「どんなに離れていても」
午前9:00。マンション5010号室。
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
「何かあったらすぐに連絡してね」
「うん」
「月に1回は実家に帰ってきなさいね」
「うーん」
すでに5回目のやり取りだ。いや昨日の夜から数えたら10回目かもしれない。
毎度眉間にしわを寄せて心配そうにこちらを覗き込む母親は「聞いてるの?」と少し語気を強くした。
家族で囲む最後の朝食だからかいつもより豪華な食卓になっている。テーブルの中心にカーネーションが飾られ、フルーツがいつもより5品ほど多い。といっても普段の朝食が一般的な家庭からするとすでに豪華であることはつい最近知った。
幼い頃から特段不自由なく暮らしてきた。
海外を飛び回る父親と、甲斐甲斐しい母親。欲しいと言ったものはなんなく手に入る。
それが当たり前だと思っていたし、それでいて自分は一般的な家庭だと思っていた。
しかしそれが大間違いだということはつい最近、挫折を経験する中で思い知った。
初めての大学受験に失敗し、大焦りした母親が大手予備校に僕を入れた。私立の中高で友人も僕と同じようにブランド物のパーカーを着ているような連中ばかりだった場所からいつから着ているか分からないスウェットの奴らの中に放り込まれたのだ。
しかし彼らは門限もなければ、バイトもして経済的にも精神的にも自立していた。
僕にはそれが信じられなくて彼らが輝いて見えた。そして自分が恵まれていたことと異常なほど過保護な母親を持っていたことに気付いたのだ。
「もう出る時間だ」
僕は朝食もそこそこに席を立った。もう?という母親の声を背中に受けながら玄関を開けた。
清々しい風。僕はこれから自由になる。大学生になったら一人暮らしをしたいと言った時の母親は目玉が飛び出るほど驚き必死に反対したが、僕の決心は強かった。
予備校の奴らと同じように自立して生きていきたい。
「荷物は?」
「もう運んでもらってるよ」
「そう...」
母親は相変わらず心配そうな顔をやめない。
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「はいはい」
「何かあったらすぐに連絡してね」
「ママ」
僕は母親の言葉を遮り、くるりと背中を向けると正面の5011号室のドアを開けた。
「隣の部屋に引っ越すだけだから」
4/27/2025, 7:08:29 AM