香草

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「夏の気配」

黄色く小さな部屋に入ると窓に背を向ける形でどっしりとしたゴシック調の書斎机と牛革の回転椅子がこちらを迎える。その手前に若干チープな合皮のソファがガラスのローテーブルを挟んで向かい合っている。
男は回転椅子の背もたれに頭を寝かせる形で座っていた。いびきに合わせて鼻の穴が大きくなったり小さくなったりするのが見える。
女はそわそわと辺りを見回すと埃に耐えきれず小さくくしゃみをした。
死んだように眠っていた男が体を揺らしながら正面を向いた。
「あー、これはこれは…」
「14時からお約束していたものです。あなたが探偵さん?」
「はい。いやあ、少しだけ仮眠する予定が…失礼しました」
「いえお疲れなんでしょう。こちらこそ急に押しかけてしまい申し訳ありません」
藤色の着物を着た夫人は粗品ですが、と有名百貨店の紙袋を差し出した。線香の香りがぷんと鼻をくすぐった。

「さて…で、ご相談ていうのは?」
「それより何か飲み物をもらえませんこと?外が暑くてすっかり汗をかいてしまいまして」
「ああ。これは気が利かず失礼…」
探偵は慌てて奥の部屋に行き、グラスに麦茶を注いで戻ってきた。夫人は上品に受け取ると一気に飲み干した。
探偵は彼女と向かい合うソファに座ると灰皿を寄せた。
「相談というのは娘のことです。悪い人に騙されたんです」
「ほお。騙されたというのは?」
「もともと普通の会社員だったのですが、ある事件に巻き込まれて転落人生。可哀想に家に引きこもってしまいました」
「ふむ。それであなたの要望というのは…?」
「誰が娘を巻き込んだのか突き止めてほしいのです。その後はこちらでなんとかします。報酬はこれくらいで…」
夫人は膝上でそっと指を立てた。
「ふむ。いいでしょう。具体的にある事件というのは?」

「娘の会社の常務が不倫をしていたのですが、その不倫相手に罪をなすりつけられたんです。娘は一般の社員で常務とは顔を合わせたこともないのに!不倫相手の女を問い詰めたら、彼女は娘が濡れ衣を着せられたことも、なんなら娘のことも知らなかったようです。つまり、誰か別の人が見ず知らずの娘を浮気相手に仕立て上げたのです」
夫人は自身を落ち着かせるように扇子を取り出し、顔を扇いだ。
「結果、娘は職場での居場所をなくし、常務もなにを考えたのか娘の悪評をいろんな会社に吹聴して回りました。仕事にも行けず転職もできないのです」
「それは…災難でしたね。その犯人に心当たりなどはないですか?」
「そうですね…娘によるとどう見ても会社員には見えないような怪しい男が出入りしてたそうです。遠くに居てもタバコの臭いがするほどだったと」
「ほう…他には?」
「残念ながら私が娘から聞いたのはそれだけです。探偵さん、どうか犯人をつきとめてくださいな!」
「もちろん、マダム。必ずや犯人を捕らえて見せましょう」
夫人は静かに目を伏せた。
「どうか、お願いしますよ。主人も亡くなり、親族もおりません。あなただけが頼りなんですから」
夫人は何度も頭を下げて静かに去っていった。

ドアが閉まりきると、男は震える手でタバコに火を付けた。
先月ある女から夫の不倫相手を突き止めろとの依頼があった。調査していくうちに夫からなんとか不倫相手を守ってほしいと元の依頼料の5倍もの金額で逆依頼された。しかしすでに妻から依頼料を受け取りパチンコに擦ってしまった後で、今さら妻からの依頼を取り消すわけにはいかないし、多額の依頼料も逃したくない。そこででっちあげの不倫相手を作り上げることにしたのだ。彼の会社の社員でできるだけ孤立していて、親族や友人などがおらず誰にも悩みを打ち明けられないような人物。それが、例の夫人の娘だったらしい。
探偵は自身を落ち着かせるように回転椅子に沈み込んだ。直射日光で後頭部が焼けるようだったが、震えが止まらない。
できるだけこのことが漏れないようにあの娘の身辺調査を念入りに行った。
すべてをあの娘に押し付けたはずだった。
探偵は2本目のタバコに火を付けた。
そう、あの子の母親は幼い頃に死んでいるはずなのだ。




6/29/2025, 9:31:08 AM