香草

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12/3/2024, 12:46:25 PM

人魚の夢は黒く青い。
ぷくぷくと泡を吐き出しながら寝息を立てる。
光が水底でゆらゆらと舞う。
いつか見かけた目に刺さるような色の小さい葉。
あの日は海底の洞窟まで光が強く届き、
黒と青しか存在しなかった世界が見たことない色で輝いた。そのとき頭上でゆらめく葉に気付いたのだ。
地上はこんなに美しい色で溢れているのかしら。
持ち帰ったひとひらは暗い水底だと色褪せて見えた。
人魚は強い光に憧れた。眠りから覚め瞼を上げる。
暗い暗い水底で弱々しくゆれる光ではなく、水面に上がったときに感じた肌を刺すような痛い光。
ひれを小刻みに震わせると水面に向かった。
水と空気の境界を突き破る。空気がずっしりとのしかかり、冬の白みがかった光が人魚をつつむ。
遠い景色の向こうに影が見える。
きっとあそこに行ったら私の見たい世界があるのだろう。
でも泳いで行く勇気がなく、光と闇の境界でぷかりぷかりと浮かぶばかり。

12/2/2024, 11:09:03 AM

今日は全国的に晴れるでしょう。
テレビの明るい声を聞きながら窓の外に目をやる。
俺の地域は日本じゃないのか、厚い雲が空を覆っている。
「雨が降りそうだな。傘を持って行った方が良さそうだ。」
台所から聞こえてくる食器の音に独り言っぽく言ってみた。
もちろん返事が返ってくるわけがない。どうせ独り言のつもりだったので問題ない、と言い聞かせる。
結婚して27年。結婚生活は上手くいっている方だと思っていた。2人の子供を育てあげ、定年まであと少し。なにも変わらない穏やかな生活を過ごすのみだと思っていた。
いつからか妻の様子が変わった。ずっと不機嫌で何を言っても返事がない。まるで俺が見えないかのように振る舞う。どうせ更年期とかだろう、ホルモン的なことだろうと思って放っておいたが口をきかなくなってもうすぐ1年になる。27年も連れ添ったはずなのに何を考えているのか全く分からなくなった。
なんとなく押し寄せる不安があるが、妻のことで心が掻き乱されるのも正直煩わしい。モヤモヤを振り切るかのように傘をブンブン振って歩く。
目の前で茶色い髪の毛が揺れる。
お、あれは最近入社した社員だ。20代だと言っていたが愛嬌があって上層部に気に入られていた。
「おはよう。」
肩を叩くと少し驚いた様子で振り返る。
「課長。おはようございます。」
晴れやかな笑顔を見せてくれる。
「雨が降ったら服が濡れて気持ち悪いね。」
若い女性との会話なんて久しぶりすぎて何を話せばいいか分からない。少し困った様子で
「そうですねえ。でも今日は晴れるらしいので、大丈夫ですよ。」
彼女の耳が少し赤くなる。何を考えているのか分かりやすい。
隣にいても全く何を考えているか分からない妻とは違う。きっと彼女とはもともと心の距離が近いのだ。
「何か会社で困ったことはないか?何かあれば相談に乗るよ。今度飯でもどうだ?」

