「カーテン」
蝉の声が全ての静寂をかき消し、うだるような暑さが全ての意思を崩していく。
扇風機で部屋の空気をかき混ぜてみても風鈴はうんともすんとも鳴らない。
奥の水槽から聞こえてくるぽちゃぽちゃ音だけが唯一涼をもたらしてくれている。
夏休みは暇だ。
最近は暑すぎて外にも遊びに行けないし、デートするような相手もいない。課題をする気は起きないし、テレビはつまらない。
何か世界が一変するような出来事が起こらないだろうか。宇宙人が現れるとか、急に異世界に飛ばされるとか、突然隣に超絶美少女が引っ越してくるとか…
ぼんやりとソファに寝転んで外の景色を眺めた。
倒れた鉢植えが太陽の光を存分に浴びている。
鉢植えの前でミミズが体を懸命によじらせて日陰を求めている。
あのままでは干からびてしまうぞ…。可哀想に。水をやろうか。しかし体が動かない。
ああ、僕も水が必要だった。
コツコツと窓から音がして目を開ける。
いつのまにかレースのカーテンが閉じられており、その向こうにゆらりと影が見える。
誰だ、泥棒か?
影に気付かれないようにそっとカーテンに忍び寄り、恐る恐る裾をめくった。
そこは、海だった。
サンサンと降り注いでいた太陽の光はゆらりゆらりと弱く揺れている。
鉢植えがあったところはあざやかな珊瑚礁になっていて、穴からウツボがこちらをじっと見つめている。
カーテンに映っていた影は魚影だったらしく、大きな魚がひらりと水面に泳いで行く。
これは夢だ。
だけど妙にリアルで溺れそうな感覚になる。
なんとなく体がひんやりとして背中に汗が流れる。
僕は慌ててソファに駆け戻りもう一度目を閉じた。
これは夢だ。早く覚めよう。
それでもゆらゆらとした光模様はまぶたを貫通してくる。
だんだんと息苦しくなってくる。できるだけ肺に空気を入れて息を止めた。
つま先が水に浸されている感覚がする。家の中にまで水が入ってきたのか!
早く覚めろ!覚めろ!
まぶたに力を込めても水は迫ってくる。
ふと頬に冷たいブニッとした感触があった。
目を開けるとさっきのウツボだ。
焦点の合わない小さな目が顔の真横にあった。
「うわあ!」
叫んだ拍子にゴボゴボと泡が漏れる。
水が鼻や口に入って苦しい。
ウツボは溺れる僕の様子をじっと見ていた。
ピシャン!と頬に鋭い痛みを感じて目が覚めた。
制服を着た姉が焦った顔で覗き込んでいる。
「あんた大丈夫?」
僕ははぁはぁと肩で大きく息をしながら辺りを見回した。太陽は強くジリジリと窓から部屋を照らし、鉢植えもそのままだ。水が入ってきた跡ももちろんない。
ただ、僕だけ水をぶっかけられたかのようにびしょびしょだった。
「頭痛くない?吐き気は?」
姉が珍しく体調を気遣ってくれている。
「大…丈夫…」
涙か鼻水か汗か、顔の水を拭った。
「一応病院行った方がいいかもね…。そこ水置いてるから飲みなさい。私ママに連絡してくる」
姉がこんなに甲斐甲斐しいのは千年に一度あるかないかだ。素直に水を飲み干す。
姉が日差しを避けるために引いてくれたカーテンを少しだけめくる。
植木鉢のミミズは力尽きていた。
「青く深く」
夕焼けの色は紅く夜明けの色は蒼い。
どちらも太陽が少しだけ顔を出しているだけなのに、これほどまでに色が違うのはなぜだろうか。
冷たさも違う。濡れた肌を乾かすのは夕日ばかりだ。
どうしてだろう。新しい一日が始まるのにどうして、こんなにも心が冷えてしまうのだ。
海辺のバーの照明が消え、とうとう看板をしまう頃、彼女はまとめ髪を下ろしてエプロンを外す。
そしてまだ太陽が昇っていないことを確かめるように潮騒の音に耳を澄ませると、姿を消す。
それから太陽が沈むまで姿を見せない。
彼女の姿が見えるのは夜の間だけ。
底はまさに夜のように暗く冷たい。
あの夜、あのバーに入っていれば、あのバーで彼女に会っていれば僕もここには居なかったのかもしれない。
死んだ後に恋するなんて虚しいだけだ。
ここは青ばかりで深く苦しい。
弱い光が艶かしく体をくねらせて彼らの鱗を照らす。鮮やかなはずなのに全てが恐ろしく暗く青い。まるで夜明けのように。
夜が嫌いで、1人が嫌でここに来たはずなのに、太陽は僕が見えないかのように頭上を通過していく。
天井は僕をここから出すことを許さないようかのようにずっと揺れている。
結局僕は夜から逃げ出せないし、彼女に愛を伝えることもできないのだ。
