香草

Open App
5/31/2025, 9:09:00 AM

「まだ続く物語」

目を開ける。
午前8時。
いつもの家の天井だった。3年前新しく始まる生活に心を躍らせて、選んだ築20年のアパート。
当時はこの田舎の土地で築20年なんて綺麗な方なんていう不動産屋の言葉を信じていたけど、今見てみると天井には黒いシミがうっすら見えている。
カビ?もしかして虫の卵?いや考えないようにしよう。ますます気が滅入ってしまう。
枕元に置いたスマホにはおよそ10件ほどの通知。やっぱり職場の人にプライベートの連絡先教えなければよかった。
別にそれくらいどうでもいいと思っていたけど、お節介なおばさんとおじさんは頻繁に連絡してくる。
こうやって一人でいたい時も放っておいてくれない。
「風邪長引いてるの?何か必要なものはない?」
「明日には来れそう?」
「体調崩してる時に悪いんだけど、今仕事が立て込んでて来週には出社してもらいたいんだけど」
「心配だから返事ください」
お前は私のお母さんかよ。しかもどさくさに紛れて早く出社しろなんて圧かけてきてるし。
私はうんざりしてスマホの電源を切った。

就職氷河期で就活がうまくいかず、地方の機械メーカーに入社した。数百人規模の会社だが、温かそうな社風だと思えた。
とにかく新しい環境でキャリアを積んでバリバリ働きたいと意欲に溢れていた。
しかし田舎特有の距離の近さ、仕事から地続きのプライベート、社員の少なさが原因の膨大な残業時間。
きっとこれらが全て悪いわけではない。人によってはアットホームに感じる環境だろうし、仕事しかしたくない人にとってはうってつけの会社かもしれない。
しかし実際に働いてみると私は働くことよりも友達や家族と長く過ごしたいと思う人間だったし、仕事とプライベートはハッキリと分けないと切り替えができないタイプだった。
それでも自分が選んだ道だから、職場の人はみんないい人だから、と自分に言い聞かせて働いて来た。
結局そのせいでこうやって3日間ベッドから一歩も動けない廃人が出来上がったのだ。

仮病を使って会社を休んで1週間になる。さすがにこれ以上嘘もつけない。
今更戻ったところで前と同じようには働けない。もしかしたら仕事を押し付けられて恨んでいる人もいるかもしれない。リストラ要員のリストに名前が入っているかもしれない。
そしたら私のキャリアはどうなる?たくさんお金を稼いで旅行や買い物をたくさんしたかったのに。
心配かけてしまうから親にも言えない。うまくいっている友達にも相談できない。
暗い考えが沸騰した水の泡のようにボコボコと弾ける。
流石にお腹がなった。もう何日も何も食べていないから当たり前か。しかし冷蔵庫のものは全て賞味期限が切れているしスーパーにも行けない。
残された道は一つしか思いつかなかった。

ベランダの手すりはいつも以上にひんやりとしていた。足の裏で感じているからかもしれない。
パジャマは薄すぎて、直接裸に風を感じているようだ。
もう全部めんどくさい。お腹が減るのも悩むのも。
全ての人の記憶から私が消えて欲しい。
目を瞑る。
途端にバランスを崩してどちらが上か下か分からなくなる。
風が一層強くなった。
フカフカのクッションに包まれているようだ。
今度こそしっかりと眠れる。

目を開ける。
午前8時。
電源を切ったはずのスマホが震えた。
画面には「ママ」の文字。
私は初めて泣きながら電話に出た。
死んだはずなのに、続いてる。
物語はまだ続くようだ。

5/30/2025, 11:50:09 AM

「渡り鳥」

朝の日差しが暖かく雀がチュンチュンと鳴くようになった。春が来たんだわ。腰が痛くてもう空も見上げるのに一苦労だけども、昨日より空は青いのだろう。
壁掛け時計が6時を知らせる。ぽっぽーぽっぽーと木の鳩が鳴くのを聞きながら、洗濯機から水を含んだ服を取り出す。
「よっこらせ」
何十年とやってきた動作が少し苦しくて歳を感じる。
今年で何歳になるのだったかしら。孫が8歳になるから、もう80近いのかしらね。そりゃ体が思うように動かないはずよねえ。誰に言うわけでもなくぶつぶつと口を動かす。しかしいくつ歳を重ねても春のときめきは薄れない。新しい出会いも別れもほとんどなくなってしまったけれど、何か起こりそうな予感がするのだ。
「もうお爺さんも死んでしまったから、いよいよ寂しいはずなのにねえ」
寂しいはずなのに、どこか落ち着かない。これが春の魔法というものか。
取り出した洗濯物は少ない。たまに帰ってくる娘に、「洗濯物は時々でいいんじゃない。私が帰った時にやるからさ」
と言われたものの毎日の習慣は今更変えられない。
しわくちゃになった服たちはやけに縮んで見えた。

