「好きになれない、嫌いになれない」
兄貴が帰ったときはすぐに分かる。玄関の外からバタバタと走る音が聞こえてくるからだ。そして小学生のようにドアを思いきっきり開けて「ただいまー!!」と叫ぶ。
10分早く帰宅してるからいつもその声に驚いて、集中力が途切れる。受験生の妹がいるの分かってんのか?
そして学ランを自分の部屋にほっぽり投げてそのままバイトに行く。まじでうるさい。
バタバタと家を荒らして出ていく様子はさながら台風のフー子。
兄貴は常に誰かと遊びに行っているかバイトに行ったりしていた。
両親も、兄貴の性格には諦めているようで「あの子はジャングルでもサバンナでも生きていける」と死んだ目で言っていた。
声もでかいし、無駄に運動神経がいいから、ワニでもライオンでも威嚇して逃げ伸びることはできるだろう。なんなら捕まえて夕飯のおかずに持って帰ってきそうだ。
対して私は友達も少なくおとなしい性格だった。兄が外で暴れ回っている間、私は学校や図書館にこもって本を読んだり勉強したりした。初めて学校のテストで100点を取って帰ってきた時は、「初めて見た…」と両親を感動させた。
真反対な性格の故か、一緒に過ごす時間が少なかった故か、正直兄のことは苦手だった。
だってどう考えてもライオンに勝てそうな脳筋野郎なんて理解の範疇を超えてる。
両親が遠縁の親戚の法事に行って不在にしていた日だった。
両親は夜遅くまで帰ってこないと言われていたし、兄貴もいつも通りバイトか、友達と遊びに行っているから夕食は一人で食べて寝る準備を済ました。
一人暮らしをするとこんな感じかなあ、と呑気に考えて、シンとした家の静けさが少し怖くてテレビをつけながらうとうとしていた。気付けば23時。いつもの寝る時間を過ぎてしまっている!
自分の部屋に行こうとリビングのドアを開けた。ヌッと兄貴の顔が出てきて硬直する。「ピャッ」と点のような叫びの後、兄貴は「なんだお前かい」とホッとした顔で笑った。私は叫ぶなんてみっともないことはしなかったが、静かに心臓をバクつかせていた。
「ちょうどいいや。これ食べようぜ」
兄貴は片手を上げた。手には白い箱がぶら下がっている。
「何それ?」
「え?ケーキだけど。お前誕生日じゃん?」
私の誕生日は明日である。
「誕生日明日なんだけど…」
「いいじゃん。明日俺バイトだから食えねーし」
お前が食いたいだけじゃん。
ほらほらと私を押しのけてリビングに入る。すれ違った兄貴から少しだけ甘い香りがした。
「来年はケーキの代わりにライオンの肉でもお願いしようかな」
私はふざけて兄貴の背中に言った。
「なんでライオンなんだよ?」意味が分からないというようにキッチンに立つ兄貴。少し考え込んで「ワニならワンチャン…?」と呟いた。
「夜が明けた。」
全ての電気を消してベッドに潜りこむ。
真っ暗だ。瞼を閉じているのか開けているのか分からない。豆電球をつけないと眠れない人もいるといるが、僕の場合はうっすらと視界に入るモノが眠りを妨げる。
研ぎ澄まされる感覚の中で、ひんやりとした布団に体を縮こまらせて耐える。少し震えていると冷たさがそれほど気にならなくなる。
人生もこんなものか。
新しい環境に飛び込みもうすぐ1ヶ月になる。
学生の頃のように気心が知れた仲間と馬鹿なことをして笑っていた時から、ビジネスという計りかねる距離感で責任を果たさないといけなくなった。
最初こそ戸惑ったものの今では自分の性格も受け入れてもらえてる気がする。
今日だって、いつも通り会議の議事録を取るだけの仕事だったが、部長に声をかけてもらった。
「君最近入った若手だよね。議事録取ってるの?」
部長は忙しい人でなかなかオフィスでは見かけない。今日は珍しく会議に出席していた。若い頃から苦労してきた叩き上げで仕事は厳しく指摘をするが、話せばただの気のいいおじさんということはなんとなく知っていた。
「はい。自分はこれくらいしかできることがないので、雑用なら任せてください!」
にこにこと答えた。明るくて謙虚なやつと思われただろう。
部長もじっと僕の顔を見て「お、じゃあ雑用のプロとして期待してるよー」と言ってくれた。
ただ少し気になるのが、雑用のプロという言葉だ。やけに棘を感じる言葉だ。一瞬まずいことを言ったのかと思ったが、思い当たる節はない。
…いやもしかして、議事録係を雑用と言ってしまったのがまずかったのか!?
