「桜」
その日はいつもより太陽が早く昇った。
遠くの山から甘い香りの風が吹いてきて頬をくすぐり、彼女は目を覚ました。
そろそろ起きなければ。今年もよく寝たなあ。
ぼんやりした頭を持ち上げて深呼吸をすると、朝の冷たい空気とともに鳥が肩に止まった。
雪のように真っ白な肌。甘い風にたゆたう白く美しい髪。日の出を写しとったかのような赤い帯。朝露か雪か煌めきを散りばめた着物。十代終わりかけの少女と淑女の両方の色香を持つ彼女は、ふわりとつま先を浮かせ、山全体を見回した。
薄着の彼女には山の空の空気は刺すように冷たかった。山頂付近にはうっすらと雪が残っている。未だ春はずっと遠く海の向こうにいるようだった。
しかし彼女は春風が来る前に大仕事を終わらせなければならない。
毎朝、桃色の粉を山全体に振りかけるのだ。
彼女はうっとりと粉を吸い込むと、粉を一掴みし、勢いよく撒いた。
朝日に照らされながら風に乗り、粉はキラキラと輝きながら飛んでいく。
春の陽気を固めたような粉は木に、草に、動物に村に降りかかる。
しかしそれらは何かが降ってきたことにも気付かず、何の変化も起こらない。
しかしこれを毎日、春風が到着するまでの間、欠かさず行うこと。
それが桜の精である彼女の宿命だった。
生きているものは気付かない。ただ春への高揚感が日に日に蓄積するのを感じる。
それが彼女の仕事だった。
「今年も来たよ。1年ぶりだね」
春風が彼女の隣に座る。
眠りかけていた彼女は、久しぶりに聞いた恋人の声に少し驚いた。
「今年は来るの遅かったんじゃない?」
少し不貞腐れたように口を尖らす。まるで年端もいかない少女のような仕草に、春風は微笑んだ。
「すまないね。だけど必ず来るって分かってただろ」
愛おしさを含んだ甘い声に彼女はふわりと笑った。
「今年も見事に咲いたね」
「ああ、今年も美しいね」
「春がきたね」
「君と」
先ほどまで棚一面を占領していた本の最後の一冊を段ボールに押し込み、ガムテープで蓋を閉めた。
持ち上げようとすると思ってもみなかった重量で肩が外れそうになったが、正面を見ると、彼の感情の失った顔と目が合ってしまったので、なんともない風を装って踏ん張って持ち上げた。
普段使わない上腕二頭筋が震えて耐えているのを感じながら狭い廊下を通り抜けようとしたが、彼が無言で段ボールを奪い、外に運んでしまった。
持って行けたし…、と手を貸されたことと少しでも借りを作ってしまった自分に悔しさを感じつつ、無言で次の荷物をつくる。
玄関の開けっぱなしになっている扉からは春の陽気が見えている。
しかしその日差しも雑然とした埃っぽい室内までには届かない。
扉一枚でまるで全く違う世界のようだ。
2年前あの扉を期待と新鮮さで開けた頃が懐かしい。
あの頃は彼が私の全てだった。
大学卒業とともに彼と一緒に暮らすべく、就職をせず地元を離れ彼のいるこの土地にやってきた。
最初は自然豊かで、都会とはなんとなく違う温かな空気感を楽しんでいたが、段々と娯楽の少なさと不便さ、田舎者たちの愚鈍さに辟易していった。
最初はそんなこと感じるのは気のせいだ、性格が歪んでいるのだと自身を改めようと心掛けたが、一度感じた違和感はとめどなく溢れ出すばかりだった。
その鬱憤を晴らせる友人も知り合いもいないので、彼にそれとなく話してみるのだが、彼はうんざりした様子で「だから何?俺にはどうすることもできないでしょ」と話を切り上げられてしまう。
心を張り詰めて8時間の労働をこなし、心身ともに疲れ果てた末に聞かされる恋人のどうしようもない愚痴なんて、確かに気が滅入る。