玄関をガラリと開けると優しい風が飛び込んできた。
お爺さんが死んで湿っぽくなった家も少しだけ乾いた気がする。
「ちょっとドア開けておこうかね」
土間つきの玄関はすぐに匂いがこもってしまう。冬はさすがに寒くて締め切っていたが、そろそろ開けっぱなしでも良いかもしれない。
この間遊びに来ていた孫も「ばあちゃんちカビ臭い」とズバッと言っていた。歳をとってからは感覚が衰えてしまってよく分からないけど、これでカビ臭さも少しはましになるだろう。
物干し竿に捕まっているハンガーに肌着の袖を通し、タオルをかける。ピンチで靴下をぶら下げてしまうともう洗濯物はない。
肌色と土色の服が春風に揺れる。
昔は母の地味なファッションを馬鹿にしていたけれど、結局みんなこのファッションに行き着くのね。
真っ赤なワンピースもレースのシャツも今はただの思い出だ。

春風があまりに気持ちいいから思う存分吹かれているとさすがに寒くなってきた。フルっと身震いをしてしまったので風邪をひかないうちに戻る。
玄関のドアも閉めておこうと取っ手に手をかけた時、頭の上からバサバサと羽音が聞こえた。
ハッとびっくりして首をすくめる。
恐る恐る見上げてみると天井の隅で鳥が飛び回り暴れている。
「あらやだ、入ってきちゃったのね」
白いお腹と特徴的な尾羽から見てツバメのようだ。
春になって暖かくなったから南から渡ってきたのだろう。
「あんなに広い海を渡ってきたくせに、こんな小さな玄関に迷い込むなんて鈍臭いわねえ」
ツバメ自身混乱しているようで同じところをぐるぐると飛び回っている。
それにしても土間だからいいものの、家の中に入られてしまっては困る。
糞も落とされてしまうしどんなバイ菌を持っているか分からない。
娘に連絡すべきか、どうするか迷っているとツバメがチイチイと鳴いた。

まるで一緒に渡ってきた仲間を探すかのような心細そうな鳴き声だ。
少し迷って携帯電話を置いた。
「まあ少しだけならいいわよ」
ドアを開けていたらすぐに出て行くだろう。少し寒いけれど我慢しよう。
しかしツバメは次の日になっても玄関で飛び回っていた。
そういえば夢の中でもチイチイという鳴き声が聞こえていた気がする。
「あんたもばかねえ」
こちらもどうしようないので娘に連絡して来てもらった。
「おばあちゃん!つばめどこー?」
どうやら孫もツバメ見たさについて来たようだ。都会じゃあまり見れないのだろう。
この間会ったときより少し背丈が大きくなった気がする。子供の成長というのは早いものだ。
「そこにいるじゃないの、ほら」
孫の頭の上を指差す。
しかしいつのまにかツバメは消えてしまっている。
「あれ?」
孫も娘も不思議そうな顔をしている。
あのツバメも春の魔法だったのかもしれない。

5/29/2025, 11:20:16 AM

「さらさら」

鉄骨にぶつかる無骨な雨音が響く体育館で気怠げに整列する。グラウンドでは肌寒かった半袖の体操服も体育館の湿度でちょうど良くなっている。
予報にない雨で急遽屋外授業から体育館に変更になった。せっかく親友と揃ってテニスの授業を勝ち取れたというのに、体育館で走り回る羽目になった。
これだから梅雨は嫌なのだ。
先生が言った。
「今日は仕方ないからバスケットボールをしましょう」
一斉に沸き立つクラスメイトたち。私はため息をついた。
親友が気遣うようにこちらを見る。
「同じチームだったらいいね」
先生に聞こえないようにコソコソと耳打ちする。
「それより、こんなに暑い中走り回ったらベタベタになっちゃうね」
親友は少しふっと笑って言った。
「確かに。体中ベタベタになるね」

