「まだ続く物語」
目を開ける。
午前8時。
いつもの家の天井だった。3年前新しく始まる生活に心を躍らせて、選んだ築20年のアパート。
当時はこの田舎の土地で築20年なんて綺麗な方なんていう不動産屋の言葉を信じていたけど、今見てみると天井には黒いシミがうっすら見えている。
カビ?もしかして虫の卵?いや考えないようにしよう。ますます気が滅入ってしまう。
枕元に置いたスマホにはおよそ10件ほどの通知。やっぱり職場の人にプライベートの連絡先教えなければよかった。
別にそれくらいどうでもいいと思っていたけど、お節介なおばさんとおじさんは頻繁に連絡してくる。
こうやって一人でいたい時も放っておいてくれない。
「風邪長引いてるの?何か必要なものはない?」
「明日には来れそう?」
「体調崩してる時に悪いんだけど、今仕事が立て込んでて来週には出社してもらいたいんだけど」
「心配だから返事ください」
お前は私のお母さんかよ。しかもどさくさに紛れて早く出社しろなんて圧かけてきてるし。
私はうんざりしてスマホの電源を切った。
就職氷河期で就活がうまくいかず、地方の機械メーカーに入社した。数百人規模の会社だが、温かそうな社風だと思えた。
とにかく新しい環境でキャリアを積んでバリバリ働きたいと意欲に溢れていた。
しかし田舎特有の距離の近さ、仕事から地続きのプライベート、社員の少なさが原因の膨大な残業時間。
きっとこれらが全て悪いわけではない。人によってはアットホームに感じる環境だろうし、仕事しかしたくない人にとってはうってつけの会社かもしれない。
しかし実際に働いてみると私は働くことよりも友達や家族と長く過ごしたいと思う人間だったし、仕事とプライベートはハッキリと分けないと切り替えができないタイプだった。
それでも自分が選んだ道だから、職場の人はみんないい人だから、と自分に言い聞かせて働いて来た。
結局そのせいでこうやって3日間ベッドから一歩も動けない廃人が出来上がったのだ。
仮病を使って会社を休んで1週間になる。さすがにこれ以上嘘もつけない。
今更戻ったところで前と同じようには働けない。もしかしたら仕事を押し付けられて恨んでいる人もいるかもしれない。リストラ要員のリストに名前が入っているかもしれない。
そしたら私のキャリアはどうなる?たくさんお金を稼いで旅行や買い物をたくさんしたかったのに。
心配かけてしまうから親にも言えない。うまくいっている友達にも相談できない。
暗い考えが沸騰した水の泡のようにボコボコと弾ける。
流石にお腹がなった。もう何日も何も食べていないから当たり前か。しかし冷蔵庫のものは全て賞味期限が切れているしスーパーにも行けない。
残された道は一つしか思いつかなかった。
ベランダの手すりはいつも以上にひんやりとしていた。足の裏で感じているからかもしれない。
パジャマは薄すぎて、直接裸に風を感じているようだ。
もう全部めんどくさい。お腹が減るのも悩むのも。
全ての人の記憶から私が消えて欲しい。
目を瞑る。
途端にバランスを崩してどちらが上か下か分からなくなる。
風が一層強くなった。
フカフカのクッションに包まれているようだ。
今度こそしっかりと眠れる。
目を開ける。
午前8時。
電源を切ったはずのスマホが震えた。
画面には「ママ」の文字。
私は初めて泣きながら電話に出た。
死んだはずなのに、続いてる。
物語はまだ続くようだ。
5/31/2025, 9:09:00 AM