それは分かっている。私は分かっているのに…
地元に帰るたびにキラキラと働いている友人を見て、少なからず目を逸らし、曇りと雪の多い家に帰るのは私自身の自尊心も多少なりとも傷ついていた。
そしてその選択をしたのも自分自身と言う、いわば自業自得のような意識も自分の闇を押し広げていた。
きっかけはSNSに投稿したことだった。
少しの捌け口のつもりだった。
しかしあっという間に拡散され火がついた。
自身への不信感だけでなく、顔知らぬ赤の他人からの文字という感情曖昧な伝達による攻撃。
いつのまにか思考することを辞め、天井の模様を見続けた。
抜け殻になった私を助けてくれたのは彼だった。
地元に戻ったら?と心配そうに手を包み、撫でてくれた。
彼からの愛を再確認し、再び満たされるほど私の心は浅くはなかった。私が助けて欲しいとき助けてくれなかったじゃない、と心の中でつぶやいた。
そしてどこまでも利己的な自分にほとほと嫌気がさした。
「もう準備できた?」
扉から母親がひょっこり顔を出した。
彼は私のいないところで私の家族と連絡をとり、今回の引越しにこぎつけたのだ。
彼は全ての荷物を運び終わったようで、疲れた様子で壁にもたれている。
私は彼を愛している。今でも私の全ては彼だけだ。
ただ、彼を愛すべきは私ではない。
私は彼に一瞥もせずに扉を閉めた。
春の日差しがまぶしく、私を焼いていくようだ。
そのまま消し炭にしてよ。
こんな自分大嫌い。
「空に向かって」
ピピピッ、とアラームが鳴った。
手探りで止めて布団の奥底に潜り込む。足がベッドからはみ出てヒヤリとした空気に触れた。慌てて足を引っ込める。
急激に冷えた足を温めながら寝やすい姿勢を探ったが、息苦しくなってとうとう布団から這い出た。
カーテンからは色のない光が漏れていて今日の天気が曇りか晴れか分からない。
僕はコーヒーメーカーのスイッチを押した。
無音の部屋に無機質な音が流れて、ようやく部屋全体が眠りから覚めたようだ。
今日はゴミ出しの日だ。
コーヒーが出来上がるまでのこの時間に出してしまおう。朝からゴミ袋を触るのは朝の清らかにスタートしている自分の身が汚れそうで若干憂鬱だが。
少し重い気分でつっかけを履いてドアを開けた。
強い光がまだ半分寝ている目を攻撃した。
今日は晴れだったか。
空は春の霞がかかっているようで、天高い真っ青ではないが、雲ひとつない。
ゴミ袋を片手に空を見上げた。
つい昨日始まった新生活と相まって気持ち清かにエネルギーがみなぎってくる。
よし!頑張るぞ!
空に向かって気合いを入れて、ゴミ袋を揺らしながら歩き出した。
「春爛漫」
スーツケースが未練がましく僕の手を後ろに引く。
戻りたいのはお前だけじゃねえよ、と半ば腹を立てながら引きずる。
地下鉄は多くの人で溢れていた。そうではないかもしれないが、なんとなく彼らが着ているスーツや制服が真新しく見える。
着古したパーカーにジーンズという装いの自分はなんだか浮いているような気がした。
地下鉄特有のカビくさい匂いが余計に腹をムカムカさせる。
乗り換えアプリを開いて目的地まで経路を確認する。
慣れない路線と駅。
昨日の夜から100回以上は確認しているかもしれない。
周りを行き交う人がアンドロイドのように思える。
孤独と緊張感で落ち着かない。
スマホとスーツケースの持ち手を握りしめた。
電車は人が多く、大きなスーツケースは余計に浮いた。どこも痛くないはずなのに肌がチリチリする。
負けじとイヤホンとスマホに集中して他人をシャットアウトした。
「卒業ソング」「桜ソング」...