試合が始まった。親友と私は違うチームになった。正直テニス以外の球技は苦手だ。ましてやバスケットボールみたいに、ボールよりも人の体がぶつかってくる恐れがあるスポーツは特に苦手だ。それになぜかわからないけれど、私がドリブルするとあらぬ方向に飛んでいく。体育の選択授業でもテニスに並ぶほどバスケットボールが人気だったが、私にはその面白さがわからない。
対して親友は小学校からずっとバスケットボール部に所属している。身長も高く部活の次期エースになるだろうという噂だ。まぁ、私の親友なのだからそれくらいの実力は当然だろう。彼女は私の小さい頃からの幼なじみだ。小学校の時から運動神経も抜群で頭も良かった。そして誰に対しても優しくてクラス中の人気者だった。私にはないものをたくさん持っていたから彼女に憧れると同時に、親友であることが誇らしくもあった。

試合が始まると彼女は目の色を変えてボールに飛びついた。
とりあえず私も彼女の動きを真似して、足を動かしてみるが、彼女のスピードにはなかなか追いつけない。すらりと長い手足を存分に伸ばしてボールをゴールへと運ぶ。ジャンプをすれば彼女の長いポニーテールがさらりと揺れる。彼女がゴールするたびに歓声が上がる。そして私はチームメイトからチラチラと視線を感じる。「ずっと一緒にいてあんなに仲がいいのに、全然違うよね」
じめじめとした空気が胸に流れ込んでくる。
私は小さい頃から運動神経は良くなかった。勉強も苦手で癖っ毛で、ずんぐりむっくりのスタイル。あまり気にしないようにはしていたが、中学校に上がるとはっきりと思い知らされる。自分が好きになれない。どうして彼女とこんなにも違うのか。
彼女のように素直で可愛らしくて、ぱっちり二重のサラサラロングじゃないのはなぜ?
きっとこれまで私は彼女を理想の自分に見立てて、その隣にいることで自己肯定感を上げていたのだ。しかしいつしかこうやって相対するチームで別人として彼女を見るととてつもない劣等感に襲われる。

授業が終わり教室に戻ると、体操服がまとわりつく感覚がある。鬱々とした気持ちも汗と一緒にまとわりついているかのようだ。
結局彼女のチームが勝った。ただの体育の授業だと思っていても私と彼女の差をまざまざと見せつけられた気分になった。
「やっぱりベタベタになったね」
彼女が息を切らして話しかけてきた。
「そうだね」
私も明るい声で答える。彼女に落ち込んだ顔を見せてしまっては心配されてしまう。それは彼女に対する劣等感を知られてしまうことになる。
さすがに私のプライドが許さない。
「私、制汗剤持ってるよ。使う?」
彼女のこめかみからはキラキラした汗が流れている。私はじめじめとした汗しか書いていないと言うのに。
「ありがとう」
彼女が貸してくれたのはシトラスの香りの制汗剤。首元にシュート吹きかければ爽やかな香りとともに涼しい風が吹いてくる。
少しだけ気分が晴れた気持ちになった。彼女がサラサラの髪の毛をはためかせて振り向いた。
「次はテニスできるといいね」 
どこまでも清らかで爽やかな彼女にサッパリとした感情を抱く日は来るのだろうか。

5/28/2025, 1:10:30 PM

「これで最後」

久方ぶりに人がやってきた。
誰も怖がってこの屋敷に住もうとしなかったのに、どうやら買い手が見つかってしまったようだ。斡旋屋が戸惑う声が井戸の外から聞こえてくる。
「旦那、本当にこの家でいいんですかい…」
「ああ。広さも十分だしそこまで古くもない。そして値段も破格だ。申し分ないと思うがね」
「し、しかし曰くつきの屋敷ですぜ。ここに住んだ人はみな必ず気がおかしくなっちまうんだ」
「幽霊なんぞまやかしに過ぎん。わしはそんなものに惑わされはせん。むしろ独り身なのだから寂しくなくて好都合ではないか」
ハッハッと豪快な笑い声が井戸にこだまする。
どうしてみな私の安寧を邪魔するのだ。屋敷の主人に10枚の銘々皿を割った濡れ衣で井戸に身を投げてからおよそ幾年。穏やかに暮らす住人が憎くて恨めしくて仕方なく、主人が亡くなった後も、屋敷に住み着いた人々を散々追い払ってきた。
幽霊屋敷と噂が立つようになり、近ごろようやく静かな暮らしを手に入れたというのに。
あんな豪胆で弁が立つ男、騒がしくてかなわぬ。
他の住民と同じようにまたすぐに追い出してやろう。