11/30/2024, 11:40:17 AM

妹の顔が歪む。口を大きく開けてツンザクような泣き声をあげる。
「いいじゃん!ちょっとくらい!なんでお姉ちゃんばっかり…」
丸い頬に涙が伝う。制服の袖で拭う。
なんでお前が泣くんだよ。
「どうしたの!」
すぐに母親が部屋に入ってくる。
妹によく似たくるくるの髪を振り乱しながら。
私をちらりと見てからすぐに妹に駆け寄る。
「中学生にもなって泣かないの。何があったの?」
小さい子をあやすように背中をさすりながら優しく声をかける。妹は勢いを増してしゃくりあげながら泣き出す。
「お姉ちゃんのワンピースを借りようと思っただけなの。明日の修学旅行の出し物で衣装として使いたくて。でも全然貸してくれないの。洋服いっぱい持ってるくせに。」
母親は少し気まずそうにこちらを見る。
「ねえ、少しくらい貸してあげることはできないかな?この子もちゃんとも物を大切にするタイプだから。気持ちは分かるけど、やっぱり家族仲良くするためにはそういうことも必要だと思うの…」
何を言ってんだこいつらは。
そもそも私のワンピースじゃない。
「私のママのワンピースだから。」
10年前亡くなったママが私に遺した唯一のもの。
衣装?ふざけんな。家族仲良く?私の家族はママだけだ。
妹の顔が凍りつく。母親は何も聞こえなかったかのように目を逸らし、小さく「行くわよ。」と呟いて妹を連れて部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、目の前がぼやける。

11/30/2024, 3:58:59 AM

空が白んで風が冷たい。
体温が奪われていくような感覚でとうとう本格的な冬が来たのだと知る。
顎が震えてガチガチと小さく音が出る。
「大丈夫か?」
わざとらしく君が顔を覗き込む。
「大丈夫」
ぶっきらぼうに答えた。目は合わせない。
「食堂行くか?マジで急に寒くなったよな。」
大学の食堂もどこも人でいっぱいだろう。できるだけ人がいないとこに行きたかった。
「大丈夫」
ビル風が私たちの間を通り抜けていく。
木に絡まったイルミネーションが目の端で煌めく。
「…なあ、どうしたんだ?急に話がしたいって言ってきたのはそっちだろ。」
沈黙に耐え切れず彼が痺れを切らした。
頭に血が上る。風が頑張って冷まそうとしてくる。
「この前の週末何してたの?」
「何って、地元の友達が来るから家で飲んでたよ。だから会えないって言ったよな。」
スマホの写真を見せる。
画面の中でサークルの後輩と彼が顔を寄せ合っている。
後輩がわざわざ誤送信してきた写真だ。
「なんで、」
言い訳の言葉が出ない彼に血が引いていく。顔に当たる風の冷たさを感じなくなった。
「別れよう。」
それだけ言うと私はマフラーに顔を埋めた。

11/28/2024, 4:06:13 PM

拍手が鳴り止み静寂が訪れる。
指の重さをできる限り0にして鍵盤に触れる。
重い空気が腕にまとわりついて筋肉が震えそうだ。
深呼吸をして身体中の神経を指に集中させる。その瞬間、思い切り力を込めた。
ピアノが悲鳴を上げる。
動き出した指はもう止まらない。
この数分のために何ヶ月も練習してきた。
毎日毎日何時間も同じ曲を弾いて自分のミスに向き合ってきた。間違えた、もっと優しく、もっと力をこめて、もっと流れるように、もっとアクセントを…
楽譜を破り捨てようかと本気で思ったこともあった。
ピアノをぶっ壊してやろうとハンマーを手に取ったこともあった。そんな心の底に隠れていた自分の加害性にショックを受けて自己嫌悪に陥り一晩中泣いた。
でも一粒の理性と彼女への憧れを捨て切れなかった。
指は躾けられたサーカスの動物のように鍵盤の上を踊る。最後の20小節にさしかかる。
このコンクールが終わったら俺には何が残るんだろう。ふと、頭に浮かんだ。
次の目標?またあの辛い日々を過ごすのか。自分のドス黒い感情を見つめてわざわざ絶望に浸らないといけないのか。
いっそ辞めてしまおうか?第二の人生を歩むのも悪くはない。でも俺には何もない。ピアノ以外に何もできない。結局俺は彼女に生かされているのだ。
彼女は美しい歌を歌う。全ての演奏者を自分に集中させて何も考えないようにさせる。それでいて一筋縄でいかず、いつも不満気に俺を責める。
なあ、まだ終わらないでくれ。何ヶ月もお前を満足させるために頑張ってきたんだ。
最後の音を鳴らす。彼女はニヤリと笑って俺の指と別れを告げた。

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