『月夜』
ときに、夜というものは、私を容易には解放してくれない。ことさらに翌朝の訪れが早いと知れている夜ほど、眠りは私のもとへ降りてこない。眠りとは本来、海のようなものであろう。人はその静かな水面に身を委ね、自然に沈み込むはずなのだ。しかしそうした夜の私は、あたかも救命胴衣を着せられたまま海底へ潜ろうとする滑稽な者のようで、どれほど沈もうとしても浮力に押し戻されてしまう。そのたびに、私は夜をひそかに怨じるのである。もっとも、平素の私にとって夜とは、むしろ愛すべき時間であるのだが。
夜を孤独の象徴のように語る者もいる。だが私には、それがどうしても腑に落ちない。夜空を仰げば、そこには月がある。ときに彼女は不在を装う夜もあるが、大抵は、あの高みの席に静かに坐している。ここで、昼には太陽がいるではないかと反論する人があるかもしれない。しかしそれは違う。太陽はあまりに眩しすぎる。彼は地上の万物を等しく照らす大衆的な光であって、その光の洪水のなかで、一人の人間の内面など顧みる余裕はないように思われる。太陽は人気者である。人がどれほど手を振っても、彼は振り返る暇など持たないだろう。
その点、月はまったく異なる。夜更けまで起きて本を読むとき、月もまた同じ時刻に目覚めている。あの静かな時間には、あたかも月が私一人のためにそこに留まっているかのような錯覚すら覚える。灯を消した部屋に、ただ月光だけが差し込むとき、私はそれを単なる光とは感じない。むしろそれは、遠くから差し出された一通の手紙のようなものだ。言葉は書かれていないが、確かに私に宛てられていると感じる。
私は月の光の、あの慎み深さを愛している。太陽のようにすべてを暴き立てるのではなく、月は物の輪郭だけをそっと示す。庭木の影も、遠い屋根の線も、すべてがどこか秘密めいて見える。その控えめな光のなかでは、世界は昼間よりもむしろ真実に近づくように思われるのだ。
だから私は、眠れぬ夜に窓辺へ歩み寄り、しばらく月を眺める。そうしていると、不思議なことに、自分の孤独が少しずつ輪郭を失っていくのを感じる。まるで月が、遠く高いところから、静かな共犯者のようにこちらを見守っているかのようなのだ。
月を見上げるとき、私は確かに、目が合ったと感じる。そしてその瞬間、私はこの広い夜の中で、決して独りではないと思うのである。
『現実逃避』
また今度書きます
『小さな命』
託児所の一室で、椅子が円環を描いて並べられていた。幼児たちはそこに座し、互いに無垢な表情を向けあっている。
なぜ雨は降るのかと先生が問いを投げた。
Tくんがそれに対して『神様が空から如雨露で水をやっている』と答えた。
今でも時折浮かび上がってくる古い記憶だ。このとき私は初めて自分以外の人を人として承知する慧眼を持ったのだ。それまでの私は救いがたい傲岸不遜な子供であった。
幼年のころは、心があるのは自分だけだと無意識的に仮想していた。他に存在している人間が自分で思考して動いているとは思っていなかったし、逆にそうでないとも考えることがなかった。ただ想像力がなかったのだ。移ろいゆく景色の一部で、植物と同じようなもの、ひとつの流れの中に生きているだけで、各々が内に何かを秘めているなど思わなかった。役者が舞台上で決められた動きを演じるように、彼らもまた私の人生に干渉してくる香辛料であり、私の行動を裏付ける触媒なのだと考えていた。
世界は一枚の書割であり、人々はそこに描き込まれた動く絵具にすぎなかったのである。
しかしあの円環で聞いた彼の言葉は、十数年経過した今でも鮮明に覚えている。
神様が如雨露で水をやる。
こんな発想は私の中にはなかったが、その意見に対して特別肯定や否定の感情は湧かなかった。ただその刹那、私は不意に寒気にも似た感覚に襲われた。
その言葉が稚拙であったからではない。むしろ逆だった。そこには、私の知らない仕方で世界を把握するひとつの完成した意識があった。
それまでの私にとって、他者とは背景であり、装置であり、風景の一部にすぎなかった。人間は人間として在るのではなく、動く物体として、流れの中に配置されているだけの存在だった。自分だけが思考し、感じ、世界を内側に抱え込んでいると、疑いもなく信じていた。
しかし、Tくんの言葉は、私の世界に異物として侵入した。
神、空、如雨露。それらを結びつける彼独自の論理。その論理は稚拙であると同時に、完璧に彼のものだった。
そこで初めて理解した。
この円の中には、私と同じ重さの頭部が、私と同じ密度の人生が、それぞれ独立して存在しているのだ。
人間は例外なく、内部を持った存在なのだと。それぞれが膨らます思考や沸き起こる感情が、密閉された容器のように存在している。心臓の鼓動が世界に少し触れ、わずかに水面が揺れた。弱々しくも確かに波紋は広がったのだ。
