「遠い約束」
何度目の春だろうか。
青空の下、ぼんやりと目を開けた。
どこかの甘い香りが鼻を湿らしてくしゃみが出た。
今年こそ主人が帰ってくる。
風雨にさらされボロボロになった体をわずかに震わせた。
彼が最後に主人の姿を見たのはとても蒸し暑い梅雨の日だった。
主人は決して裕福ではないものの縁側のある家に住んでおり、毎日そこでぼんやりと1日を過ごしていた。
たまに思い立ったように部屋の奥へ駆けて行き2、3日部屋から出てこない時もあった。
「なあポチ。今書いてる小説が売れたら桜を見に行こう」
縁側に寝そべっているとそうやって彼の頭を優しく撫でぼんやりと言うものだった。
「日本で一番桜が綺麗なところに行こう。東京の隅田川なんて美しいらしいぞ」
彼がこの家に引き取られてからずっと言い聞かされているが、東京にはいまだ行ったことがない。
しかしそうやって主人と一緒にぼんやり過ごすのが彼の幸せな日々だった。
しかしその日々はある訪問客が来てから急な終わりを迎えた。
くたびれた枯れ草色の服を着た男たちがやってきて、主人に赤い封筒を手渡し二言三言告げ、帰った。
それから1週間、主人は部屋に引き篭もってしまった。
そしてついに部屋から出てきたと思えば、彼の顔を掴んでこう言った。
「ポチ。来年の春には帰ってくるから、必ず桜を見に行こう」
主人の目が見たことないほどギラギラと輝いていたものだから、何度も顔を舐めたものだ。
そして主人は行ってしまった。
その後近所に住む娘が飯を持ってくるようになった。
「ポチや。主人に感謝するんだぞ。小説の売り上げを全部お前の餌代にしてくれたらしいからな」
なんのことかさっぱり分からなかったが、主人がくれる飯よりずっと豪華だった。
それからたくさんの時間が過ぎた。
大きな雷、燃える雨、大火事、地震。
必死に生き延びたが、家は崩れ、主人は帰ってこず、飯をくれる娘もいつのまにか来なくなった。
それでも主人と交わした約束のため家があった場所でで待ち続けた。
主人はぼんやりしているが、約束を忘れるような人ではない。
帰ってくると言ったのだから帰ってくる。
桜を見に行こうと言ったのだから桜を見なければならないのだ。
甘い香りが鼻をくすぐり続けている。
腹も減って、今や目もぼんやりとしか見えない。
しかしなんとなく彼にはそれが桜の香りだと分かった。
いつか主人が桃色の餅を幸せそうに食べていた記憶が蘇る。
風がサラリと吹いて彼の頭に花びらを乗せた。
しかしそれに彼が気づくことはなかった。
4/8/2025, 1:35:30 PM