しかし、あの会話からして男はなかなか手強そうだ。
幽霊なんて信じないと豪語していた。いつもならたった一晩、行燈を全て消して震える声でお皿を数えればすぐに尻に火が着いたように出て行ってくれるが、あの男は一筋縄ではいかない気がする。
見間違いかと思われるか、はたまた私に気付かぬかもしれん。
入念に戦略を練らねばならん。
手元にある9枚の皿を見つめる。仕えていた主人がわざわざ異人から買ってきた舶来品だ。美しく透き通ったギヤマンに細かな模様が浮かび上がっている。
当時は非常に高価なもので使用人のなかでも、特に主人のお気に入りだった私だけが扱うのを許可されていた。
しかしそれを妬ましく思った奥方がこっそりと1枚だけ持ち出し、わざわざ戸口で割ったのだ。
朝、仕事へ行く主人が土間に散らばる皿の破片を見て発狂したのは言うまでもない。
身に覚えのない出来事に私はただ泣きながら主人に縋り付くしかなかった。しかし他の使用人はとばつちりを受けたくないがために見て見ぬふり。
主人はこれまでの恩を無碍にしたと罵り、奥方も一緒になって詰った。
娘同然に可愛がられていたはずなのに、たった一枚の皿のために主人の態度が一転してしまったことに絶望し、この井戸に身を投げたのだ。

私は男にじわじわと恐怖を植え付ける作戦を考えた。
まず1日目、夕食の時間に生温かい風を送り、行燈を消す。しかし男は何食わぬ顔で黙々と食事を続けている。居間はこの井戸の真正面だ。冬の薄暗い闇の中で戸惑いもせず、行燈に火を再び入れることもしない様子はこちらが不気味に思うほど。しかしここで私も負けるわけにはいかぬ。
気を取り直して、渾身の力で井戸から這い上がる。
「皿がいちまい…」
腹の底から唸るような声をだす。しかし奴はこちらを見向きもしない。聞こえなかったのかともう一度、言ってみる。
「皿がいちまーい…」
やはり怖がる様子もない。
悔しいがひとまず、今日はここまでだ。
そして次の日、また行燈を消し井戸から這い上がる。
「皿がいちまい…皿がにまい…」
やはり今日も動じる様子はない。もはや尊敬の念を抱くほどだ。これまでほどに周囲に惑わされず目の前のことに集中できる人間はそうそういない。
なかば感心する気持ちで井戸に帰る。

そんな日をおよそ9日過ごした。
これまで彼がこちらを気にしたことはない。本当に見えていないのか、段々悲しくなってきた頃だ。
これで最後だ。もうこれ以上皿はない。今日が終われば彼が勝手に死ぬまで大人しくしておこう。
私は全ての皿を持って井戸から這い上がった。
「皿がいちまい…にまい…」
皿を数えるたびにこの見向きもされなかった9日間が走馬灯のように思い出される。
夕食を食べる彼。暗闇でも本を読む彼。布団を敷く彼。酒を飲む彼。
豪快で軽薄だと思っていた彼はいつも静かで慎ましい生活をしていた。家を空けることもなく遊びに行くこともなかった。
生きていればあのような殿方と一緒になりたかった。
せめてあの方が平和に暮らせるよう今日で顔を見せるのは最後にしよう。
「皿がきゅうまーい…一枚足りない…」
そして井戸に帰ろうとしたその瞬間だった。
「おい、おまえさん」
顔を上げると彼が井戸の前に立っていた。
「これでも構わんか」
差し出されたのは漆の小皿。
蚤の市で買ってきたようなそれは変に年季が入っており、縁も欠けている。
まさか話しかけられるとは思っていなかったから、声が出ない。
「これで明日も出てきてくれるか」
男は照れくさそうに言った。



