香草

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5/7/2025, 4:27:11 PM

「ラブソング」

"カタオモイ"

ギターの弦を張る。
向かい合わせに座っている彼女は眉間にしわを寄せて、分厚い本を読んでいる。彼女の読書の邪魔にならないよう、5月のジリジリとした日差しを僕の背中が受け止める。
弦をそっと掻き撫でた。穏やかな音が静寂を揺らす。
春は名曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。人の感情が一番揺れ動くから。
僕は春の曲をひとつひとつなぞるようにかき鳴らしていった。桜はとうに散ったのにギターの音がまるで花びらのように舞う。
僕は彼女の顔をじっと見つめた。眉間のしわをそのままに口角にもしわを寄せた。
結婚してもう30年がすぎた。
お互いしわが目立つ歳になったのだ。
狭いライブハウスで声を張り上げていた僕もいつのまにか高い声も出なくなって拍手や歓声から程遠いところまで来てしまった。

あの頃は若かった。僕は早く売れたくていつも焦燥感を感じていた。毎日ライブをして声も思うように出せなくなるほど。一定のファンはいたが、メジャーデビューできるほどの力はなかった。
いつまでも夢を追っていられないとバンドのメンバーが一人二人と抜けてしまった。
ライブができなくなった僕に残されたのは彼女しかいなかった。
高校生の頃からずっとそばで応援してくれていた彼女は僕を見捨てずに寄り添い続けてくれた。
半ば諦念のようなものはあったのかもしれない。早く定職に就けと小言を言われていたから。
その言葉通り、結局小さな不動産の会社に就職し、定年まで勤めあげたわけだが。

僕らは子どもを作らなかった。
ある時彼女が泣きながら家に帰ってきた。
「子ども産めないかもしれない」
僕は激しくしゃくりあげる肩を抱いてつぶやいた。
「僕は君にずっと片思いしてるようなもんだからね。それでいいのかもしれない」
彼女は昔から僕の憧れの存在だった。頭も良くて友達や家族からも愛されていて、決して僕の手で汚してはいけない存在だった。
だから僕らは子どもを作らなかった。
彼女は死んでしまうんじゃないかと思うほど落ち込んで、僕に新しいパートナーを見つけるように促した。そうやって言われるたびに僕は泣いた。
「僕のそばを離れないでよ」
そして彼女は困ったように笑って「小さな子みたいね」と泣くのだ。

「…ラブソングばかりね」
ふと彼女がつぶやいた。目線は本に向けたまま、耳はこちらを向けているらしい。
「春だからね」
僕は彼女のしわを見つめながらつぶやく。
「春ももう終わりよ」
僕は背中の暑い日差しを感じながら頷く。
春は恋の曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。
「みんな似たような歌詞ばかりね」
彼女の頭の中にはそれぞれのラブソングの歌詞が浮かんでるようだった。
「お似合いの言葉が見つからないんだよ。きっと」
今の僕がそうだからね。









5/5/2025, 3:39:15 PM

「手紙を開くと」

久しぶりに見た彼女は相変わらず美しかった。腰まであった黒光りするほど綺麗な髪は茶色に染まって肩のところで切られていた。ピンク色のシャツと薄いジーンズはまさに春らしい。そこはかとなくきらめく目元とじゅわっと赤らんだ頬は彼女が大人になったことを示している。
「これで全員集まった?」
幹事の男が呼びかける。招待状に名前が書いてあった気がするが忘れた。20年前に卒業した小学校の校門前には総勢20人ほどの大人が集まっている。小洒落た雰囲気の奴、太ったやつに逆に痩せた奴。みんな人生に満足したから、思い出を掘り返しにきましたというように見える。
後ろからヒソヒソ声が聞こえる。
「ねえ、あのイケメン誰だっけ…?」
「確か、不登校だった人だと思うけど。マドンナとなんかあったはず…」
「えーマドンナ、あんなイケメンフったの?」

おそらく僕のことだろう。
マドンナ…。春の妖精のような彼女。
僕のことを覚えているだろうか。
「おーい!あったぞ!」
掘り返し担当の男たちが手を振って呼びかける。僕はワラワラと駆け寄る集団に遅れてついて行った。
タイムカプセルは土に塗れていたが、しっかりと思い出を想起させた。保健室の先生に促されてクラスのみんなが帰った後に箱に入れた記憶。
だから一番上にあった手紙は僕の物だ。
「お前のだろう?」
幹事の男が手渡ししてくれた。僕は笑顔で手紙を受け取った。
封筒は糊付けされていてずっしりと重い。
べりべりと封を剥がすと少しだけアルコールの匂いがした。

