『今を生きる』
午前十時。冷えた光がカーテンの隙間から差し込む。
私はその光を背に、キッチンの椅子に座っていた。マグカップの中身はもうとっくに冷めている。口をつける気にもならず、ただ指で縁をなぞっていた。
目の前のシンクには、昨夜の食器がまだ残っている。大した量ではないが、動く気力が湧かない。
テレビの音も、外の車の走る音も、どこか膜の向こう側で鳴っているように思える。
こういう日は珍しくない。それどころか、そんな日々が年を重ねる毎に侵食してきているのだ。
理由のわからない疲れを抱えて生きていた。
それは、明確な出来事に由来するものではなかった。ただ、毎日を通り過ぎる何百もの「なんでもないことたち」が、いつのまにか心の縁に重なって、削れて、風化して、気がついたときには「疲れ」という名前でしか呼べない何かになっていた。
日々は静かに続いているのに、自分だけがそこにうまく置かれていないような、少しだけずれている世界を眺めているような、あの奇妙な浮遊感。
笑えることもあるし、笑っている瞬間もある。
それでも、そのすぐ後に訪れる、言葉のない沈黙がいちばん重かった。
ただとにかく今日は「頑張れない日」だった。
そんなとき、不意に窓辺の方で音がした。
視線を向けると、小さなコップが揺れていた。
昨夜水を飲もうとして途中でやめたままのガラスのコップ。中には少しだけ水が残っていた。引っかかりを感じたその時にはもう、コップは何事もなかったかのようにそこで静止していた。
なぜか、その揺れが妙に印象に残った。ただ、理屈ではない何かが胸をくすぐった。
近づいて見てみると、水面がほんの少しだけ波打っていた。まるで何かがそこに息づいているように見えた。
ガラス越しに差し込む光が、水を透かして机に落ちる。揺らめく影が、小さな波紋を広げていた。それだけのことだった。
「生きているみたいだな」
思わず口にした言葉に、自分で少し驚いた。私はコップを手に取り、流しに運んだ。蛇口をひねって、水を足してみる。
それから、少し冷たいそれを一気に飲み干した。たったそれだけのことなのに、なぜか胸の奥にわずかな呼吸が戻ってくるような気がした。
その日は結局、何か特別なことがあったわけではない。
掃除もしていないし、誰かと連絡を取ったわけでもない。
けれど、夕焼けが差し込むころにはシンクに残された食器を片づけていた。
いつもより綺麗なキッチンは、じんわりと暖かいものを胸に広げた。
ほんの少し、自分の輪郭が確かになった気がした。
『飛べ』
彼は静かに紙を折っていた。窓の外では、都市の空が剥がれ落ちるように崩れていたが、それを気にする様子はない。ただ黙々と紙を折る手に力を込める。それは特別なものではない、ただの古い繊維でできた、使い古された書類の裏面だった。こうして折っていると、いつも彼の心はすっと軽くなった。
その傍ら、窓の向こうでは、世界が音もなくほどけていく。
まるで誰かの手で丁寧に畳まれていた風景が、いま、逆順に解かれていくかのように。
ビルは輪郭を失い、空は紙片のようにめくれ、風は沈黙の粒子となって漂う。崩壊とは、爆音でも断絶でもなく、ときにこんなふうに、昔の夢を忘れていくようなやり方で訪れるのだと思った。
机の上にはすでにいくつもの作品が並んでいた。鶴。兎。蓮の花。見慣れた形だが、どれも微かに震えている。脈動しているのだ。
少年は、最後の折り目に指を添えた。
指先がわずかに震えたのは、寒さのせいか、それとも崩れゆく世界の鼓動を紙が吸っていたからか。
紙は、彼の小さな手の中で徐々にかたちを得ていく。尖った機首、折り込まれた翼、しっかりと軸を通した尾翼──。
それは、ただの紙でできたものだった。だが、彼の折った紙は、生まれたての小動物のように微かに脈を打っていた。
窓の外では、世界が静かに、しかし確かに崩れていた。
大地は音もなくひとつずつ色を失っていく。遠くのビルが倒れるのではなく、輪郭のまま透けて消えるのが見えた。
風は、もうとっくに止んでいた。
それでも少年は紙飛行機を握り、窓辺に立った。
手のひらの上で、紙飛行機がわずかに震えた。まるで、呼吸しているかのようだった。
そして、そっと手を離した。
風のない空間に、それはすっと滑り出す。少年はそれを見送った。
崩れてゆく世界の隙間を縫うように、飛行機はどこまでも遠くへ飛んでいく。
まるで世界そのものの終わりを引き連れて、旅立っていくかのように。
彼はそっと目を閉じた。
風はなかったが、その日、ひとつの「飛行」が確かにあった。
『special day』
大学に進学してから、もう半年が経った。
久しぶりに高校時代の通学路を辿ってみようと思い立ったのは、秋風の気配を感じはじめた昼下がりだった。懐かしさに誘われるように、電車を乗り継いで、あの見慣れた駅に向かった――つもりだったのだけれど。
電車の扉が閉まり、周囲の風景が見覚えのない田園風景に変わっていく。スマホの地図を開いてすぐに気づいた。ひと駅、乗り過ごしていた。
次の電車まで、三十分。
降り立った駅は、ほとんど無人駅と呼んで差し支えないほど静まり返っていた。セミの声すら聞こえず、代わりに、近くの電柱で鳥がひと鳴きするだけだった。
ベンチに腰掛けて、足元のアスファルトに目を落とすと、蟻の行列が一筋の線を描いて歩いている。妙に綺麗に整列していて、つい見入ってしまった。一体何を目指して歩いているのだろう。
