「パパ!!!おかえりー!!!!」
大きな声で言いながら、膝の辺りにぎゅっと抱きついてくる愛娘。
仕事で疲れて、寒い夜の中を歩いて帰宅した俺に、娘の体温がじんわり沁みる。
「おかえりなさい、あなた」
キッチンから顔だけ出して、妻も声をかけてくれる。辺りには、シチューの美味しそうな匂いがしている。
「ただいま」
娘を抱き上げながら、玄関を上がる。
娘は俺の手を触って、
「パパ、おててつめたいね。マナがあっためてあげる!」
と言って、俺の手を小さな手で一生懸命に擦ってくれた。
「ふふ、あたたかいね。ありがとう」
廊下を歩きながら、俺は笑って娘のほっぺにキスをした。娘は嬉しそうに笑った。
ああ、あたたかいな、幸せだな、と俺は思った。
人生の選択っていうのは、目の前にある無数にある扉から1つを選び取って開けていくことだと、僕は思う。扉の先に進んだら、後戻りはできず、他の扉の先にある風景を知ることはできない。
「いやー、やっぱりあの監督の映画は面白いねー!」
楽しげに君が笑う。僕も同意して、同じように笑う。
幼馴染の君と2人で映画を観て、お茶をしながらこうして感想を言い合うのは何度目のことだろう。もう数えることができないほど重ねてきた。それが、いつからか、僕にとって特別なものになっていた。気づいたら、君が好きだったから。
君は、この時間をどう思っているのだろうか。他の友達と過ごすのと変わらない?それとも、何か特別なものを感じてくれてる?
知るのが怖くて、この関係をずっと変えられずにいる。このままでも充分とも思うけれど、本当は変えたい。君の友達じゃなくて、恋人になりたい。
僕の目の前にはずっと、かたく閉ざされた扉がある。本当は鍵を持っているのに、開けずにいる扉。
君に僕の想いを告げれば、扉は開いて、今とは違う景色が広がっているはずだ。でも、その景色が今より良いものかわからないから、僕はずっと尻込みしてきた。
「あのさ、」
帰り道、2人の間に流れる心地良い沈黙を破って、僕は口を開いた。今こそ、君に告げるんだ。そう決意して。
これから告げる言葉は、きっと未来への鍵。その未来が僕の望んだものでありますようにと、僕は強く願った。
君は星だ
君の歌声は力強くて優しい
暗い夜空の中でキラキラと瞬く光だ
苦しい時に僕に戦う力をくれる
君の歌声を聴けば僕の胸にも光が灯る
それは君がくれた星のかけら
僕はその光を胸に今日も生きている
きのう、山登りに行っていたパパから、ベルのかたちのストラップをおみやげにもらった。ゆらすと、リィィンリィィンと大きな音がなる。パパは『くまよけのすず』って言ってた。くまさんはこわがりだから、この音がなっていると、よってこないらしい。わたしが、「かわいいくまさんなら、よってきてもいいのにな」って言ったら、パパは「本物のくまさんは強くて怖い生き物だから、出遭わない方がいいんだぞ」って言ってた。つよいのにこわがりだなんて、ふしぎだなって、わたしは思った。つよくなれば、こわいものなんてなくなるんじゃないのかなあ?
わたしが首をひねっていたらパパが「ま、とにかく、これは怖いものからお前を守ってくれる物なんだよ。身近なところに付けてくれたら嬉しいな」って言った。
『身近なところ』……お気にいりのお出かけ用バッグとか、この前買ってもらったスマホのストラップとか、いろいろ思いついたけど、いっぱいなやんで、わたしはきめた。
学校からの帰り道、リン、リン、と歩くたびに背中の方から音がする。ランドセルにつけた『くまよけのすず』がなる音だ。クラスのいじわるな男の子たちはこの音を「うるせー!」って言ってきたけど、わたしは気にしない。わたしを守る音だって、パパが言ってた。だいじな音なんだもん。
リンリンと音をならしながら、わたしは歩く。音に守られて、ちょっとムテキになったようなきぶんだった。
5月の早朝。委員会の当番のためにいつもより早く家を出た私は、学校の最寄り駅の改札を出て、道を急いでいた。背負ったリュックのポケットからスマホを取り出して、時刻を確認する。当番の時間まで残り15分。駅から学校までもだいたい15分。要するにギリギリである。もう一本早い電車に乗ればよかったと後悔して、私はスマホをしまいながら、足を速めようとした。その時――
「あの!ハンカチ落としましたよ!」
後ろから声をかけられた。男の人の声だった。
私は立ち止まって振り返った。目に飛び込んできたのは、リボンを着けた白い猫のキャラクターがプリントされたハンカチと、目の覚めるような美男子の顔だった。目鼻立ちがはっきりとしていて、どのパーツも整っている。“イケメン”より“美男子”って呼び方が似合う感じだ。こんな素敵な男の人、初めて見た。
「あれ、あなたのハンカチで合ってますよね?」
美男子さん(仮称)が不安気に首をかしげる。
「あっ、そ、そうで、す。ど、ども」
元々男性慣れしていないのに加えて、絶世の美男子が相手だ。どうにも上手く言葉が出ず、ろくにお礼も言えない。
美男子さんは「それならよかった。はい」と私にハンカチを手渡すと、身を翻して、道の向こう側を歩いている男子高校生の一団へ戻っていった。離れてからよく見れば、彼は私と同じ学校の制服を着ていた。
私はしばらく歩いていく彼の背中をボーっと見つめていたが、時間がないことを思い出して、慌てて走り出した。
そんなことがあったのが、1ヶ月前。あれからずっとあの美男子さんにちゃんとお礼が言えていないことが引っかかっていた。あの日彼が拾ってくれたハンカチは、妹が小学校の宿泊学習のお土産にくれたもので、大切なものだったのだ。あの日、出掛けにハンカチを忘れそうになって慌ててリュックのポケットに入れたから、スマホを取り出す時に落ちてしまったのだろう。あのままなくしていたら、妹にも悪いし、私も酷く落ち込んだだろう。それを思うと、あの美男子さんにはもっとしっかりお礼がしたかった。
私は今日、あの日と同じ当番で、あの日と同じ時間に同じ道を歩いている。時間はギリギリになってしまうけど、もしかしたらこの時間この場所なら、彼にまた会えるかもしれない。彼の姿を頭の中で思い出しながら、周りを見回しつつ歩いた。
すると、道の向こう側に、5、6人の男子高校生が連れ立ってやってきた。その中に、彼の姿がある。
私は思わず立ち止まる。彼にお礼を言いたい。でも、もう一ヶ月も前のことだし、忘れられているかもしれない。そしたら、迷惑かもしれない。お礼を言って変な顔されたらと思うとこわい。頭の中に急にぐるぐるとネガティブが渦巻き始めて、彼へ向かう一歩を鈍らせる。
その時、私の背中側から、強い風が吹いた。
そしたら、風の吹いてきた方を見ようとしたのか、友人と話していた彼が不意にこちらを見た。彼は自分を見ている私を見て、目を見開く。そして、何かに気づいたような顔をしたかと思うと、ニコリと笑って、小さく会釈をしてくれた。私があの時ハンカチを拾った相手だって、わかってるみたい。
風がまた強く吹く。私はその追い風に背中を押されるように、彼の方へと駆け出していた。