「君と僕」
鴨居に吊りげられた2つの制服が春風を受けてゆらゆらと不安定に揺れた。
ボタンが全て無くなり裾や袖がほつれている制服とまるでアイロンをかけたばかりのようにシワ一つない制服。対照的な様相のくせに仲良くゆらゆらと揺れている。
縁側から春風が吹き込む和室は静かで心地よく読書にはピッタリだったが、青年は揺れている制服をちらりと見ると自部屋に引き篭もった。
恐らく母親が並べて干したのだろう。余計なお世話だ。俺がアイツのことどう思ってるか知ってるくせに。やっとアイツとの生活からおさらばできるのだ。なのにどうしてこんなにもイライラするのだろう。
乱暴に椅子を引くと本で溢れかえった机から卒業アルバムが落ちた。
高校はそこそこ楽しかった。友達は少なかったが趣味や目標を同じとする同士に出会えて切磋琢磨しながら健全な友人関係を築いた。
成績優秀者に選ばれて表彰もされた。
教師の期待が重く窮屈な思いをしたこともあったが、なんとか膝をつくことなく走ってこれた。
点数をつけるなら…90点といったところか?
満点に満たぬ理由のあとの10点は、認めたくないがアイツへの嫉妬だ。
青年は卒業アルバムを開いた。クラス写真のページには全く瓜二つの顔が並んでいる。切れ長のフレーム眼鏡をかけた真顔と金髪でやんちゃそうに笑っている顔。
全く同じ顔のくせしてまるで別人だ。
寄せ書きのページを開くとたった数個のメッセージと残り空白の2ページ。
青年はハア、とため息をついた。あいつのアルバムはきっと隙間がないほどのメッセージで埋められているんだろう。
優等生ではなかったものの学校中の人気者で、サッカーで全国大会に出場した双子の兄弟。
小さい頃は仲が良く、二人で一つを体現したような相棒で、全く正反対の性格ではあったがお互いの弱みを補い合い、互いの理解者だった。
しかし高校に入るといつのまにか疎遠になってしまい、なぜかアイツの友達の機嫌を損ねたことがきっかけで話すこともなくなってしまった。
正直、たくさんの人に囲まれて親や教師からの期待に束縛されずに自由に生きているアイツに憧れる気持ちはあった。また顔を突き合わせて笑い合いたいとも思っていた。
しかしもう、遅いのだ。
今さらアイツがこちらをどう思っているか分からないしそれを知ろうとするには時間が経ちすぎた。
考え込んでいると小腹が空いた。
冷蔵庫を物色しようとキッチンに行くと、ダイニングテーブルに卒業アルバムが置いてあった。アイツのだ。
今日もらったばかりなのにもうすでに背表紙の角が潰れている。
ふとどんなメッセージが寄せられているか気になりページをめくった。
予想通り色とりどりのペンでびっしりと書き込まれた3ページ。それだけに収まらず体育祭や文化祭などの写真が並んだところにまで書き込まれている。
どのメッセージもまた遊ぼう、忘れるなよ、といった言葉が並び持ち主がどれほど愛されていたかがすぐに分かる。なんだか悔しい。
『相棒』
黒のサインペン。小さな文字。ページの一番隅に書いたのにカラフルなページの中で一際浮いて見える。
あいつは細かい所までよく見ない性格だから気付かないかもしれないが、いつか昔のようにあいつと話をするきっかけになればいい。
そう思いながら青年はアルバムを閉じた。
「夢へ!」
小さい頃から漫画を描くのが好きだった。
最初の作品はとてもくだらないものだった。うんちマンというヒーローがうんちをして悪者を倒すという話。
そのくだらなさがなぜか面白いと、小学生の頃に一躍クラスの人気者になった。クラスメイトにすごい、天才だと言われるたびに鼻が高くなり、将来は漫画家になる!と卒業文集にも書いたものだった。
しかし漫画家の世界は天才しか生き残れない。ストーリー、画力、話の構成、常人の予想を裏切るようなアイデア。努力すれば必ず実る世界ではない。漫画を描けば描くほど自分の無能さを突きつけられ、いつしかペンをとることはなくなった。
やっぱり俺には無理なんだ。漫画を描く側には行けないのだ。
でも漫画に関わる仕事はしたい、そう思って今の出版社に入社したのだ。
「へえ〜。そういう流れだったんすねえ」
隣に座っている新入社員が全て分かりきったように、うんうんと頭をふる。
俺のジョッキはすでに空だったが、まったく気にしていないようだ。仕方なく、新入社員の前にあるタブレットに手を伸ばして生ビールを注文する。
「あ、俺レモンサワーでお願いします」
新入社員は距離を詰めてタブレットを覗き込んだ。俺はお前の父親じゃないんだけどな。
「課長はもう趣味でも漫画を描いてないんですか?」
正面に座っている中堅社員が肉をひっくり返しながら聞いた。