だから雑用のプロなんて言葉をかけられたんじゃ…
僕は焦って寝返りを打った。心臓が大きな音を立て始める。目を開けているのか閉じているのか分からなくなってきた。
いやまさかそんなわけ。議事録はだれでも書けるから何もできない僕でもできる仕事としてやらされているはずだ。
寝返りを打つ。
それに部長の表情は笑っていた気がする!皮肉のつもりではなくて冗談で言っていたはずだ。
寝返りを打つ。
しかし、もし雑用と割り切って仕事するんじゃなくて、そういう細かい仕事から成長しろよという風に思っていたとしたら…
寝返りを打つ。
まあ、明日先輩にそれとなく聞けばいい。先輩だって若手の頃があったんだから。
そんなことよりそろそろ寝ないとまずいのでは。明日も朝早くから仕事がある。
寝返りを打つ。
あれ、待てよ?いつもどんな体勢で寝てたっけ?
寝返りを打つ。
気付けばカーテンから青白い光が漏れ出し、ようやくまぶたが開いていたことに気付いた。
「ふとした瞬間」
高校の帰り道、小屋のようなプレハブで出来立てアツアツのコロッケを売っている店があった。
ずっとニコニコと赤ら顔で少しだけ酒の匂いがする爺さんが売っている店だ。
ちょうど手のひらに収まるほどの小さなコロッケだったが、学校から帰る腹ペコの学生にとってはちょうどいいオアシスで、サッカー部だった僕も夕飯までの時間をそこで潰すのが習慣となっていた。
まさに今揚げたてかのように、平袋にじわっと油が染み出していて、サクッといい音を立てると中からホクホクのジャガイモが現れる。
夕焼けに照らされながら友人と食べたそれはまさに青春の味だった。
帰宅した午後10時。スーツ姿のまま、冷凍庫を開けて冷凍うどんの袋を破る。湯を沸かしている間にスウェットに着替えて風呂に湯を入れる。
無駄が削ぎ落とされた効率的でスムーズな動き。
ただでさえ少ない家での滞在時間で効率的に自由時間を生み出そうとした結果の動き。
仕事よりもずっとテキパキと動けているかもしれない。
鍋の湯はふつふつと泡が浮いてきている。うどんをそっと入れるとぐぅ、とお腹が鳴った。
そういえば、今日は昼ごはんを食べ損ねた。
とんでもないクレーマー客が昼休憩のつい30分前にやってきてその対応をせざるを得なかった。
今思い出しても、あのジジイにふつふつと怒りがわいてくる。
「ちょっとだけ、贅沢するか」
倹約、節約を家訓に掲げている我が家において、うどん以外の惣菜を用意することは滅多にない。
俺はまた冷蔵庫を開けた。
「あー、これ忘れてたな」
見つけたのは冷凍のコロッケ。1週間前の安売りで買って冷凍庫に放置していた。
電子レンジで600W3分。500W4分。1分の長さよりもなんとなくたった100Wの電気代が惜しくて500Wに設定する。
うどんがちょうど茹で上がるのと同時にレンジが鳴った。
冷凍うどんと冷凍コロッケ。少しだけ贅沢な食卓。
そういえば高校の時、家での夕飯がコロッケだった時は絶望したな。ふとそんなことを思い出した。
プレハブのコロッケ屋。今度地元帰った時に寄ろうかな。そんなことを思いながらうどんをすする。
そしてコロッケを一口。
夕焼け。プレハブの小屋。
コロッケの味と共に走馬灯のように駆け巡るコロッケ屋の景色。
「あの爺さん、冷凍コロッケ出してたのか…」
赤ら顔の爺さんが思い出の中でピースした。
「どんなに離れていても」
午前9:00。マンション5010号室。
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
「何かあったらすぐに連絡してね」
「うん」
「月に1回は実家に帰ってきなさいね」
「うーん」
すでに5回目のやり取りだ。いや昨日の夜から数えたら10回目かもしれない。
毎度眉間にしわを寄せて心配そうにこちらを覗き込む母親は「聞いてるの?」と少し語気を強くした。
