「君の背中を追って」
ペンを置いて伸びをする。肩からポキポキと音を鳴らすとベッドに寝転んだ。衝撃でベッドのへりに掛けていた制服が床にずり落ちた。
あー寝てしまいそうだ。でもまだ寝たくない。
やっと課題が終わったのだからゲームくらいはさせてほしい。枕を顎の下に入れるとゲーム機に手を伸ばした。
すると後ろでカチャリ…と音がした。ハッハッというリズミカルな呼吸音と共に背中に4つの肉球の感触。
「ポチ、お前また自分でドア開けたのか」
踏み潰さないようにゆっくり仰向けになると、頬に湿った鼻が押しつけられた。
柴犬のポチは俺が生まれた時からうちにいる。もうなかなかの爺さんのはずだけど、俺のドアを器用に開けるくらいには元気だ。
もふもふの毛皮に顔を突っ込んで深呼吸する。
獣臭い。けれど小さい頃からこの毛皮が毛布がわりだったからホッとする。
「ポチ散歩は行ったのか?」
プリプリと尻尾を振る。まだ行ってなさそうだな…
「しゃーねえな。久しぶりに行ってやるか!」
ポチの散歩は本来母の役目だ。どうせ最近流行りのドラマに夢中で忘れてるんだろう。
リビングのドアを開けて母に声をかけ、ポチにリードを繋いだ。
興奮しているようで前足でドアを掘っている。
「ほら!行くぞ!」
ボルトもびっくりのスタートダッシュで駆け出すポチ。
不意を突かれて引きずられるような形で走り出す。
「ちょ、ちょっと待って」
思わず情けない声が漏れる。
夕焼けにポチの焦げた毛皮が重なる。
そういえば、小さい頃もこんな感じだった。
その頃、ポチはまだ子犬で、俺はようやく歩き始めたばかりだったか。
母親の持ってるポチのリードが気になって渡してもらってはいいものの、ポチが急発進して思いっきり引きずられたのだ。
「リード離せば良かったのに、めっちゃ掴んでたからねあんた」
いまだに母親が気に入って、家族の中で笑い話となっている話だ。
急発進する癖は変わらないんだなあ。
俺は体勢を整えてポチの横に並んで走った。
あの頃はポチのスピードに追いつけなくて、引きずられてばかりだったが、今では俺の方が速いかもしれない。
少し後ろからハッハッとリズミカルな呼吸が聞こえてくる。
ポチはまだ走るのをやめない。
俺が前にいるので、まるでポチを引っ張っているように見えるが、実際リードは弛んでいる。ポチがついてきてくれているのだ。
「お前そんな走って大丈夫なの?ジジイだろ」
ポチはこちらを見上げて嬉しそうに走っている。
これ、俺が止まらないと走り続けるやつだ。
少しスピードを緩めてみる。
するとポチはその横をぴゅーんと走っていく。
また引きずられるようにして駆け出す。
「お前…!元気だな」
リズムが崩れて息が乱れる。
ポチの尻尾はずっとプリプリと揺れていた。
この尻尾を永遠に止めないでほしい。止まらないように俺は後ろから見ておくから。
「雨の香り、涙の跡」
足元に何か見えてひゃっと飛び跳ねた。
よく見るとカタツムリ。頼りない軌跡がぬらぬらと光っている。踏まなくてよかった。見るのも嫌だけど踏み潰した時の気持ち悪さを想像するだけで鳥肌が立つ。
雨蛙がゲロゲロ鳴き出した。田舎の田圃道を通学路にしているとこうやって動物たちが天気を教えてくれることがある。
早く帰ろう。家まであと20分。傘はない。
朝、家を出てから母親が走って追いかけて持たせてくれた傘。
学校に忘れたわけではない。
ビリビリに引き裂かれ、骨を折られてしまったのた。
教室を出て傘がないことに気付き、ゴミ捨て場で見つけた。
数年前母親に買ってもらったピンクの傘。
何が気に入らなかったのか分からない。
小学校からほぼ持ち上がりで仲のいい人ばかりだったのに、ある日突然それは始まった。
もともと控えめな性格で友達の多い方ではなかったが、誰とも笑い合えない、目が合わない、避けられる毎日はかなり辛い。
仲良くしていた子たちから無視されるのは尚更つらい。
主犯格は分からない。ただそういう空気になったのだ。運が悪かった。
そう運が悪かっただけなのだ。
私が無視する側になっていた可能性もある。
そう思っていた。
「なんであんなにキモいの?」
「あれで自信持てるのが逆にすごいよね」
「マジでキモすぎ」
クラスでも目立つ子たちがトイレで話しているのを聞いた。
以前はそこまで仲良くもなかったが話しかけられたら話す人たちだった。
私のことを言っているのはすぐに分かった。
私何かしたのかな?