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メニューがポップに描かれた看板を店にしまおうとすると渋い顔の2人組がやってきた。
「ここの近くの岩場で発見された遺体のことで聞き込み調査をしています」
警察手帳を一瞬だけ見せると、店のドアを開けられる。
「少しだけお時間よろしいですか」
有無を言わせない態度に若干苛立ちを隠せず、クローズのフダを指さす。
刑事の瞳に少しだけ戸惑いが浮かぶ。
「いえ、自殺かどうか調査しているだけです。あなたを疑っているわけではありません」
私は丁寧にお辞儀をすると店のドアを閉めた。
店は全面ガラス張りなので部外者を完全シャットアウトはできないけれど、いつのまにか刑事たちは姿を消していた。
生まれた頃から私たちの仲間ではない影が底に蔓延っていた。悪さはしないけれど、増えれば増えるほど海面から差し込む太陽の光は弱くなった。
影は小さいものもあれば大きいものもある。それらが元は人間だと気付いたのは、ある夜のことだ。ドボンという大きな音と共に油だらけの人間が降ってきた。しばらくもがいていたけれど、みるみるうちに影になった。
そして夜よりも暗い底で一生出られない海面をうろうろするのだ。
夜の生き物は太陽に見つかってはいけない。
だけど陸に上がり、私は海辺にバーを作ったのだ。
夜を嫌い、海に飛び込む人間を少しでも引き留めるために。
夜の化け物にならないように。
「夏の気配」
黄色く小さな部屋に入ると窓に背を向ける形でどっしりとしたゴシック調の書斎机と牛革の回転椅子がこちらを迎える。その手前に若干チープな合皮のソファがガラスのローテーブルを挟んで向かい合っている。
男は回転椅子の背もたれに頭を寝かせる形で座っていた。いびきに合わせて鼻の穴が大きくなったり小さくなったりするのが見える。
女はそわそわと辺りを見回すと埃に耐えきれず小さくくしゃみをした。
死んだように眠っていた男が体を揺らしながら正面を向いた。
「あー、これはこれは…」
「14時からお約束していたものです。あなたが探偵さん?」
「はい。いやあ、少しだけ仮眠する予定が…失礼しました」
「いえお疲れなんでしょう。こちらこそ急に押しかけてしまい申し訳ありません」
藤色の着物を着た夫人は粗品ですが、と有名百貨店の紙袋を差し出した。線香の香りがぷんと鼻をくすぐった。
「さて…で、ご相談ていうのは?」
「それより何か飲み物をもらえませんこと?外が暑くてすっかり汗をかいてしまいまして」
「ああ。これは気が利かず失礼…」
探偵は慌てて奥の部屋に行き、グラスに麦茶を注いで戻ってきた。夫人は上品に受け取ると一気に飲み干した。
探偵は彼女と向かい合うソファに座ると灰皿を寄せた。
「相談というのは娘のことです。悪い人に騙されたんです」
「ほお。騙されたというのは?」
「もともと普通の会社員だったのですが、ある事件に巻き込まれて転落人生。可哀想に家に引きこもってしまいました」
「ふむ。それであなたの要望というのは…?」
「誰が娘を巻き込んだのか突き止めてほしいのです。その後はこちらでなんとかします。報酬はこれくらいで…」
夫人は膝上でそっと指を立てた。
「ふむ。いいでしょう。具体的にある事件というのは?」
「娘の会社の常務が不倫をしていたのですが、その不倫相手に罪をなすりつけられたんです。娘は一般の社員で常務とは顔を合わせたこともないのに!不倫相手の女を問い詰めたら、彼女は娘が濡れ衣を着せられたことも、なんなら娘のことも知らなかったようです。つまり、誰か別の人が見ず知らずの娘を浮気相手に仕立て上げたのです」
夫人は自身を落ち着かせるように扇子を取り出し、顔を扇いだ。
「結果、娘は職場での居場所をなくし、常務もなにを考えたのか娘の悪評をいろんな会社に吹聴して回りました。仕事にも行けず転職もできないのです」
「それは…災難でしたね。その犯人に心当たりなどはないですか?」
「そうですね…娘によるとどう見ても会社員には見えないような怪しい男が出入りしてたそうです。遠くに居てもタバコの臭いがするほどだったと」
「ほう…他には?」
「残念ながら私が娘から聞いたのはそれだけです。探偵さん、どうか犯人をつきとめてくださいな!」
