『涙の跡』
朝、目が覚めると窓の外は雨だった。
粒が小さくて、風にまじって斜めに落ちている。強い雨ではないのに、妙に寒々しい空気が部屋の中まで染み込んでくる。
彼女はベッドの中でしばらく動けずにいた。
起きる理由が見つからない。行かなくてはいけない場所はあって、返さなくてはいけないメールもある。
けれど、その「しなくてはいけない」という重さだけが頭の中でぐるぐると回って、ついには何もできなくなってしまう。そんな朝が、最近は多い。
ようやく布団から這い出ると、冷えた床が足を刺した。
キッチンに立って昨日の残りのパンを口に運ぶ。パサパサとしていて、とても美味しいとはいえないな。
窓の外では、雨が止む気配を見せない。
出かけなくてはならない。頭ではわかっている。
玄関に立ち、置きっぱなしの傘に手を伸ばす。
それは黒いビニール傘で、特に思い入れのあるものではなかった。スーパーで買った、安いもの。学生時代の通学に使っていたが、しぶとく持ちこたえてくれた。
つい先日までは、今年に入ってから買った晴雨兼用の傘を使っていた。だが不運にも、先日の暴風雨にやられて使い物にならなくなってしまったのだ。
幸いにもこの黒い傘がまだ残っていて助かった。
手に取った瞬間、妙な違和感があった。
持ち手のあたりに、白っぽいしみがある。何かが乾いたような跡。
それが、雨の跡ではないように思えた。いや、きっと水なんだろうけど、どうしてかそれだけではない気がした。
まじまじと見つめる。
しみは、不規則なかたちをしている。何かをこぼしたような、不意に涙が触れたような。
そこに、なにかの「痕跡」がある気がした。
最後にこの傘を使ったのはいつだったか。
ふと蘇ったのは、雨の日に見知らぬ誰かと相合い傘をした記憶だ。駅で立ち往生していた人に、ふと差し出したことがあった。あれはもう、半年も前だろうか。
そんな些細なことが、しみとして残っていた。
そのことを思い出したとたん、胸の奥にほんのわずかな熱のようなものが灯った。
自分は、時々誰かに傘を差し出すような人間だった。
忘れていたけれど、それは事実だった。
そして、ふいに降りてきたこんな些細な記憶が、少なくとも私の駆動力となった。
傘を開く。
黒いビニールの内側で、雨音が柔らかく響いた。
その音を聞いたとき、自分がまだ世界とつながっている気がした。
7/26/2025, 11:02:02 AM