普通に生きてるだけなんだけどな。
何がキモいの?何が気に入らないの?なんで急に避けるの?どうして良心が傷まないの?いじめって分かってる?どうして私が…
聞きたいけれど怖くて聞けない疑問が油のように沈んでいく。
その日から教科書が隠されたり、落書きされたり、破られたり、悪意が形をもってぶつけられるようになった。
頬に冷たいものが落ちる。
やばい、降ってきた。
ポツポツと髪や制服を濡らし始める。家までもうすぐ。
だけど走る気になれなかった。
むしろかたつむりのように歩みが遅くなる。雨は強くなってまつげまで濡らした。
使えない傘をおおきく振りかぶって地面に叩きつけた。泥がついて拾うのに躊躇する。
雨足はどんどん強くなる。制服がずっしりと重くなってきた。
傘を拾い、再び歩き始める。靴の中からぐちょぐちょと音がする。
冷たい雨なのにどうしてか、ずっと目が熱かった。
「糸」
寝ぼけた目をこすった。時計はまだぼんやりしている。いやいやまさか。もう一度擦って目ヤニを取る。
さっきより視界がはっきりした。しかしやはり時計の針がもう一本見当たらない。
うーんこれはおそらく12時。昨日寝たのはいつも通り21時。およそ12時間以上寝たことになる。
その証拠に頭が重くぼんやりしている。
毎日規則正しい生活リズムを刻んでいたのに、なんのバグだろう。まったく、仕事だけでなく自分の体までバグが起きるなんて…いやよそう。せっかくの休日なのだから、仕事は忘れたい。
お腹が鳴った。何か腹に入れるべきだ。
しかし料理をする気力もないし外に出る元気もない。炊飯器には昨日の炊いたご飯が残っていた。鼻を近づける…うんギリ大丈夫だろ。
冷蔵庫には卵、ネギ、キムチ、納豆。ご飯のお供の中でも精鋭たちが揃っていた。十分だ。
卵かけご飯にしようかな。
手っ取り早く腹を満たせる。
ネギをハサミで切ってキムチも和えれば満足感もアップするだろう。しかし、なんとなく栄養面で物足りない気がする。
やはり納豆ごはんにすべきか?