「拝啓、20年後の僕へ。マドンナは今でも綺麗ですか?幸せに暮らしてください。」
2行にも満たない、短いメモ書きが入っていた。
小さくて弱々しい文字。
当時の僕は彼女のことで頭がいっぱいになるほど恋焦がれていた。もちろんマドンナだからライバルは多い。しかし当時はデブで頭も悪かったからなんの勝ち目もない。だから僕は彼女に近づいた。
封筒から黒光りするほど美しい一房の髪が滑り落ちる。
あの頃はこれを手に入れるので精一杯だった。逃げる彼女の顔はとてつもなく可愛らしかった。
20年経った今ならマドンナのすべてを手に入れられる。
僕は彼女にそっと近づいた。
彼女の顔がみるみる引き攣る
「僕のこと覚えてる?」
僕は彼女に見えるように黒髪を揺らした。





5/5/2025, 10:18:16 AM

「すれ違う瞳」

赤信号で止められた横断歩道。
パーソナルスペースが限りなくゼロに近づく電車の車内。
オフィスや店がたくさん入ったビルのエレベーター。
赤の他人と空気という糸で繋げられる瞬間はいくらでもある。目と目が合うこともないが、少しでも変な挙動が行われると痛いほどピンと張り詰められる。
しかしたまにその糸を忘れるほど図太い神経をお持ちの方もいる。
私は少し座り直すふりをして隣のサラリーマンの頭を押しのけた。夕方を少しすぎたこの時間の電車は同じような服装の人間ばかり乗ってくる。久しぶりの外出だからとウキウキで着てきた空色のカーディガンが明らかに浮いている。
疲れ切った顔を見ているとこちらもなんだか気分が落ち込んでくる。

対面に座っている中年男性と目が合ってしまった。
明らかに不機嫌そうな顔をしている。すぐに目を逸らした。あまりジロジロ見ていると危ないという警告が聞こえる。この間だって目が合ったからという理由で殴られた青年のニュースを聞いたばかりだった。今も、空色のカーディガンがムカつくとかいう理由で殴られる可能性は十分ある。隣のサラリーマンがまたもたれかかってきた。
心の中でため息をつく。私も赤の他人に頭を預けられるほど神経が図太ければ良かったのに。
若干禿げかけている頭頂部が気持ち悪くて肩でそっと押し返す。その反動で禿頭が肩から胸の方にずれ落ちてしまった。どう考えても迷惑だ。しかし思い切って起こして指摘するのも逆ギレされそうで怖い。
席を移動するか、と腰を浮かそうとした瞬間対面の男性が立ち上がった。

「おい、お前」
男性は私の前に立ちはだかるとドスの利いた声を出した。その気迫が怖すぎて喉から息が漏れる。口が乾いて返事もできない。できるだけ目を合わせないように男性の革靴を見つめる。ピカピカに磨き上げられていて冷静に感心してしまう。
「お前だよ」
周囲の空気がピンと張り詰めていて肌が痛い。車内の注意がすべてこちらに集中しているのが分かる。
今すぐ消えてなくなりたい。空色のカーディガンなんて着てこなければ良かった。
「聞こえてんだろ。お前だよ。寝たふりして女性に触れるんじゃねえよ」

隣のサラリーマンがゆっくりと頭を持ち上げた。
肩は軽くなったものの油ぎった温もりが残っている。
「私ですか?すみません。寝てただけなんですけど」
ハゲサラリーマンは憤慨するでもなく怒鳴るわけでもなく丁寧な声で反論した。
「いやお前が頭押されるたびに目開けてたの知ってんだよ。揺れに合わせてもたれかかるタイミング覗ってただろ」
男性は負けじと大きな声をあげる。
ハゲサラリーマンは相変わらず寝てただけだ、と穏やかな声で主張する。知らない人が見たらどう見ても立ちはだかる男性が悪いように見える。
しかしハゲサラリーマンがこちらを全く見ないことから私にはどちらが正しいかはっきりと分かっていた。
電車が止まった。いつのまにか駅に着いたようだった。張り詰められた空気から逃げるようにたくさんの人が降りていく。私も男性の脇をすり抜けて降りた。
自分が痴漢のターゲットになった事実と注目されているという状況に耐えられなかった。
男性とは一度も目を合わせることができなかった。









5/4/2025, 11:33:52 AM

「青い青い」

ジメジメと空気がいつもの3倍重くて、蝉の声が鬱陶しさ5倍増しで夏を盛り上げる。
世界のどこにいても暑い。冷蔵庫に顔を突っ込んでも暑い。暑いからじっとしているのに、汗がじわっと染み出して、髪の毛やら服やらが肌に張り付く。
デフォルトで頭の血管がプッチンしそうになるこの季節は私の数少ない嫌いなものの一つだ。
私は畳の上で大の字になって、通り過ぎる風を待った。たとえ熱風だったとしても多少は涼しい。
夏休みの日中は大体こんな風にして過ごす。畳の上でゴロゴロ。家主である両親が暑さに我慢できなくなったら冷房の下でゴロゴロ。
こんな暑い日は活動してはいけない。