「もう学生以来描いてないよ。たまに息子にせがまれて絵を描くくらいかな」
そうなんですね、と中堅社員が残念そうな表情を見せてジョッキをあおった。
少しの沈黙が訪れて肉が焼ける音と周りの客の話し声が急にはっきりと聞こえ出した。
新入社員はもう興味が失せたように肉をほうばっている。「おれは世界的大ヒット漫画を生み出したくてこの会社に入ったんです!」と熱く語り上司の俺に「課長はなんでこの世界に入ったんですか?」と聞いてきたくせに。
出版社に入ると世界的大ヒット作を世に出すのもそれもまた努力ではなんともできない運だと思い知った。
どれだけ良い作品でもより多くの読者に届ける必要がある。しかしどれだけアニメ化しようが映画化しようが世界的人気にはならない。俺たちの力だけではどうしようもないのだ。
「全部思うようにいかないことばかりだよ」
ジョッキを傾けながら口の中でつぶやく。
ビールの苦味が口の中に広がる。若手の頃は苦手だったビールも思い通りにいかないことを流し込むうちに気にならなくなっていった。
「俺はどんな手を使ってでもやり遂げますよ。夢なので」
新入社員はレモンサワーを飲み干して言った。
「若いね〜」茶化すように中堅社員が笑う。俺もつられて笑ったが、新入社員の真面目な表情に胸が熱くなる。
若者よ、お前は夢を諦めないでくれ。いつかの俺の夢もその熱で昇華させてくれ。
「元気かな」
桜が散る季節になると毎年思い出す話がある。
中学2年の始業式の日。
せっかくの昼前下校なのだからとまっすぐ帰らずに、友達とうだうだとコンビニの前でたむろしていた。
その頃の俺は全てを見下して恐れ知らずだった。
真面目、努力というものが嫌いで、将来よりも今を大事にしたいという言葉を盾に、ルールや時間を全て無視していた。
家に帰って漫画や動画、アニメを見て時間を潰す。
むしろ将来の金のために今からあくせく勉強したり、丸坊主にしてまで部活を頑張っている奴らを見てそんなことして何になるとバカにしていた。いくら頑張ったって億万長者になれるのは一握りだし、甲子園に出たやつが全員プロ野球選手にはなれないんだから。
とにかく俺はしんどいことは嫌だし、みんながお行儀よく守っているルールも破りたい時に破れるのだ。
コンビニ前にあるスロープに座り込んでポテチの袋を開けた。
スーツの大人や背骨の曲がった老人がチラチラとこちらを見てくるが、その視線でさえ注目されていることを実感して気分が良かった。
そしてその視線の中にクラスメイトがいたのに気づいた。
制服の一番上のボタンを外し、姿勢を丸めて少しだらしない雰囲気でこちらを見ていた。
普段話すことはほとんどないが、時々話せば面白い奴だ。決してダサくはないしオタクでもない。俺らのグループに入れたいがなかなか深くまで仲良くなれない。ただ、ミステリアスな雰囲気をもつあいつに妙に魅かれていた。
声をかけるわけでもなく通り過ぎるわけでもなく、じっとこちらを見つめている。
「おい!帰るのか?こっち来いよ!」
視線に耐えきれず、声をかけた。密かに人気で面白いあいつを仲間に入れてもっと仲良くなりたいという気持ちもあった。
「自由だな」
クールで嘲笑を微妙に含んだその声は俺らを一瞬で黙らせるのには効果的だった。
ルールや時間に縛られない俺たちを羨んでいるような言い方だが、あの視線や声色はそうじゃない。
頭が一瞬混乱したところに追い討ちをかけるように彼はこう言った。
「自由なら責任を取らないといけない。お前らはすげえよ。おれはルールの下でぬくぬく暮らしてたい」
さすがに馬鹿にされてるのだと悟った。しかし彼の表現が普段俺が誇らしく思っていることに対しての自嘲と尊敬を含んでるものだから、どのくらいのテンションで怒ればいいのか分からなかった。
自由とは責任である。
大人になってからその意味をしっかりと理解した。
最強だった俺は社会に出たら最弱の存在だった。
自由に走ってきた責任を取らなければならなかったのだ。
俺が邪険にしていたルールは自分を守るための鎧だったし、時間は生きるための食糧だった。
あの時必死に部活や勉強していたやつは見事に一人残らず余裕のある生活をしていた。
クールなあいつは今何しているのだろう。元気にしているのだろうか。
今度会ったら不自由になった俺を腹の底から笑って欲しい。
「遠い約束」
何度目の春だろうか。
青空の下、ぼんやりと目を開けた。
どこかの甘い香りが鼻を湿らしてくしゃみが出た。
今年こそ主人が帰ってくる。
風雨にさらされボロボロになった体をわずかに震わせた。
彼が最後に主人の姿を見たのはとても蒸し暑い梅雨の日だった。