「もちろん、マダム。必ずや犯人を捕らえて見せましょう」
夫人は静かに目を伏せた。
「どうか、お願いしますよ。主人も亡くなり、親族もおりません。あなただけが頼りなんですから」
夫人は何度も頭を下げて静かに去っていった。
ドアが閉まりきると、男は震える手でタバコに火を付けた。
先月ある女から夫の不倫相手を突き止めろとの依頼があった。調査していくうちに夫からなんとか不倫相手を守ってほしいと元の依頼料の5倍もの金額で逆依頼された。しかしすでに妻から依頼料を受け取りパチンコに擦ってしまった後で、今さら妻からの依頼を取り消すわけにはいかないし、多額の依頼料も逃したくない。そこででっちあげの不倫相手を作り上げることにしたのだ。彼の会社の社員でできるだけ孤立していて、親族や友人などがおらず誰にも悩みを打ち明けられないような人物。それが、例の夫人の娘だったらしい。
探偵は自身を落ち着かせるように回転椅子に沈み込んだ。直射日光で後頭部が焼けるようだったが、震えが止まらない。
できるだけこのことが漏れないようにあの娘の身辺調査を念入りに行った。
すべてをあの娘に押し付けたはずだった。
探偵は2本目のタバコに火を付けた。
そう、あの子の母親は幼い頃に死んでいるはずなのだ。
「まだ見ぬ世界へ!」
時刻は12時30分。まるで昨日までの雨が嘘だったかのように、空は快晴だった。プレートにクロワッサンにソーセージ、牛肉のハンバーグとサラダを少々乗せた。飲み物はアップルジュースだ。
カフェテラスのテーブルにはいつもの仲間たちが待っている。皮膚の色も国籍もバラバラだということも忘れ、家族以上に信頼できるクルーメイトになった。約1年と半年。長くも短くもあった準備期間が終わり、俺たちは今日宇宙へ行く。
まるで明日もここでランチを食べるんじゃないかと思われるように和やかでいつも通りの光景だが、すでに報道陣への会見を終えて世界中に意気込みを伝えたところだ。
「こいつったら、ガクガクでマイク持つ手が震えてたんだぜ!」
「仕方ないだろ!いまだに記者会見は緊張するんだ。お前こそいつものビッグマウスはどうしたよ」
「俺がいつビッグマウスだったって?」
ここまで聞こえてくるほど大きな声でふざけあう2人もいつも通りだ。それをにこにこと眺めて優雅にコーヒーをすする女性2名も。
「おい!リーダー!早くこいよ!スープが冷めちまうだろ!」
「すまんすまん」
慌てて席に着いてみんなの顔を見る。誰も笑顔を浮かべるだけで料理に手をつけない。
これが最後のランチになるかもしれない。
全員思っていることは同じだろうが口には出さず、リーダー、つまり僕の言葉を待っている。
ミッションにアサインされた1年半前からすでに覚悟は決まっている。死への恐怖、家族への思い、それぞれに課せられた世間からの期待。どれも乗り越え、各自で昇華し、訓練への糧にしてきたからここにいるのだ。もう僕らに残されたのはカウントダウンまでの和やかなカウントダウンだけだ。
「君らが最初に見た流れ星ってなんだった?」
拍子抜けしたような彼らの表情は何度見ても面白い。
リーダーらしい言葉を掛けるよりも自分の言葉でコミュニケーションを図ってきた。その度に彼らはこんな表情をする。
「えーと、昔テキサスで見たペルセウス座流星群かな。見事だったよ」
「私はカリフォルニアで見たわ。大学のサークル仲間と」
「私は小さい頃田舎に住んでたからよく見れたなあ」
「俺もだ。最初がいつか分からないけどよく見てたぜ」
やはり自然豊かな場所が近いと必然と宇宙との距離は近くなるものなのだろうか。改めて彼らの育ってきた環境がうらやましく感じると同時に、自分のこれまでの軌跡が本当に奇跡に感じる。
「僕もねペルセウス座流星群だったよ。その年は特によく見えるって話題になっていたから家族と一緒に公園に見に行ったんだ。だけど見えなかった。僕が住んでたところは特に都会だったから、そもそも星なんて見えるはずもなかったんだ」
いつも騒がしいはずのカフェテリアがまるで僕らだけを残したように静まり返る。
「その帰り道、流星群が見えないのが悔しくて僕は懐中電灯をカチカチしながら空を見上げていた。少しでも見えるかもしれないってね。すると見えたんだ!」
おお!と小さな相槌が聞こえた。
「しかもたくさん。何度も何度も。美しかったよ。細く白い線が流れていく。でもそれは懐中電灯が照らしたただの電線だったんだ」
