「ぅえっ!?テントウムシ!?」
俺がダイニングテーブルでまったりコーヒーを飲んでいると、隣の和室でお昼寝をしていたはずの姉の小さな叫びが聞こえてきた。俺は一旦マグカップを机において、和室の襖を開けた。
「どした?」
「テントウムシ!テントウムシいんの!」
姉は中途半端に身を起こして、何かを必死に指差している。
窓から差した日でできた日溜まりの中心に、小さな点が見える。
俺は一応抜き足差し足で近づいてみた。しゃがんでよく見てみると、確かにそれは赤い地に黒い斑点のある羽の、テントウムシだった。
「どこから来たんだろね」
俺が素朴な疑問を口にすると、姉は肩をすくめて、
「わからん。でも、目覚めた人間の顔の真ん前にいるのはやめてほしかった……」
とこぼした。なるほど、目覚めたら眼前にテントウムシがいたのでは、叫び声も上げたくなるか。
「姉ちゃん、虫苦手だっけ?捕まえて逃してやればいいじゃん」
「昔は平気だったけど、大人になってダメになったんだよ〜〜〜。ユキくん、どうにかして〜〜〜」
姉は中途半端な体勢のまま、俺の足に縋り付いてきた。その場を動くのすら怖いらしい。
俺は和室の中を見回した。昼寝のために脇に追いやられたであろう机の上、ティッシュペーパーの箱があった。俺は姉の手から離れて、ティッシュペーパーを1枚取りに行った。そして、テントウムシに近づいて、先ほどからちょこちょこと動き回っていたテントウムシの進む方向に、ティッシュを差し出してみる。うまく乗ってくれるか、固唾をのんで見守っていると、テントウムシは思惑通り、ティッシュの上に乗ってくれた。テントウムシがティッシュの中ほどまで進んだところで、ティッシュをそっと持ち上げた。
そのまま、すぐそこの窓まで運んでいく。テントウムシが落ちたり飛んでいったりしないように祈りながら、慎重にそっとそーっと運んでいった。
俺の行動を先読みしていたらしい姉が、変な体勢からいつの間にか起き上がって、窓を開けようとスタンバっている。
ちょうどいい位置まで来たとき、俺は姉に目で合図した。姉は、窓を少し開けた。俺は、素早くティッシュを持った手を外に突き出し、ティッシュの裏からテントウムシをデコピンした。テントウムシはびっくりしたように飛び立って、近くの草の方へと飛んでいった。
俺は腕を部屋の中に戻し、姉は窓を再度閉めた。
「さんきゅ、よくやった、弟よ」
そう言いながら姉が手のひらをこちらに向けて腕を掲げた。俺はその手のひらに自分の手のひらを合わせて、パンッと音を立てて、ハイタッチした。
「どういたしまして」
たったこれだけのことなのに、ひと任務やりきったような、妙な達成感があった。
私の父は、研究者だ。医学の分野を研究しているらしいんだけど、詳しくは知らない。最近は何やら長く続けてきた研究が佳境に入ったとかで、職場の研究所にずっと行っていて、たまに家に帰ってきたと思ったら、すぐに自分の書斎にこもる生活をしている。文字通り寝る間を惜しんで働いているみたいで、娘としては体調を崩さないか心配なのだけど、父は気にせず楽しげに働いている。絶対身体がつらいだろうに、楽しそうに精力的に働く姿は純粋にすごいと思う。
一度、父に、今している研究について訊いてみたことがある。「そんなに頑張ってやるようなものなのか」と。そうしたら、父は言った。「この研究がうまく行けば、世界が変わるんだ。今よりも多くの人が苦しまずに済むようにできるんだ。そう考えたら、頑張れちゃうんだよ」と。そう言った父の目は、少年のようにキラキラしていて、未来の姿が見えているような目だった。きっと、父には、研究の先の誰もまだ見ぬ景色が見えているんだと思った。
父を見ていたら、私も、その景色が見たくなった。
だから、精いっぱいの思いを込めて「頑張ってね」って私は伝えた。私には、父の研究を手伝うことはできない。だから、こうして声をかけることくらいしかできない。この声が少しでも父の力になっていたらいいなと思った。
父は「もちろんだ!」って力強く頷いて、また仕事へ戻っていった。その背中に、早く父の見ている景色が現実のものになりますように、と強く祈った。
子どもの頃、つらいとき、必ず見る夢があった。夢の中には優しい王さまがいて、ぬいぐるみの仲間たちと、ふわふわの優しいパステルな世界で、一緒におしゃべりをしたり、あまいお菓子を作ったり、お城の中を探検したりして過ごした。
僕は繰り返し何度もその夢を見た。夢の世界は続いていて、夢の中の王さまも仲間たちも、前に会ったときのことを覚えていた。
つらい現実も、夢の中で彼らと過ごせば忘れられた。僕はいつしか、つらいときは眠って夢の世界に逃げるようになった。あの頃、眠りは僕の救いだった。
大人になって、あの夢は見なくなった。それでもあの夢の世界は、あの頃僕を生かしてくれたものなのには変わりないし、今でも僕の一部として生きていると思う。
だから、僕は今、絵本を描いている。あの夢のつづきを紡いで、この世に産み出している。あの頃の僕のようなつらい現実を生きる誰かに、優しい夢を届けたくて。
「パパ!!!おかえりー!!!!」
大きな声で言いながら、膝の辺りにぎゅっと抱きついてくる愛娘。
仕事で疲れて、寒い夜の中を歩いて帰宅した俺に、娘の体温がじんわり沁みる。
「おかえりなさい、あなた」
キッチンから顔だけ出して、妻も声をかけてくれる。辺りには、シチューの美味しそうな匂いがしている。
「ただいま」
娘を抱き上げながら、玄関を上がる。
娘は俺の手を触って、
「パパ、おててつめたいね。マナがあっためてあげる!」
と言って、俺の手を小さな手で一生懸命に擦ってくれた。
「ふふ、あたたかいね。ありがとう」
廊下を歩きながら、俺は笑って娘のほっぺにキスをした。娘は嬉しそうに笑った。
ああ、あたたかいな、幸せだな、と俺は思った。
人生の選択っていうのは、目の前にある無数にある扉から1つを選び取って開けていくことだと、僕は思う。扉の先に進んだら、後戻りはできず、他の扉の先にある風景を知ることはできない。
「いやー、やっぱりあの監督の映画は面白いねー!」
楽しげに君が笑う。僕も同意して、同じように笑う。
幼馴染の君と2人で映画を観て、お茶をしながらこうして感想を言い合うのは何度目のことだろう。もう数えることができないほど重ねてきた。それが、いつからか、僕にとって特別なものになっていた。気づいたら、君が好きだったから。
君は、この時間をどう思っているのだろうか。他の友達と過ごすのと変わらない?それとも、何か特別なものを感じてくれてる?
知るのが怖くて、この関係をずっと変えられずにいる。このままでも充分とも思うけれど、本当は変えたい。君の友達じゃなくて、恋人になりたい。
僕の目の前にはずっと、かたく閉ざされた扉がある。本当は鍵を持っているのに、開けずにいる扉。
君に僕の想いを告げれば、扉は開いて、今とは違う景色が広がっているはずだ。でも、その景色が今より良いものかわからないから、僕はずっと尻込みしてきた。
「あのさ、」
帰り道、2人の間に流れる心地良い沈黙を破って、僕は口を開いた。今こそ、君に告げるんだ。そう決意して。
これから告げる言葉は、きっと未来への鍵。その未来が僕の望んだものでありますようにと、僕は強く願った。