くだらない。
新生活だ、新しい出発だの、春になったら誰もが爽やかな清々しい気持ちになると決めつけやがって。感傷に浸りたくなくていつものプレイリストを開く。
改札を出て不動産屋からもらった住所を地図アプリに入力する。
徒歩10分。
相変わらずスーツケースは駄々を捏ねたが、舗装された道路で幾分か覚悟を決めたらしい。
閑静な住宅街だ。
駅前には大きなショッピングビルではなく、小さなカフェとコンビニ、本屋。
地元よりもずっと暮らしやすそうだ。
な?悪くないだろ?新天地も。ここでどんな生活がまっているかワクワクするじゃないか。
スーツケースは少しスピードが乗ったようだ。
下り坂を下り切ると目の前が急にひらけた。
と同時に鮮やかな色の花、青空、甘い大風を全身で受け止めた。
桜の大群が花びらが散るのも厭わず、歓迎するように枝を揺らし、
肌を優しく撫でるように温かく爽やかな風が僕をくるりと囲む。
思わず足を止めてしまった。
大きな公園のようだ。風に乗って子供たちのキラキラしたはしゃぎ声が聞こえてくる。
まるで春の幸せを味わい尽くすべく、満面の笑顔を空に向ける花々。
その艶やかさは目の前の暗いモヤを一瞬のうちに取り払ってしまった。
僕は右耳のイヤホン外して、桜のプレイリストを再生した。
スーツケースは上下に跳ねながら後ろをついてきた。
「七色」
彼女は嬉しそうに言った。
「新しい靴を買ったの。春になったからね。ちょっとヒールもあっていい音するのよ」
固い金属の音がリズミカルに鳴る。
「いいね。よく似合ってる。」
僕は彼女に微笑んだ。
春の大学の中庭はワイワイと賑やかで、お弁当の冷えたおかずの匂いが漂ってくる。
新入生が気合を入れて弁当を作り、登校しているのだろう。
春しか感じられない緊張感と期待感が肌を震わす。
「今日はサークル来るの?」
彼女が聞いた。その声色はそっけなく、心配と期待が感じられた。
「うーん、どうしようかな。」
「最近は新歓もあって新入生がいっぱい入ったのよ。」
彼女は変わらずそっけない調子だったが、ずっとこちらの返答に集中していた。
「まあ顔出すだけなら。」
彼女の押し寄せる期待を裏切れず、そう答えた。
「よし!じゃあ先輩達に言っておくね。」
彼女のヒールがリズミカルに鳴った。
僕は白杖を手に取り、立ち上がった。
彼女が慣れた様子で腕を組む。
「ここ、最近工事したから段差ないからね。」
白杖で地面が繋がっていることを確認する。
「オッケー。ありがとう。」
よく聞かれるのが、
「目が見えないってどういう感じ?」
誰だって想像するだろう。僕の「見えている」風景を。
ただ僕もなんと言えばいいのかわからない。
あえて答えるとするなら、光がない。
ついでに人生にも。
想像力の無い連中の格好の的としてあらゆる矢を受け止めなければならない。
「光がないってどういうこと?真っ暗ってこと?」
「色とか分からんの?」
「まじかー!りんごが赤っていうのは知ってる?」
「虹って知ってる?」
「光ってね、無色なんですよ。」
サークルの飲み会で無粋で不躾な質問をされている真横で大きな声が聞こえた。
どうやら真横に座っている女の子が先輩と話し込んでいるらしい。
「私たちが見てる色なんて電磁波の濃淡でしかないですよ。虹が七色っていうのはただの決めつけです。
まあ光がなかったら色もないですけど、だとしたら真っ暗闇でも虹がそこになかったことにはならないですよね!」
声の方向的に僕たちに言っているわけではなさそうだったが、無礼な奴らはすっかり黙り込んだ。
それから彼女はいつからか僕のそばをうろちょろとするようになった。
まるで自分も用があるから存在してるだけであなたのことなんて道路脇の店くらいにしか気にしてないですよ、というような口ぶりで話しかけてくる。
そのわざとらしさは相変わらずで、何度も助けられてきた。
僕の人生は光こそないが、彼女のおかげで少しだけ色づいたのかもしれない。