みずくらげ

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1/16/2026, 5:25:38 AM


『この世界は』

1/12/2026, 3:58:28 PM


『ずっとこのまま』

エピクロスは言った。
『死は存在せず。なぜなら、我らが存在する限り死の存在はなく、死の存在があるとき、我らが存在しないからである。』
なんだか理屈としては凄く強いし、勇気を貰える言葉だ。
しかしどうしても拭えない恐怖がある。

怖いのは死の瞬間ではないのだ。

自分が抜け落ちたあとも、時間と世界が無関心に続いていくのが怖い。
私が生きている現在の後ろには先人達が辿ってきた果てしない道がある。それなのに今立っている位置が延長線のどの地点なのか分からない。後半なのか、まだ始まったばかりなのか。

人の生には起伏があるが、時間には起伏がないから怖い。物語なら章立てがある。
でも現実の時間にはそんなもの表示されないし、自分が死んだ後も数字は重ねられていくだけだ。

だがこの恐怖は手放したい感覚だろうか。消した方がもちろん楽だ。いくら考えたところで答えなど出ない。

しかし、この感覚を捨てないことは恐怖への一種の反抗でもあるのだ。この恐れは、死が怖いというより、時間の中で自分が一点にすぎないことを知ってしまった意識の痛みに近い。
そしてその痛みは、命が有限で、今が二度と繰り返されず、自分の経験が代替不可能だと分かっているからこそ生まれる。
だからそれを捨てたら、命が泡みたいに感じられる。思考を放棄した人生など呆気なさすぎる。

時間に起伏はない。
でも人がそこに意味を刻もうとするから、摩擦が生まれる。その摩擦こそが、思考であり、反抗であり、生きている証なのだ。

ただ勘違いしないで欲しいのは、この感覚は呪いではないということだ。決して囚われ続ける必要はない。多くの人は、人生のある瞬間にだけこの感覚に触れ、また日常に戻っていく。私もきっとそうなる。今この文章を読み、共に考えてくれたあなたもだ。

でも一度ちゃんと考えた人は、完全には忘れない。
それは鈍さではなく、深さとして残る。もし今後、この恐れが強くなりすぎたら、「消す」か「飲み込む」かの二択にしなくていい。
考える日と、考えない日を分けるだけでもいい。

それは逃げではなく、呼吸だ。

1/9/2026, 5:47:03 PM

『三日月』

私は三日月に限らず、欠けていく月が大好きです。これにはちゃんと理由があって、どうしても共有したい感覚なのです。テーマとは少し逸れてしまいますが、眠れない夜の思索の寄り道にでもしてください。

遠い昔の人たちは月を見て何を感じていたのでしょうか。私たちが今生きている世では、ほとんどの事柄に、既にもっともらしい理由がつけられています。答えが元々揃えられているのです。もちろんまだまだ未知の領域はあります。が、私のような平凡な人間が人生で出会う疑問には、先人が答えを出してくれています。そうなると、ふいに何のために生きていくのか、という疑問にぶつかるのです。

人は考えずにはいられない生き物です。とはいっても、いくら考えたところで結局は自然の流れに身を置く一部で、誰一人例外なく死ぬ時は死にます。
それなのに私たちは暇さえあればいくらでも考えてしまう。こうしてみると、やはり私は、人は考えるために生きているのだと感じるのです。
そして私は、なぜ月が満ちて欠けるのか、その原理を知らなかった大昔の人を少し羨ましく思います。
月はなぜ痩せたのか、何を失ったのか、また戻ってきてくれるのか。様々な感情を抱き、長い間考えたはずです。
私が感じるこの羨ましさは、世界がまだ問いで満ちていた状態への憧れなのだと思います。

今の私たちは、多くの答えを持っています。月の満ち欠けも、生も死も説明できる。だからこそ、何のために生きていくのかという問いが、以前よりも鋭く、逃げ場なく胸に残るのです。

人は考えるために生きている。

これは、古代の人と現代の人をつなぐ、一本の細い光です。
昔の人は、理由を知らなかったから考えた。
私たちは、理由を知ってしまったけれど、それでも考えずにはいられない。
考えても意味が尽きない。
説明されても、感じることは終わらない。
死ぬと分かっていても、生を問い続けてしまう。決して本能の奴隷だからではありません。これは自然の流れの中にいながら、そこに意味を見出そうとする力なのだと思います。

そうして想いを巡らせると、日に日に欠けていく月がとても愛おしく感じられます。
この感覚こそ、まさに昔の人と同じ場所に立っている証です。
原理を知っていても、なお不思議だと感じ、なお愛おしいと思える。
答えが揃っている世界で、それでも問いを手放さないこと。
それは平凡ではなく、とても人間的で、尊い営みです。

1/4/2026, 4:39:30 PM

『幸せとは』

常に過去にできるものではないだろうか。特定の事象によって起動されるものというより、思い出の感触に近い。抽象的で曖昧だけれども確かに心地よい。

ずっと続くものでもなければ、常に自覚できるものでもない。現在形で完全に掴むことはできないが、ふと立ち上がってくる感触。理由を一つに特定できないのに、心の奥で静かに「ああ」と感じる瞬間。

そうしたところに、沈殿物のように存在するのかもしれない。

ただ幸せを強く求めすぎると、その感触はかえって遠のいてしまう。思い出を狙って思い出すことができないのと同じで、幸せもまた、余裕や静けさの中でしか気付くことが出来ないものなのかもしれない。

7/30/2025, 3:08:52 PM

『熱い鼓動』

多分書きます

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