プッと誰かが吹き出して笑いが伝染する。僕もつられてひとしきり笑った。
「でもあのニセモノの流れ星のおかげで僕はここにいる。しかも本物の星を誰よりも近くで見る。僕はワクワクで足が震えるほどだよ」
先ほど手が震えていじられていたやつがそっと微笑んだ。
「まだ見ぬ世界を君たちと見るのが楽しみだよ」
アップルジュースを掲げる。
それぞれコーヒー、水、ジンジャエールを掲げた。
「まだ見ぬ世界へ!!!!!」
「空はこんなにも」
「ではお大事に」
頭を下げて診察室を後にした。
盲腸で救急搬送され、思ったより長い入院期間になってしまった。入院する前は骨折もしたことがなく、大きな怪我や傷というものに憧れを抱くこともあったが、入院という実績を解除してしまうともう経験したくない。それより早く学校に行きたい。勉強も遅れているし、何より体を動かしたくてうずうずする。
やっぱり久しぶりに登校したらみんなから意識されるんだろうか。ちょっと気恥ずかしいけど嬉しいなあ。
もてはやされる妄想をしていると廊下の角で人にぶつかった。
「あ、すみません!」
カシャンと点滴の棒が揺れる。クラスメイトに囲まれる妄想が一気に慰謝料を請求される妄想に変わる。
「あー大丈夫ですよ」
ぶつかった少女は点滴の針が抜けてないか確認して微笑んだ。口角が上がりきっていないぎこちない笑み。水玉模様のパシャマを着ているところからして入院患者だろう。軽い口調で命拾いした気がしてホッとしたその瞬間、背後で「ちょっとちょっと」と慌てた声がした。
「絶対安静って言われたじゃない。何してるの!?」
ベテランそうな看護師が彼女に駆け寄る。
少女はいたずらっぽくごめんなさーい、と笑った。
点滴は?ぬいてないよね?もう!慌てて点滴を確認する看護師を横目に彼女は気まずそうに僕に会釈をした。消えかけた慰謝料の妄想が鮮明になって戻ってきた。
「君は?」
看護師の鋭い目つきがこちらを向いた。やべえ。事故とはいえ絶対安静の人にぶつかってしまった責任はある。この前友達に聞いた話だと歩行者が飛び出した交通事故だってパワーの強い車側に責任が追及されるのだ。なんて答えようか戸惑っていると「私の彼氏!」と彼女が腕を組んだ。
「「え?」」
看護師と僕の声が重なる。
「今日彼氏が退院しちゃうからお別れを言いにきてたの!ね!?」
有無を言わせぬ迫力で迫られ、僕は思わず頷いた。
「今から部屋戻るからいいでしょ?ほら行こ!」
彼女は点滴の棒と僕の腕を引っ張った。
「さっきはごめんね。なんか君、真っ青な顔になってたからフォローしなきゃと思って…」
彼女はベッドに潜り込むと、座りなよ、とそばにあった椅子を指さした。
彼女の部屋は大きめの個室でたくさんの千羽鶴と雨の雫を固めたようなガラスが吊るされていた。殺風景なはずの病室が虹に溢れている。
「でもなんで僕の退院のこと…」
「私この病院の主みたいなもんだから、なんでも知ってるの。君もう点滴してないし、パシャマじゃないし、診察室の方から出てきたから退院なんだなって思っただけ」
彼女は落ち着かないのか、ティッシュケースをテーブルの淵に綺麗に沿わせていた。
無防備にベッドにもたれた彼女から目を逸らす。
「あ、ありがとう。とにかくフォローしてくれて」
雲が晴れたのか窓から強い光が入る。もうお昼だ。母親が迎えに来る予定だから戻らないと。
「よ、よかったらまた遊びにきてね!」
突然の大きな声に驚いて彼女と目があった。
少し眩しそうに細められた目は、太陽の光に当てられて瞳の色が透き通っている。まるでガラスのように。僕は見惚れるようにして頷いた。
病室を出ると先ほどの看護師と出くわした。
「あ、彼氏くんだ」
適当に頷いて逃げようとしたが、呼び止められる。
「知ってるかもしれないけど、あの子外出禁止だからね」
釘を刺されたのか。それほどまでに安静にしてなくちゃいけないなんてどんなに重い病気なんだろう。そして、あの千羽鶴の数。人と話すときのぎこちなさ。病院の主という言葉。恐らくだが、生まれてから病院の外に出たことがなさそうだった。
僕は荷物を持って母親の待つ駐車場に向かった。久しぶりの空は青が高く吸い込まれそうだ。
こんなに空って広かったかな。
そうか、病室の窓が小さかったのだ。
広い空に小さく揺れる虹がちらつく。