香草

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「君と」

先ほどまで棚一面を占領していた本の最後の一冊を段ボールに押し込み、ガムテープで蓋を閉めた。
持ち上げようとすると思ってもみなかった重量で肩が外れそうになったが、正面を見ると、彼の感情の失った顔と目が合ってしまったので、なんともない風を装って踏ん張って持ち上げた。

普段使わない上腕二頭筋が震えて耐えているのを感じながら狭い廊下を通り抜けようとしたが、彼が無言で段ボールを奪い、外に運んでしまった。

持って行けたし…、と手を貸されたことと少しでも借りを作ってしまった自分に悔しさを感じつつ、無言で次の荷物をつくる。

玄関の開けっぱなしになっている扉からは春の陽気が見えている。
しかしその日差しも雑然とした埃っぽい室内までには届かない。
扉一枚でまるで全く違う世界のようだ。
2年前あの扉を期待と新鮮さで開けた頃が懐かしい。
あの頃は彼が私の全てだった。

大学卒業とともに彼と一緒に暮らすべく、就職をせず地元を離れ彼のいるこの土地にやってきた。
最初は自然豊かで、都会とはなんとなく違う温かな空気感を楽しんでいたが、段々と娯楽の少なさと不便さ、田舎者たちの愚鈍さに辟易していった。
最初はそんなこと感じるのは気のせいだ、性格が歪んでいるのだと自身を改めようと心掛けたが、一度感じた違和感はとめどなく溢れ出すばかりだった。

その鬱憤を晴らせる友人も知り合いもいないので、彼にそれとなく話してみるのだが、彼はうんざりした様子で「だから何?俺にはどうすることもできないでしょ」と話を切り上げられてしまう。
心を張り詰めて8時間の労働をこなし、心身ともに疲れ果てた末に聞かされる恋人のどうしようもない愚痴なんて、確かに気が滅入る。
それは分かっている。私は分かっているのに…

地元に帰るたびにキラキラと働いている友人を見て、少なからず目を逸らし、曇りと雪の多い家に帰るのは私自身の自尊心も多少なりとも傷ついていた。
そしてその選択をしたのも自分自身と言う、いわば自業自得のような意識も自分の闇を押し広げていた。

きっかけはSNSに投稿したことだった。
少しの捌け口のつもりだった。
しかしあっという間に拡散され火がついた。
自身への不信感だけでなく、顔知らぬ赤の他人からの文字という感情曖昧な伝達による攻撃。
いつのまにか思考することを辞め、天井の模様を見続けた。

抜け殻になった私を助けてくれたのは彼だった。
地元に戻ったら?と心配そうに手を包み、撫でてくれた。
彼からの愛を再確認し、再び満たされるほど私の心は浅くはなかった。私が助けて欲しいとき助けてくれなかったじゃない、と心の中でつぶやいた。
そしてどこまでも利己的な自分にほとほと嫌気がさした。

「もう準備できた?」
扉から母親がひょっこり顔を出した。
彼は私のいないところで私の家族と連絡をとり、今回の引越しにこぎつけたのだ。
彼は全ての荷物を運び終わったようで、疲れた様子で壁にもたれている。
私は彼を愛している。今でも私の全ては彼だけだ。
ただ、彼を愛すべきは私ではない。

私は彼に一瞥もせずに扉を閉めた。
春の日差しがまぶしく、私を焼いていくようだ。
そのまま消し炭にしてよ。
こんな自分大嫌い。

4/3/2025, 5:00:51 PM