これが私が初めて経験した、他者の心の発見だ。
『0からの』
硝子のように澄んだ幼年の精神は、世界をまだ分解せず、ただ光を受けて七色に屈折させるだけでよかった。あの頃、私は創作という名の遊戯に飢えていた。紙片に走らせる拙い線も、意味をなさぬ物語も、すべてが疑いなく私から湧き出た泉であると信じていたのである。
しかし成長とは残酷な解剖である。やがて私は知る。自らの思考も感情も、身振りに至るまで、幾層にも重なった他者の影の上に築かれているという事実を。書こうとすれば既視感が立ち上り、思いついた比喩はどこかの詩人の亡霊の囁きに似ている。奇矯な着想さえ、世界のどこかで既に誰かが口にしているに違いない、と冷ややかな理性が告げる。その瞬間、私は筆を折る。自分の純粋を守るためと称して、創作を処刑台へと引き立てるのだ。
それは潔癖であると同時に、卑怯でもある。私は唯一でありたいと願いながら、唯一など存在しないという真理を盾にして戦いを回避する。名を成した作曲家や小説家、芸術家たちが羨ましいのは、彼らが無垢であったからではない。むしろ、無数の影響と類似を引き受けた上で、それでもなお「これは私のものだ」と言い切る傲慢さを持ち得たからであろう。世界が既に満ちていることを知りながら、なお一滴の血をそこに垂らす勇気。私はその勇気に嫉妬している。
何億という旋律、思想、美学が渦巻くこの地上において、完全なる零からの創造など、神話に過ぎない。すべては連なり、模倣し、裏切り、変形される。だがそれでも、私の胸の奥で脈打つ衝動だけは、他の誰にも代替できぬ鼓動であるはずだ。たとえその旋律が誰かの影を踏んでいようと、それを奏でる私の肉体は、私ひとりのものである。
にもかかわらず、私は己を裁く。何ものでもない身でありながら、世界の審級を勝手に内面化し、自らに死刑を宣告する。なんという傲慢。なんという自意識の肥大。私はまだ何も生み出していないのに、既に敗北者の風貌を整えている。
それでも願いだけは消えない。生み出したい。何かを、たとえそれが世界の巨大な反復の中のかすかな変奏に過ぎぬとしても。私は零からの創造を夢見るのではない。むしろ、無数の影響の屍の上に私という一片の証を刻みたいのだ。
それが叶わぬ幻想であったとしても、幻想に身を捧げることこそが、創作者の最初の誠実なのかもしれない。
『同情』
私はまだこちら側で、光と音と体温に囲まれて立っている。だが時折、あちら側の徹底した沈黙のほうが、より純粋で、より正直で、より欺きのない在り方のように思えてしまう。
朝の光はあまりに澄明で、建物の稜線を鋭く際立たせる。その均整、その無機質な美が、かえって私を世界の外へと押しやる。人々の笑い声や足音は、薄い膜を隔てた向こう側で鳴っているように遠い。私は参加者ではなく、標本箱に納められた昆虫のように、自分の鼓動を観察している。
胸の奥には、暴力的ではない誘惑がある。むしろそれは、完璧に整えられた白い寝台のように静かで、横たわることをそっと勧める。あらゆる軋み、あらゆる羞恥や焦燥が、そこでは凍りつき、音を失うのではないかという予感。刃のように研ぎ澄まされた意識が、自らの内側を薄く切り裂きながら、その冷たい光沢に見惚れている。
生は過剰である。色彩も、義務も、肉体の熱も。あまりに豊穣であるがゆえに、ひとつの純度へと還元される瞬間を夢想してしまう。だがその過剰さのなかで、誰もが不器用に均衡を保とうとしている。転びそうになりながら、何事もない顔で歩幅を整える。その姿に向けられる、ごくかすかな哀れみ。いや、共犯者を見るような親密さが、私をこの側へと引き戻す。
すべてが削ぎ落とされ、ただ透明な静寂だけが残る地点。そこでは苦悩さえも端正な輪郭を持ち、完成された彫像のように動かない。
それは叫びではない。助けを求める声でもない。ただ、影が常に肩越しに立っているという事実の記述にすぎない。陽光の下でも、群衆の中でも、その影は私よりわずかに先を歩き、振り返りもせずに、ひそやかな確信をもって待っている。それでも私は、ときおりその背に向かって、無言の同情を差し出す。おまえもまた、この過剰な光に晒されて疲れているのだろう、と。
そして同時に、私はひそかに羨む。
あらゆる重力から解き放たれ、名も義務も熱も持たぬ、あの完全な静寂を。傷つくことも、期待されることもない、均衡の極北のような場所を。そこではもはや努力も尊厳も必要とされず、ただ無垢な透明だけが保たれているという、その潔さを。
それは逃避への衝動ではない。
むしろ、過剰な生のざわめきに耐え続ける者が、一瞬だけ思い描く、あまりに整いすぎた完成形への羨望である。