香草

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「渡り鳥」

朝の日差しが暖かく雀がチュンチュンと鳴くようになった。春が来たんだわ。腰が痛くてもう空も見上げるのに一苦労だけども、昨日より空は青いのだろう。
壁掛け時計が6時を知らせる。ぽっぽーぽっぽーと木の鳩が鳴くのを聞きながら、洗濯機から水を含んだ服を取り出す。
「よっこらせ」
何十年とやってきた動作が少し苦しくて歳を感じる。
今年で何歳になるのだったかしら。孫が8歳になるから、もう80近いのかしらね。そりゃ体が思うように動かないはずよねえ。誰に言うわけでもなくぶつぶつと口を動かす。しかしいくつ歳を重ねても春のときめきは薄れない。新しい出会いも別れもほとんどなくなってしまったけれど、何か起こりそうな予感がするのだ。
「もうお爺さんも死んでしまったから、いよいよ寂しいはずなのにねえ」
寂しいはずなのに、どこか落ち着かない。これが春の魔法というものか。
取り出した洗濯物は少ない。たまに帰ってくる娘に、「洗濯物は時々でいいんじゃない。私が帰った時にやるからさ」
と言われたものの毎日の習慣は今更変えられない。
しわくちゃになった服たちはやけに縮んで見えた。

玄関をガラリと開けると優しい風が飛び込んできた。
お爺さんが死んで湿っぽくなった家も少しだけ乾いた気がする。
「ちょっとドア開けておこうかね」
土間つきの玄関はすぐに匂いがこもってしまう。冬はさすがに寒くて締め切っていたが、そろそろ開けっぱなしでも良いかもしれない。
この間遊びに来ていた孫も「ばあちゃんちカビ臭い」とズバッと言っていた。歳をとってからは感覚が衰えてしまってよく分からないけど、これでカビ臭さも少しはましになるだろう。
物干し竿に捕まっているハンガーに肌着の袖を通し、タオルをかける。ピンチで靴下をぶら下げてしまうともう洗濯物はない。
肌色と土色の服が春風に揺れる。
昔は母の地味なファッションを馬鹿にしていたけれど、結局みんなこのファッションに行き着くのね。
真っ赤なワンピースもレースのシャツも今はただの思い出だ。

春風があまりに気持ちいいから思う存分吹かれているとさすがに寒くなってきた。フルっと身震いをしてしまったので風邪をひかないうちに戻る。
玄関のドアも閉めておこうと取っ手に手をかけた時、頭の上からバサバサと羽音が聞こえた。
ハッとびっくりして首をすくめる。
恐る恐る見上げてみると天井の隅で鳥が飛び回り暴れている。
「あらやだ、入ってきちゃったのね」
白いお腹と特徴的な尾羽から見てツバメのようだ。
春になって暖かくなったから南から渡ってきたのだろう。
「あんなに広い海を渡ってきたくせに、こんな小さな玄関に迷い込むなんて鈍臭いわねえ」
ツバメ自身混乱しているようで同じところをぐるぐると飛び回っている。
それにしても土間だからいいものの、家の中に入られてしまっては困る。
糞も落とされてしまうしどんなバイ菌を持っているか分からない。
娘に連絡すべきか、どうするか迷っているとツバメがチイチイと鳴いた。

まるで一緒に渡ってきた仲間を探すかのような心細そうな鳴き声だ。
少し迷って携帯電話を置いた。
「まあ少しだけならいいわよ」
ドアを開けていたらすぐに出て行くだろう。少し寒いけれど我慢しよう。
しかしツバメは次の日になっても玄関で飛び回っていた。
そういえば夢の中でもチイチイという鳴き声が聞こえていた気がする。
「あんたもばかねえ」
こちらもどうしようないので娘に連絡して来てもらった。
「おばあちゃん!つばめどこー?」
どうやら孫もツバメ見たさについて来たようだ。都会じゃあまり見れないのだろう。
この間会ったときより少し背丈が大きくなった気がする。子供の成長というのは早いものだ。
「そこにいるじゃないの、ほら」
孫の頭の上を指差す。
しかしいつのまにかツバメは消えてしまっている。
「あれ?」
孫も娘も不思議そうな顔をしている。
あのツバメも春の魔法だったのかもしれない。

5/30/2025, 11:50:09 AM