「これで最後」
久方ぶりに人がやってきた。
誰も怖がってこの屋敷に住もうとしなかったのに、どうやら買い手が見つかってしまったようだ。斡旋屋が戸惑う声が井戸の外から聞こえてくる。
「旦那、本当にこの家でいいんですかい…」
「ああ。広さも十分だしそこまで古くもない。そして値段も破格だ。申し分ないと思うがね」
「し、しかし曰くつきの屋敷ですぜ。ここに住んだ人はみな必ず気がおかしくなっちまうんだ」
「幽霊なんぞまやかしに過ぎん。わしはそんなものに惑わされはせん。むしろ独り身なのだから寂しくなくて好都合ではないか」
ハッハッと豪快な笑い声が井戸にこだまする。
どうしてみな私の安寧を邪魔するのだ。屋敷の主人に10枚の銘々皿を割った濡れ衣で井戸に身を投げてからおよそ幾年。穏やかに暮らす住人が憎くて恨めしくて仕方なく、主人が亡くなった後も、屋敷に住み着いた人々を散々追い払ってきた。
幽霊屋敷と噂が立つようになり、近ごろようやく静かな暮らしを手に入れたというのに。
あんな豪胆で弁が立つ男、騒がしくてかなわぬ。
他の住民と同じようにまたすぐに追い出してやろう。
しかし、あの会話からして男はなかなか手強そうだ。
幽霊なんて信じないと豪語していた。いつもならたった一晩、行燈を全て消して震える声でお皿を数えればすぐに尻に火が着いたように出て行ってくれるが、あの男は一筋縄ではいかない気がする。
見間違いかと思われるか、はたまた私に気付かぬかもしれん。
入念に戦略を練らねばならん。
手元にある9枚の皿を見つめる。仕えていた主人がわざわざ異人から買ってきた舶来品だ。美しく透き通ったギヤマンに細かな模様が浮かび上がっている。
当時は非常に高価なもので使用人のなかでも、特に主人のお気に入りだった私だけが扱うのを許可されていた。
しかしそれを妬ましく思った奥方がこっそりと1枚だけ持ち出し、わざわざ戸口で割ったのだ。
朝、仕事へ行く主人が土間に散らばる皿の破片を見て発狂したのは言うまでもない。
身に覚えのない出来事に私はただ泣きながら主人に縋り付くしかなかった。しかし他の使用人はとばつちりを受けたくないがために見て見ぬふり。
主人はこれまでの恩を無碍にしたと罵り、奥方も一緒になって詰った。
娘同然に可愛がられていたはずなのに、たった一枚の皿のために主人の態度が一転してしまったことに絶望し、この井戸に身を投げたのだ。
私は男にじわじわと恐怖を植え付ける作戦を考えた。
まず1日目、夕食の時間に生温かい風を送り、行燈を消す。しかし男は何食わぬ顔で黙々と食事を続けている。居間はこの井戸の真正面だ。冬の薄暗い闇の中で戸惑いもせず、行燈に火を再び入れることもしない様子はこちらが不気味に思うほど。しかしここで私も負けるわけにはいかぬ。
気を取り直して、渾身の力で井戸から這い上がる。
「皿がいちまい…」
腹の底から唸るような声をだす。しかし奴はこちらを見向きもしない。聞こえなかったのかともう一度、言ってみる。
「皿がいちまーい…」
やはり怖がる様子もない。
悔しいがひとまず、今日はここまでだ。
そして次の日、また行燈を消し井戸から這い上がる。
「皿がいちまい…皿がにまい…」
やはり今日も動じる様子はない。もはや尊敬の念を抱くほどだ。これまでほどに周囲に惑わされず目の前のことに集中できる人間はそうそういない。
なかば感心する気持ちで井戸に帰る。
そんな日をおよそ9日過ごした。
これまで彼がこちらを気にしたことはない。本当に見えていないのか、段々悲しくなってきた頃だ。
これで最後だ。もうこれ以上皿はない。今日が終われば彼が勝手に死ぬまで大人しくしておこう。
私は全ての皿を持って井戸から這い上がった。
「皿がいちまい…にまい…」
皿を数えるたびにこの見向きもされなかった9日間が走馬灯のように思い出される。
夕食を食べる彼。暗闇でも本を読む彼。布団を敷く彼。酒を飲む彼。
豪快で軽薄だと思っていた彼はいつも静かで慎ましい生活をしていた。家を空けることもなく遊びに行くこともなかった。
生きていればあのような殿方と一緒になりたかった。
せめてあの方が平和に暮らせるよう今日で顔を見せるのは最後にしよう。
「皿がきゅうまーい…一枚足りない…」
そして井戸に帰ろうとしたその瞬間だった。
「おい、おまえさん」
顔を上げると彼が井戸の前に立っていた。
「これでも構わんか」
差し出されたのは漆の小皿。
蚤の市で買ってきたようなそれは変に年季が入っており、縁も欠けている。
まさか話しかけられるとは思っていなかったから、声が出ない。
「これで明日も出てきてくれるか」
男は照れくさそうに言った。
5/28/2025, 1:10:30 PM