納豆は少しめんどくさい。
糸の処理を間違えるとオペレーション効率が著しく低下する。
しかしコンビニ飯が続く最近の食事を思い返せば、さすがにこの最強栄養ステータスを見逃すわけにはいかなかった。
蓋をバリッと思い切り開け、タレとカラシを取り出す。日本人はこのめんどくさい食べ物をよくここまで手軽にしたものだと感心する。
藁で発酵させて食べる時代から、バリッ、ピリっ、たらり、まぜまぜですぐ食べられるのだから。
しかも特有の発泡スチロールの容器は発酵まで行うことを計算されているそうだ。納豆に対する執念が恐ろしい。
さて難関のフィルム外しだ。
背中に少しだけ緊張が走る。
フィルムの端をつまみ、そーっと持ち上げる。勢いよくめくってしまっては豆が大量についてくる。あくまで、もゆっくり、そっとが肝心だ。
半分までめくれると緊張の糸が途切れた。元々せっかちな性格もある。ええい、と勢いよく外すと中途半端に繋がれた納豆がポトンとテーブルに落ちた。
ああ、やってしまった。
箸で摘もうとするがおぼつかない。
イライラが高まり始めたところで箸にくっつき容器に帰っていった。
ここまで来たらあとは楽しむだけだ。
タレとカラシを余すことなく入れると箸を突っ込んで混ぜる。
納豆を混ぜているとなぜか無になれる。ネバネバが泡を含み、糸が色付いていく様子を見ていると、なんだか心が穏やかになる。
坐禅は組んだことないけれど、もしかしたらこういう気持ちになるのかもしれない。坐禅と納豆は同じような存在なのもかもしれないなあ。どっちも日本っぽいし。よく分かんないけど。
お腹が鳴る。気が済むまで混ぜたらチンしたご飯にそーっとかける。溢れたらさっきの比にならない大惨事になってしまう。
あくまでも納豆を扱うときはそーっとだ。
豆の動きが止まったらそれが合図だ。
思い切りかき込む。独特の匂いが鼻を吹き抜けた。
「届かないのに」
風呂から上がり、勉強机に化粧水類を並べた。
スマホが光る。
クラスの友達からだ。
「明日の七夕祭一緒に回ろうよ」
「もちろん!そのつもりだった!」
「じゃあ、朝部活の方顔出したら教室前で待ち合わせしよう」
「おけ」
リスが大きく口を開けてOKと叫んでいるスタンプを押してスマホを閉じた。
明日は高校生活一大イベントの一つ、七夕祭だ。
一般的な文化祭なのだが、いつも七夕と同じ日に実施されるので別名七夕祭と言われている。
そう呼ばれるだけあって一般的な文化祭の出店や文化部のステージの他に巨大笹飾りを広場の中心に飾っている。
私は机の隅に追いやったピンク色の縦長の画用紙をチラリと見るとため息をついた。
その笹飾りには毎年、全校生徒の願いを書いた短冊が掛けられる。願いを書いた短冊を一番早くに提出した人から上の方に飾られるのだが、他の人に願いは見られないし、それに天に近いという理由で願いが必ず叶うというジンクスまである。
何を願おうか…。
成績?最近のテストの結果が芳しくなかった。受験生ではないのでそこまで追い詰められてはいないが、両親から注意されてしまった。しかし短冊に願ったところで、私の努力次第であることはちゃんと分かっている。どうせならもっと運が必要なことで願い事すべきだろう。
部活は?バレー部では一応エースを張っている。しかしこの前の試合は選抜メンバーに選ばれず悔しい思いをした。それはたまたま怪我してしまったからだけど、これも別に願い事するまでもなくエースの座には戻れるだろう。早く怪我が治りますように…?
そんな小さなことで今回のチャンスは使いたくない。
となると…恋愛。
彼の顔が思い浮かぶ。教室に入って来て一番におはよう!と挨拶してくれた時の笑顔。体育の時間のバスケットボールでドリブルをしてゴールを決めた姿。授業中の少し半目になった眠そうな顔。
いやだめだ…彼にはもう相手がいる。
七夕祭では美男美女コンテストの他にベストカップルコンテストも開かれる。
一番人気の企画でベストカップルに選ばれたカップルのほとんどが別れずにゴールインしたという実績もある。
すでにベストカップルに予想されているのが彼だ。
学年一の美男美女カップルとして噂されていて、美男美女コンテストも彼らが掻っ攫っていくだろう。
無謀な片思い。
実るはずもない想い。
そんなことは十分分かっている。
彼の相手は同じバレー部の部員だ。美人で甘え上手で、私のことを「さすがうちらのエースだよね」なんて言って慕ってくれている。
バレーしか取り柄のない私に勝ち目なんてさらさらない。
今年の織姫と彦星は彼らだろう。
そして何年後かにそのままゴールインするのかもしれない。
そう思うと強く胸が痛んだ。そばで密かに思っているだけでいいと思っていた。確かにそうだ。私に付け入る隙なんてないし、そんなことはしたくない。
だけど、このまま2人の未来を確実なものにしたくなかった。希望を抱いていたい。
もしかしたら何かの拍子で彼が私に気付いてくれるかもしれない。魅力を感じてもらえるかもしれない。
そんなことは99%ないかもしれないけれど、たった1%の希望を持っていたい。
叶うはずがない。
届かないと分かっているけれど、願わずにはいられない。
「この片思いが叶いますように」
夏の大三角形、デネブになりたがったベガの話。
「記憶の地図」
(小声)これで全員ですか?あ、では始めますね。
みなさーん!こんにちはー!