主人は決して裕福ではないものの縁側のある家に住んでおり、毎日そこでぼんやりと1日を過ごしていた。
たまに思い立ったように部屋の奥へ駆けて行き2、3日部屋から出てこない時もあった。
「なあポチ。今書いてる小説が売れたら桜を見に行こう」
縁側に寝そべっているとそうやって彼の頭を優しく撫でぼんやりと言うものだった。
「日本で一番桜が綺麗なところに行こう。東京の隅田川なんて美しいらしいぞ」
彼がこの家に引き取られてからずっと言い聞かされているが、東京にはいまだ行ったことがない。
しかしそうやって主人と一緒にぼんやり過ごすのが彼の幸せな日々だった。
しかしその日々はある訪問客が来てから急な終わりを迎えた。
くたびれた枯れ草色の服を着た男たちがやってきて、主人に赤い封筒を手渡し二言三言告げ、帰った。
それから1週間、主人は部屋に引き篭もってしまった。
そしてついに部屋から出てきたと思えば、彼の顔を掴んでこう言った。
「ポチ。来年の春には帰ってくるから、必ず桜を見に行こう」
主人の目が見たことないほどギラギラと輝いていたものだから、何度も顔を舐めたものだ。
そして主人は行ってしまった。
その後近所に住む娘が飯を持ってくるようになった。
「ポチや。主人に感謝するんだぞ。小説の売り上げを全部お前の餌代にしてくれたらしいからな」
なんのことかさっぱり分からなかったが、主人がくれる飯よりずっと豪華だった。
それからたくさんの時間が過ぎた。
大きな雷、燃える雨、大火事、地震。
必死に生き延びたが、家は崩れ、主人は帰ってこず、飯をくれる娘もいつのまにか来なくなった。
それでも主人と交わした約束のため家があった場所でで待ち続けた。
主人はぼんやりしているが、約束を忘れるような人ではない。
帰ってくると言ったのだから帰ってくる。
桜を見に行こうと言ったのだから桜を見なければならないのだ。
甘い香りが鼻をくすぐり続けている。
腹も減って、今や目もぼんやりとしか見えない。
しかしなんとなく彼にはそれが桜の香りだと分かった。
いつか主人が桃色の餅を幸せそうに食べていた記憶が蘇る。
風がサラリと吹いて彼の頭に花びらを乗せた。
しかしそれに彼が気づくことはなかった。
「フラワー」
予報は外れ、土砂降りの雨だった。
雷や強風はないものの、忌々しいほど分厚い雲が空を覆い、地面を叩きつけるような雨。対して彼女の心は天気に負けないほどの雷ゴロゴロの嵐模様だった。
「梅雨だからねえ。仕方ないねえ」
のんびりとした新郎がニコニコと前を向きながら言った。扉の向こうから荘厳なウエディングソングが聞こえてくる。
「そんな怖い顔しないで。新婦さん。せっかく綺麗なのに。今から入場するんだよ?」
調子よい言葉に雷はおさまったが雨は降り続く。
「だってせっかくの結婚式なのに。海外みたいなガーデンウェディングするのが夢だったのに」
しょんぼりとブーケを見つめる新婦。
薄暗い廊下でオレンジの花がやけに鮮やかに色彩を放っている。
顔を出すことができなかった太陽のようだ。
「仕方ないよ。ほら行くよ」
重そうな扉がゆっくりと開き、割れんばかりの拍手に迎えられた。
「この後の披露宴ですが、雨天のため、別会場をご用意いたしました。係の者がご案内いたしますのでしばしお待ちください」
式の喜ばしい興奮が冷めやらぬ客に式場スタッフが繰り返し案内している。
控室に戻った新婦は披露宴用のドレスに着替えていた。
彼女の誕生花を代表するような黄色いドレス。レースが何層にも重なっていて体を動かすたびにふわふわと揺れる。
空は晴れ間が出始めているがやはり小雨がしとしとと降り続けている。
彼女は小さくため息をついた。小さい頃に見た洋画でヒロインがフラワーシャワーで祝福されているシーンに強く憧れた。自分もいつか結婚式をするときは青空の下で…。
ま、仕方ないか。
友人も家族もすごく嬉しそうだったし十分良い式だっただろう。
「お、ご機嫌治ったかな?」
新郎が新婦の顔を見てのんびりと言った。
「うん。いつまでもぷりぷりしてられないでしょ」
さっきまでの雷模様が嘘だったかのようにさっぱりと晴れやかな顔をしている。
窓の外は今さら雨が止んでいる。
「良かった良かった」
新郎がにこやかに前を向く。
扉の向こうからは新郎新婦が出会ったきっかけのバンドの曲が流れている。
スタッフがアイコンタクトをして扉をゆっくり開けた。
すると、目に飛び込んできたのは吹雪のような花びら。
とんでもない量の花びらが舞って前が見えない。
「おめでとー!」
友人も家族もごちゃ混ぜで扉の両脇に列になって花びらを投げている。
新郎はちらりと隣を見やった。
そして満足そうに「やっぱり今日は雨だね」と呟いた。