『special day』
大学に進学してから、もう半年が経った。
久しぶりに高校時代の通学路を辿ってみようと思い立ったのは、秋風の気配を感じはじめた昼下がりだった。懐かしさに誘われるように、電車を乗り継いで、あの見慣れた駅に向かった――つもりだったのだけれど。
電車の扉が閉まり、周囲の風景が見覚えのない田園風景に変わっていく。スマホの地図を開いてすぐに気づいた。ひと駅、乗り過ごしていた。
次の電車まで、三十分。
降り立った駅は、ほとんど無人駅と呼んで差し支えないほど静まり返っていた。セミの声すら聞こえず、代わりに、近くの電柱で鳥がひと鳴きするだけだった。
ベンチに腰掛けて、足元のアスファルトに目を落とすと、蟻の行列が一筋の線を描いて歩いている。妙に綺麗に整列していて、つい見入ってしまった。一体何を目指して歩いているのだろう。
そのとき、不意に声をかけられた。
「……先輩?」
顔を上げると、制服姿の高校生がひとり立っていた。
男子生徒で、どこか中性的な印象があった。やけに涼しげな目元と、少しはにかんだような笑み。けれど、顔に見覚えはない。
「……ああ、うん。久しぶりだな」
曖昧に笑って返すと、まるで当然のように彼は隣に腰を下ろしてきた。
きっと部活か何かの後輩だったのだろう。顔も名前も思い出せないけど、彼は隣で機嫌良さげにくふくふと笑っている。
この感じを壊すのも悪い気がして、話を合わせることにした。
「チューペット、食べます?」
そう言って、彼はビニール袋から細長いチューペットを取り出した。
真ん中からポキッと折って、片方を差し出してくる。
「ありがとう。懐かしいな、これ」
「夏、こればっか食べてましたよね、部活帰りに」
どこかから拾ってきたようなエピソードを、彼は自信満々に話す。僕も、適当に相槌を打ち、甘い氷を舐めながら、どうでもいい話をした。大学のこと、高校の思い出、夏の終わり。彼はよく笑い、よくしゃべった。なのに、どこか懐かしさを伴った違和感が胸の奥に引っかかっていた。
ふと、彼の制服に目をやる。胸元の校章は見慣れたものだけど、襟元のラインが微妙に違う。シャツのボタンも、僕の代とは形が異なっている気がする。
「制服、少し古い型なんだな」
「え? あ、そうかもしれません。兄貴のなんで。お下がりです」
彼は軽く笑った。どこか誤魔化すような口ぶりだったけれど、それ以上は聞かなかった。
やがて、遠くから電車の音が近づいてくる。
僕が立ち上がると、彼もつられて腰を浮かせた……ような気がしたのに、次の瞬間、ベンチの隣には誰もいなかった。
「あれ……?」
代わりにそこに残っていたのは、開封済みのもう片方のチューペット。中の液体が、ぽたぽたとベンチの下に垂れている。
甘い匂いに誘われるように、蟻たちが先ほどと同じように行列を作り始めていた。
電車のドアが開き、警告音が鳴る。
反射的に乗り込むと、まだ現実感を持てないまま、座席に身体を預けた。
電車がゆっくりと動き出す。
窓の外に目をやると、あのベンチのそばに、彼が立っていた。
こちらに向かって、ひらひらと手を振っている。
反射的に、僕も手を振り返した。
その瞬間、胸の奥に積もっていた既視感の正体が、ふと、ほどけた気がした。
ああそうだ。高校に入学して間もない頃。電車を乗り間違えて、この駅で降りたことがあった。
今日と同じように、誰もいないベンチに座って、蟻の行列を眺めていたとき、見知らぬ少年に話しかけられたのだ。
あの日も、同じようにチューペットを半分こして、電車が来るまで話していた気がする。
驚いたのが表情に出てしまっていたのだろうか。彼はからかうように笑っている。だがどこか寂しげな雰囲気も纏っていた。電車が段々と速度をあげ、少年の姿は段々と小さくなる。だが完全に豆粒になるより先に、少年は姿を消してしまった。
名前も、本当の歳も聞きそびれた。
電車はリズムよく線路を走っていく。
その揺れに身を任せながら、僕は目を閉じた。
どこか遠くで、さっきの少年の笑い声が、微かに耳の奥に残っていた。
7/18/2025, 11:03:31 AM