あーみなさん暑いのに元気ですね!もう夏休みかな?
夏休みの宿題終わった人ー!
…おー何人か終わった人いますねえ。偉いですね。
でもまだの人も多いかな?もう学校の勉強なんて忘れちゃったよーっていう人!
…ははは。忘れちゃった人もいるか。
じゃあ今日のワークショップで思い出すかもしれないのでちゃんと説明を聞いてくださいね。
はい!では皆さん改めまして、本日はヒト機能制御本部脳科学局の「記憶の地図」ワークショップにようこそおいでくださいました。私は脳科学局 記憶探索官の重出と申します。
本日は我々がどのようにヒトに記憶を思い出させるかを実演しながら説明します。
まずは皆さんヒトって何か知ってますか?
そうです。この国のことですね。我々はこの国を健康に動かすために生きています。
特にここ、ヒト機能制御本部脳科学局はヒトの最重要中枢機関として機能しています。
ここではたくさんの機能を担っていますが今日は特別に記憶想起データバンクを見学してもらいます。
あ、早速お仕事がきましたね。
今ヒトはマグカップを手に取ったみたいです。
ここで記憶探索官はマグカップに関する資料をシナプスネットワークという特別なインターネットで検索します。
例えばほら、あ、モニター映してもらっていいですか?(小声)
あ、映りましたね。このようにマグカップにまつわる記憶がばーっと出てきます。
小さい頃、初めて買ったキャラクターのマグカップ。これはのちに妹に奪われますね。母親に「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と言われて泣いた記憶です。ヒトにとってあまりいい思い出ではありませんね。
ヒトが触ったのはこのマグカップではないのでこれはハズレ。
次に会社で使うために自分で買ったピンクのマグカップですね。少しでも憂鬱な労働時間を楽しくする為にお気に入りのものを選んでいる記憶です。
これはいい思い出ですが、このマグカップではないのでこれもハズレ
あ、これかな?
このクリスマスのマグカップ。これは恋人とお揃いで使う為にヒトが買ったマグカップですね!
恋人が誤って割ってしまったけれど、素晴らしく幸せな思い出に違いありません!
これで確定ですね。
この記憶をビデオデータに出力して…っと。そしてこのデータをニューロン宅急便でヒト機能制御本部ブレインコア局に届けます。ニューロン宅急便はみなさん知っての通り光の速さですから、もうブレインコア局に届いているはずです。
これでヒトは記憶を思い出すのです。
(小声)あ、電話ですか?私?あ、分かりました。
みなさん!少し待っていてもらえますか?
「お疲れ様です。記憶探索官の重出です。…え?記憶が間違っていた?いやそんなことないです。簡単な経験記憶でしたし、間違えるはずがないです。…え?ヒトの反応が予想と違う?涙が出て脱水症状が近い?
そんなはずないですよ。幸せフォルダに入ってましたし、悲しい感情を起こすものではないはずですけど。
いやいや責任取れって言われましてもね…。はあ、分かりましたよ。とりあえず後で原因究明しておきます。…今?無理ですよ。今「記憶の地図」ワークショップやってるんで。はい、毎年恒例のやつです。え?記憶の地図を確認しろ?さすがにそこまで見学させられないんですけど…。え?いやあれは幼い細胞にとって身体衛生上よくないかなと…あーはい分かりましたよ!」
(小声)ちょっとプログラム変えていいですか?記憶の地図室入ります。いや上がカンカンで見学者入れてもいいから早く確認しろって。はい。あとで見学した記憶消します。あのピカってするやつ持ってきて。
はーい!みなさん。ではこの検索してきた記憶がどこに保管されているのか気になりますよね?特別にデータバンクの中枢、記憶の地図室にご案内します!
その後、目の検査をするので順番に並んでくださいね。学校の勉強を思い出せなくなるかもしれませんがご了承ください!ではついて来てください!