みずくらげ

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『半袖』

朝、カーテンの隙間から差し込む光がやけにまっすぐで鋭かった。

季節は夏に近づいていたけれど、心の中はまだ春の終わりで止まっている。
自分の輪郭が曖昧で、誰とも言葉を交わしたくなくて、だけど誰かの声が無性に恋しくなる。


鏡の前に立ち、引き出しから白い半袖のシャツを取り出した。
腕を通すと、薄くてやわらかな布が肌に触れる。
その瞬間どこか不思議な違和感が走った。

ずっと覆っていたものが、なくなった感覚。

世界に対して、自分が少しだけ“開いて”しまったような感覚。
肌を出すという行為がこんなにも無防備だったなんて、前は思いもしなかった。

けれど、駅までの道、腕に風がふれたとき、その不安は一瞬やさしく撫でられたように消えていった。

風が自分を知ってくれているような。
陽の光が、自分に「おはよう」と言ってくれているような。
誰にも話しかけられていないのに、世界と少しだけ話をしているような。

電車に揺られながら、ふと目に入った他人の半袖。
隣に座った子どもの、絆創膏の貼られた細い腕。
それらがまるで、誰もが少しずつ世界と接続している証のように思えてくる。

降車駅でドアが開いた瞬間、また風が吹き抜けた。
少し暑くて、でも涼しくて、心の奥のほこりを吹き飛ばしてくれるような風。

半袖の袖口から入ってきたその空気を、体中で受け止めた。

「世界に触れる面積が増える」という感覚は、時に怖くて、でも確かにあたたかい。

7/25/2025, 5:39:15 PM