回送電車を見送ること三回。時針は二歩ほど足を進めている。忘れ物を取りに戻った彼女はどこへ行ったのやら。先程お茶をしていたカフェは駅の改札前にあり、往復したとて十分もかからないはずだ。ううん、どうしたものか。一人で取りに行ける!と自信満々だった彼女が今頃しょぼくれている姿が容易に想像できる。
「待ってて」
そう云った彼女の言葉を律儀に守っていたら日が暮れてしまう。何なら一日が終わる。迎えに行くか。はあ、とため息を吐いて立ち上がる。ニ時間も座っていたから尻が痛い。
ニコニコ ニコニコ
いつも笑顔を絶やさない君は、誰に対しても優しい。
ニコニコ ニコニコ
笑った顔しか見たことがない。誰に対しても笑顔で、そんな君の違う一面が見たくて、ひどい言葉を投げかけた。
ニコニコ ニコニコ
変わらず笑っている。そういう機械のようで、段々と気味が悪く思えてきて、ひどい言葉を投げかけた。
あーあ、やっちまった。どうすりゃあ良いのか。
足元に転がった「人形」を見下ろして、頭を抱える。 何だって親父はこんなものを買ったのか。いや、それよりもこんな精巧な「人形」をどこで見つけたのか。ちがう、今はそんなそとを考えている暇はない。ご丁寧に座らさせられていた「人形」にうっかり触れてしまい、それが倒れてしまったのだ。きれいに整えられていた髪は乱れ、服も歪んでしまっている。それがどうにも蠱惑的に見えて、目をそらす。
「うふふ、初心なのね」
そんな声が聞こえた気がした。ここには自分一人しか居ないというのに、小鳥の囀りような声が鼓膜を揺する。驚いて足元の「人形」を見下ろすと、目があった気がして急に恐ろしくなった。きっと親父に叱られるが、そんなことを気にかけている余裕はなかった。
急いで部屋から飛び出す。階段を上がり、自分の部屋へと逃げ込むと勉強机の上に出しっぱなしにしていたノートを開いた。そこには日々の記録が書き綴ってある。ペンを取り、紙面に覆いかぶさった。
しかし、言葉が出てこない。手が動かない。
アレは書き残してはならない、と本能が警告をする。うふふ、と鼓膜の奥で笑い声がした。
どろり、とこぼれ落ちた。べちゃり、と地面に叩きつけられるように落ちたそれは、生臭くて、汚くて、なんだこの気持ちの悪いものはと蔑むように見下ろした。ちょうど心臓のあたりがぽっかりと空いていて、あれ、と首を傾げる。
ドロリ、とまた溢れ出す。びちゃびちゃと地面を汚して、足元にはすっかり黒い水たまりが出来ている。その水面に写るのは大嫌いな彼奴の姿だった。
唇を突き出すのが彼女の癖だった。キスをしてほしい、という可愛らしい合図を見てみぬふりをする。だって忙しい。繁忙期で、可愛らしい恋人にかまけている余裕はない。彼女との平穏な暮らしの為には金を稼がなければならない。不条理極まりないが、これも社会人となってしまったからには社会と会社に迎合する他はないのだ。
「ねえ」
とジャケットを控えめに引っ張ってくる彼女の薬指の根本で、先日渡したばかりの指輪が煌めいている。横目で彼女を見やれば、やはり艷やかな唇を突き出して、不満げにこちらを見上げていた。
「ちょっとだけ、それであたしも頑張れるから」
彼女だって繁忙期で疲労している。同じ量の仕事を熟しているのだから当然だ。
「トイレに行こう」
「いいの?」
「私もしたいから」
そういって彼女の顎のラインを指の背でなぞる。うっとりと目を細めた彼女が、うふふ、と笑う。