家族で囲む最後の朝食だからかいつもより豪華な食卓になっている。テーブルの中心にカーネーションが飾られ、フルーツがいつもより5品ほど多い。といっても普段の朝食が一般的な家庭からするとすでに豪華であることはつい最近知った。
幼い頃から特段不自由なく暮らしてきた。
海外を飛び回る父親と、甲斐甲斐しい母親。欲しいと言ったものはなんなく手に入る。
それが当たり前だと思っていたし、それでいて自分は一般的な家庭だと思っていた。
しかしそれが大間違いだということはつい最近、挫折を経験する中で思い知った。
初めての大学受験に失敗し、大焦りした母親が大手予備校に僕を入れた。私立の中高で友人も僕と同じようにブランド物のパーカーを着ているような連中ばかりだった場所からいつから着ているか分からないスウェットの奴らの中に放り込まれたのだ。
しかし彼らは門限もなければ、バイトもして経済的にも精神的にも自立していた。
僕にはそれが信じられなくて彼らが輝いて見えた。そして自分が恵まれていたことと異常なほど過保護な母親を持っていたことに気付いたのだ。
「もう出る時間だ」
僕は朝食もそこそこに席を立った。もう?という母親の声を背中に受けながら玄関を開けた。
清々しい風。僕はこれから自由になる。大学生になったら一人暮らしをしたいと言った時の母親は目玉が飛び出るほど驚き必死に反対したが、僕の決心は強かった。
予備校の奴らと同じように自立して生きていきたい。
「荷物は?」
「もう運んでもらってるよ」
「そう...」
母親は相変わらず心配そうな顔をやめない。
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「はいはい」
「何かあったらすぐに連絡してね」
「ママ」
僕は母親の言葉を遮り、くるりと背中を向けると正面の5011号室のドアを開けた。
「隣の部屋に引っ越すだけだから」
外部お題:「マリオ」
クラス替えという強制人間関係シャッフルイベントから1ヶ月経つと騒がしかった教室も段々と落ち着いてきた。
俺がその様子を冷静に傍観できたのは、相棒とも呼べる幼馴染と同じクラスになれたからだ。
母親同士が仲が良く小さい頃から一緒にいる時間が長かった。ほとんど家族みたいな存在だ。だから学校にいる時でも脱力してしまう。
「なー」
「あー?」
相棒は前の席に座りながら俺の机に突っ伏している。
俺はスマホを触りながら気のない返事をした。
「俺さあ、彼女できたっていったじゃん?」
「あー、この前の」
つい1ヶ月前に嬉しそうに報告してきた相棒の顔が蘇る。ウザかったな、あの顔。
入学式の時に一目惚れした女の子に勇気を出して連絡先を聞き、1年ほどかけてじわじわと仲良くなった結果、ついに付き合うことができたのだ。
「別れた」
「え?」
「別れた」
反射で相棒のつむじを見つめる。相棒はつむじをこちらに向けたまま微動だにしない。
いやいや、付き合うまで1年以上かかってたのに別れるのは一瞬てどういうことだよ。
「いやさすがに早くね?なんで?」
相棒が捨てられた側というのは聞かなくても分かる。
女を振れるような顔じゃない。
「あの3年の先輩いるじゃん?野球部のヤンキー」
野球部のヤンキー。目つきが非常に悪く、そいつに睨まれると気絶してしまうという異次元の噂を持つ。そいつを知らないものは学校にいない。
「彼女、アイツの妹でさ」
「マジかよ!」
俺が見かけた彼女は清楚で白百合のように可憐な女子だった。
それがヤンキーの妹?脳内で白百合とジャイアンがどう頑張っても結びつかない。
「デートの度に彼女迎えに行くんだけど、毎回アイツが出てくるんだよね」
「おう…」
確かにルンルンで彼女に会いに行ったら、目つきが悪いヤンキーの顔が出てくるのは寿命が縮むだろう。
「なんかピーチ姫とクッパみたいだな...」
「イヤッホゥ」
気の抜けた高い声と共に顔を上げた相棒の目には感情が灯ってなかった。