2階からバタバタと、足音がして「お母さーん!」と呼ぶ声がした。
母親は新聞を読むふりをして無視をした。
するとリビングのドアからひょっこりと坊主頭のチビの弟が顔を出した。
「お母さんてば!」
蝉にも負けないように大声を出してるのか、暑さが7倍増しになった気がする。
母親は若干めんどくさそうに「何?」と振り返った。
「海行こうよ!」
夏休みが始まってから連日連夜この言葉を繰り返している。
もはや誰も彼を説得しようとしない。
私の家族は一人を除いて全員インドアだ。夏の活動量は極端に減る。それを海に連れて行こうものなら家族の3/4がデロデロに溶けてしまう。

「悪いけど無理だって話したよね?人も多いし、あんたそもそも泳げないじゃないのよ」
母は半ば諦めたように諭した。これも連日連夜繰り返している。
「いやいや!夏だよ!青い空ときたら青い海!行きたい!行きたい!」
暑さが10倍増しになる。
青い青いってうるさいケツの青いガキんちょが。
私はバレないようにそっと自分の部屋に戻ろうととした。巻き込まれたらたまったもんじゃない。
しかしちょうどリビングから出るところで母親に見つかってしまった。
「お姉ちゃんに連れて行ってもらったら?暇でしょ?」
母親がいいカモを見つけたと言わんばかりの笑みでこちらを見た。
つられて弟がキラキラとした目でこちらを見つめる。
ヤツの青いTシャツには"BLUE SEA"とでっかくプリントされた文字が並んでいる。
私はため息をついて、自分の部屋に逃げ込んだ。
「お姉ちゃん♡」
猫撫で声がドアの外から聞こえてくる。
背中に冷や汗が流れた。
先ほどまでの暑さが嘘のようだ。



5/3/2025, 8:29:17 AM

「sweet memories」

目が覚めると太陽はすでに見えない位置まで昇っていて黄色じみた光が窓から差し込んでいた。
いつもより寝覚めの悪い頭をぶら下げてトイレによろよろと駆け込む。
ここでもオレンジじみた照明に照らされながらぼんやりと昨日のことを思い出す。
「今日は華金だぞ!」という上司の鶴の一声で飲み会が決まった。一番若手だからとか言う令和にそぐわない理由で、強制的に店探しを頼まれて予約し、およそ10人ほどで宴会が始まった。最初は自部署だけの飲み会だと思っていたが、数人他部署の人も混じっていたらしい。私は飲みやすいとお勧めされて梅酒ばかり注文していた。
頭が痛い。正直何を話したのか覚えていない。
例の流行病で大学でもあまり飲み会をしてこなかったし、そもそもアルコールに強い遺伝子は組み込まれていない。

私は重たい頭を持ち上げてキッチンへ向かった。
血液が下に流れていって顔が冷たい。
500ミリの計量カップに水道を思いっきり捻って飲み干した。体がスポンジになったみたく、まだ喉が渇いた。私はもう一度500ミリを飲み干した。
ベッドに倒れ込み、目を閉じると脈拍のリズムに合わせて頭の中で誰かがデスドラムを演奏している。
気を逸らそうと昨日の続きを思い出す。
何を話したのかはさっぱり覚えていないが、これまでの人生であまり登場してこなかった飲み会だから新鮮で楽しかったのは覚えている。
そういえば隣の部署の若手くんも来ていたな。確か、同い年ということが発覚して驚いたのを覚えている。
新卒で入社した私と違って彼は中途採用で入社した。爽やかな雰囲気で、初めて見かけた時から仕事ができそうなオーラが漂っていて密かに憧れていたのだ。
お腹がぎゅるると鳴った。脳みそが糖分をご所望だと暴れている。

私はまたキッチンに行ってチョコレート、クッキー、マシュマロ、シュークリームを取ってきた。
まずはシュークリームにかぶりつく。ホイップのふわふわな口溶けととろけるような甘さが脳みそに染み渡る。デスドラムの演奏が少し弱くなった気がする。
次にチョコレート。先ほどのホイップでとろけてしまった舌がビターな口当たりで輪郭を取り戻す。じわじわと甘さが溶け出すとうっとりと口が動く。
そしてクッキー。サクと歯を立てるとほろっと口の中で崩れた。小麦の香りが鼻に抜けて砂糖の香りが口の中に充満する。
最後にマシュマロ。シュワっむちっと噛みちぎるとホイップのような、砂糖のような甘さが転がってくる。
脳みそではなく体に染み渡る甘さだ。
いつのまにかデスドラムは消えていた。
燃えるように喉が渇くのでまた500ミリを飲んだ。

窓から差し込む光がオレンジがかっている。
頭の神経がようやくつながってきた気がする。
私はようやくスマホという存在を思い出した。先輩からたくさん心配の連絡が来ている。
やはり昨日の私はベロベロに酔っ払っていたらしい。
早く返信しなきゃと画面をタップしようとしたとき、知らない名前を見つけた。
「無事に帰れた?同い年って知ってびっくりした笑
もっと2人で話したいんだけど、空いてる日ないかな?」
スマホが滑り落ちそうになる。なぜか慌てて画面を消す。お腹の底から頭のてっぺんまで嬉しさが込み上げてくる。たった一つのメッセージでスイーツを食べたときよりも脳みそが甘くとろけた。

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