5/27/2025, 9:32:22 AM

「君の名前を呼んだ日」

年末ということもあって居酒屋はたくさんの人と大声で溢れていた。アルコールというのは普段我慢していたこともぶちまけて声量のリミッターも取っ払ってしまうらしい。
久しぶりにお酒飲むから程々しないとなあとぼんやり考えながら奥の座敷を目指す。
「あ、来た来た!」
障子を開けると正面に座っていた茶髪の女の子が手を挙げた。私も釣られて笑顔で会釈をする。
4畳くらいの部屋には5人がぎゅっと座っていた。記憶の中の顔とは少し違うが、誰が誰かは分かる。
高校の生徒会だったメンバーたちで同窓会を開こうと茶髪の女の子、美里ちゃんが声を掛けてくれたのだ。
副会長だった美里ちゃんは当時からこうやって生徒会メンバーの仲を深めてくれた。彼女がいなければこうして5年経った今でも集まろうなんて言い出すような人はいなかっただろう。
「変わってないねー。相変わらず文字が綺麗そうな顔してる」
黒縁メガネを変わらず掛けている元生徒会長、凪くんが言った。そういえば、彼に「文字が綺麗そうだから」という理由で生徒会にスカウトされたのだ。
「お前こそそのメガネずっと変わらんじゃんか!」
元気に会長にツッコミを入れるのはもう一人の副会長、章二くんだ。彼らは幼馴染で長年のライバルだ。生徒会長選挙でも彼らは同時に立候補して戦ったが凪くんの圧勝だった。

私はひとつぽっかり空いていた下手の手前の席に座った。隣は雑務だったここねちゃんだ。
陽気なメンバーの中でも彼女は私とよく波長が合っていた。アニメオタクでいつもよく分からないジョークを言っているけど、ちょっと面白い。
「何飲む?」
そうここねちゃんは面倒見も良かった。誰かがいない時、ここねちゃんが必ずフォローに入っていたから実質生徒会はここねちゃんがいれば問題なく機能していた。
そして正面は大地くんだ。短髪だったのに襟足が長くなっている。
同じ書記のメンバー。そして私の初恋だった人。
今はもうなんとも思っていないけど、大地くんのおかげであの頃は学校に行くのが楽しくて楽しくて仕方がなかった。
「最近何してるの?」
凪くんがハイボールを渡してくれながら聞いた。
「私文学部に行って日本文学を専攻してるよ」
「うわーイメージ通り!」
大地くんと美里ちゃんが声を合わせる。
確かに小さい頃はよくこけしって呼ばれてたから、外見に合ってるのかもしれない。

「そういえばよく本読んでたもんね!」
凪くんが水滴が付いてしまったメガネを拭く。
「そうそう!図書室の本借りたらさー、図書カードに大体田中さんの名前が書いてんの!」
章二くんが机を軽く叩いて笑った。
「うわー懐かしー」
大地くんがぼそりとつぶやいた。
ハイボールを飲みながら私はチラリと彼の顔を見た。
大地くんは覚えてるだろうか。私が生徒会に入って一緒に仕事をしたときのこと。
あの日もそうやって図書室で日誌をまとめていた時だった。部活も終わる時間で図書室には誰もいなかった。すると図書室のドアがガラッと開いて大地くんが転がり込んできたのだ。
「ここにいたのか!仕事手伝うよ」
まだこめかみから汗が流れているのに、私を探して走ってくれたのだ。恋に落ちるにはそれだけで十分だったのに。
同じ机に座って私の手元に置いてあった本を取る。
「なんか難しそうな本読んでんねー」
パラパラとページを巡る音。ドキドキする心臓と緊張で強張る手足。大地くんの一挙手一投足に集中していた。


「りん?」
ふと大地くんと目が合う。
巻末の図書カードを開いているのを見て脳が状況を理解する。
「私の名前?」
「そう。りんって読むの?」
私の名前はまず一発では読めない。こけしと平凡な苗字に惑わされるらしく先生でもたまに間違えるのに。
「よく分かったね。凛杏って書いて、りんって読むの。よくりなって間違えられるのに。」
大地くんは目を見開いてこちらを見つめる。
「だってなんか、りなというよりりんっぽい顔してる」
それ以来ずっと生徒会メンバーからは名前で呼ばれるようになった。
大地くんはその日のこと覚えてるんだろうか。
ハイボールのグラス越しに目が合う。
気まずくて視線を落とすと彼の右手薬指にシンプルな指輪が光っていた。
久しぶりに飲んだアルコールは涼しい味がした。

Next