そのとき、不意に声をかけられた。
「……先輩?」
顔を上げると、制服姿の高校生がひとり立っていた。
男子生徒で、どこか中性的な印象があった。やけに涼しげな目元と、少しはにかんだような笑み。けれど、顔に見覚えはない。
「……ああ、うん。久しぶりだな」
曖昧に笑って返すと、まるで当然のように彼は隣に腰を下ろしてきた。
きっと部活か何かの後輩だったのだろう。顔も名前も思い出せないけど、彼は隣で機嫌良さげにくふくふと笑っている。
この感じを壊すのも悪い気がして、話を合わせることにした。
「チューペット、食べます?」
そう言って、彼はビニール袋から細長いチューペットを取り出した。
真ん中からポキッと折って、片方を差し出してくる。
「ありがとう。懐かしいな、これ」
「夏、こればっか食べてましたよね、部活帰りに」
どこかから拾ってきたようなエピソードを、彼は自信満々に話す。僕も、適当に相槌を打ち、甘い氷を舐めながら、どうでもいい話をした。大学のこと、高校の思い出、夏の終わり。彼はよく笑い、よくしゃべった。なのに、どこか懐かしさを伴った違和感が胸の奥に引っかかっていた。
ふと、彼の制服に目をやる。胸元の校章は見慣れたものだけど、襟元のラインが微妙に違う。シャツのボタンも、僕の代とは形が異なっている気がする。
「制服、少し古い型なんだな」
「え? あ、そうかもしれません。兄貴のなんで。お下がりです」
彼は軽く笑った。どこか誤魔化すような口ぶりだったけれど、それ以上は聞かなかった。
やがて、遠くから電車の音が近づいてくる。
僕が立ち上がると、彼もつられて腰を浮かせた……ような気がしたのに、次の瞬間、ベンチの隣には誰もいなかった。
「あれ……?」
代わりにそこに残っていたのは、開封済みのもう片方のチューペット。中の液体が、ぽたぽたとベンチの下に垂れている。
甘い匂いに誘われるように、蟻たちが先ほどと同じように行列を作り始めていた。
電車のドアが開き、警告音が鳴る。
反射的に乗り込むと、まだ現実感を持てないまま、座席に身体を預けた。
電車がゆっくりと動き出す。
窓の外に目をやると、あのベンチのそばに、彼が立っていた。
こちらに向かって、ひらひらと手を振っている。
反射的に、僕も手を振り返した。
その瞬間、胸の奥に積もっていた既視感の正体が、ふと、ほどけた気がした。
ああそうだ。高校に入学して間もない頃。電車を乗り間違えて、この駅で降りたことがあった。
今日と同じように、誰もいないベンチに座って、蟻の行列を眺めていたとき、見知らぬ少年に話しかけられたのだ。
あの日も、同じようにチューペットを半分こして、電車が来るまで話していた気がする。
驚いたのが表情に出てしまっていたのだろうか。彼はからかうように笑っている。だがどこか寂しげな雰囲気も纏っていた。電車が段々と速度をあげ、少年の姿は段々と小さくなる。だが完全に豆粒になるより先に、少年は姿を消してしまった。
名前も、本当の歳も聞きそびれた。
電車はリズムよく線路を走っていく。
その揺れに身を任せながら、僕は目を閉じた。
どこか遠くで、さっきの少年の笑い声が、微かに耳の奥に残っていた。
『揺れる木陰』
太陽がまっすぐに地面を照らし、街全体を熱が包んでいる。茹だるような暑さに顔をしかめ、重い足を運ぶ人々。
光が葉の隙間からこぼれ落ちて、地面に淡い模様を描いた。ほんの数秒、誰かの歩みが止まる。私は意識を空中にぶら下げて、誰かのつむじを見つめている。彼は今、水面のように揺れる木陰に足を入れた。
枝先をそっと揺らしてやると、光が小さく砕け、まだらになって地面に散らばる。幹の奥まで軽く波打って、葉が笑った。
もう少しだけ風を吹かしてみようか。俯き歩く誰かの目が、ゆらめく木陰を捉える。大きな変化は起こらない。しかし肩がすっと落ちて、足取りが少し軽くなる。動きが緩むその瞬間、確かな手応えを感じるのだ。
彼らにとっての今日が少しでもやわらかくなることを祈り、ただ光と影を編んでいる。
『真昼の夢』
窓を叩く雨の音で目が覚めた。高校生の頃はよく夢を見たものだが、最近はぱたりと見なくなってしまった。昨日の昼は影さえも輪郭を失うほど太陽が照りつけていたはずだが、今日はじめじめと不快な心地で目が覚めた。
覚めかけた瞼の隙間に記憶と一種の焦燥感のようなものが混ざり合う。身体を起こして自室の机に目をやると、開かれたままのポケット六法と昨夜印刷したレジュメが乱雑に散らばっているのが分かった。
そういえば明日は民法のテストだったか。
卓上のデジタル時計には15:07と表示されている。やってしまったと思ったときにはもう遅い。時というものは残念なことに不可逆で、明日の今頃には白い答案用紙に絶望していることだろう。今すぐにペンを握るということが唯一私に残された生存ルートなのかもしれないが、時計を見たことで逆にやる気を損なった。まだぼんやりとした頭で、現実との境界をゆらゆら彷徨いながら考える。
よく聞く話だが、昼寝には記憶の定着と集中力を高める効果があったはずだ。理性は寝るなと叫んでいるが、身体はその恩恵を受けるがため睡魔で抵抗している。きっともう一眠りすれば、体内で小さなエネルギーの再起動がなされて、カフェイン無しでもすっと覚醒するだろう。久しぶりに夢でも見たい気分だ。
エアコンを除湿で設定したのち、タオルケットを被り直して再び瞼を閉じた。