どうすればいいのだろう?」
「お茶はいらないよ、でも、そのうち、種を植えておくれよ!あまり暑くなく、けれど陽当たりがいい場所に!」
「そうか、ようし、そうしよう。ではリンゴさん、行こうか。きみと話せば、色んなことに気がつける予感がしているよ」
これは、リンゴの落下を見て気がついた人のおはなし。
好きな本
タイトルも思い出せないのに、忘れられない本がある。内容はなんとなく覚えていて、挿絵のやわらかでユニークな絵柄と、好きな場面が、心に残っている。
好きだった事実と、今の私。それだけが、私とその本が出会った証。
いつか私の書く文字が、絵が、物語が、人物が、情景が、誰かの人生の途中に在るものとなったなら、それが私の居た証。
誰かの人生の欠片と出会った私の、その人生の欠片がまた誰かの一部になる…出会って出会って、生きて生きて、部屋の本棚に無くっても、好きだった事実と、今のあなたが居るのなら。
あなたに幸がありますように。
好きだった事実をも忘れても、あなたがあなたで続いて、あなたの大切な人に幸がありますように。