明日は、職場内の昇進に関わる試験の日。ベッドの中、ついつい明日のことを考えて眠れず、ゴロゴロと頻繁に寝返りをうつ。
「緊張してるの?」
隣から、同じベッドで寝ている妻の声が聞こえてきた。
「うん。わるい、うるさいよな、ごめん。眠れなくてさ」
俺が情けなく返すと、
「いいのよ。昔から緊張しいだものね、あなた」
と言い、ふふっと笑った。俺はその微笑みに少し救われた気持ちになる。
「……ねえ、手、繋いで眠らない?」
妻が柔らかい声音で言う。
俺がどういうことかと顔を向けると、妻の優しい眼差しと目が合った。
「昔、あなたが、就活で不安がってた私の手、握って添い寝してくれたことあったじゃない?あれ、すごく安心したの。だから、どうかなって」
何年も前、俺たちが学生だった頃のことだ。確かに、そんなこともあったか。
「では、よろしくお願いします」
そう言って、俺は右手を差し出す。妻は、俺のかしこまった言い方をおかしそうに笑って、自分の左手を繋いでくれた。
2人で仰向けに寝て、目を閉じる。右手から妻の体温が伝わってきて、ゆっくりと全身に染み渡っていく。ゆっくりと、緊張が解けていくのがわかった。
「大丈夫だから、心配しないでゆっくり寝ましょ。
おやすみなさい」
妻が小声で言う。“大丈夫”。決して力強い言い方ではなかったけれど、妻にそう言われると、本当にそんな気がしてくるのだから不思議なものだ。
明日、大切でちょっと怖い試験があるという事実は変わらない。だけど、妻と一緒なら、その壁も越えていける。そう信じられる力を、この人は俺にくれるのだ。
「こういうとき、君と一緒になれてよかったなあって思うよ。ありがとう。おやすみ」
心から湧いてきた想いを素直に告げて、俺はやってきた睡魔に身を任せた。
コートやマフラーを纏って、玄関のドアを開ける。
とたんに、冷たい空気が肌を刺す。
それとは対照的に、降り注ぐ日差しは優しく暖かい。
見上げれば、鮮やかな夏の青とは違う、白を少し混ぜたような優しい空色が見える。雲ひとつない気持ちのいい晴れだ。
身体は寒さに縮こまってしまうけど、心はフワフワと弾んでいる。
綺麗な冬晴れ。お出かけ日和だ。
「はやく幸せになりたいなあ」
カフェで私の正面の席に座る友人は、そう言ってため息を吐いた。彼女は、最近彼氏にフラレたらしく、この台詞が口癖になりつつある。
「別に彼氏なんか居なくても、結婚なんかしなくても、幸せにはなれるじゃん」
どうも、この友人の中では『結婚=幸せ』であるらしい。それだけじゃないと、私は思うのだけど。
「でも、私にとって“幸せになる”ってことは“愛されて結婚する”ことなんだもん」
彼女は口をとがらせて抗議してくる。
この辺の考え方は永遠に相容れないかもしれない。
例えば、私にとって、彼女と喋っているこの時間も幸せの1つなのだけれど、彼女は私とのお喋りをそういうカテゴリに入れてくれてはいないだろう。少し寂しい気がするけれど、しょうがない。人それぞれ、幸せに対する価値観は違って当然なのだから。
どうか、彼女と同じように、結婚することを幸せになることだと捉えられて、一緒に幸せを追い求められる人が彼女の前に現れますように。
私は彼女の愚痴を聞きながら、密かにそう願った。
冬の早朝のホーム。私は一人、白い息を吐きながら、始発電車を待つ。周囲はまだ暗いが、遠くに見える山の稜線が少し白みはじめていた。
ポケットからスマホを取り出して、乗り換え案内を確認する。初めて行く場所へ、初めての一人きりでの遠出。胸の中では、不安とワクワクが入り混じっていた。
じっと待っていると、始発電車がやってきた。開くドアを待って乗りこんで、ひとり、ボックスシートに腰掛けた。右手の窓越しにホームから見えたのと同じ白んだ空が見える。
電車はゆっくりと走り出した。落ち着かない気持ちで窓の外を見ていると、やがて山の稜線が一層輝いて、眩しい日が顔を出した。日の出だ。がらんとして寂しい車内に、眩しい日差しが差し込んでくる。窓越しにもそれは暖かくて、私はなんだかホッとした。心をざわつかせていた不安の影は、朝焼けに照らされて消え去ったようだった。
少しの間、窓の外に見入っていた私は、慌ててスマホを取り出して、カメラを窓へ向けた。カメラアプリを起動して、目の前の景色を切り取る。
旅の始まり、一番最初の写真は、眩しく暖かい日の出の景色になった。
今年の抱負は、焦らず落ち着いて行動すること。
私はどうしてか、いつも焦って慌ててしまいがちだから。
子どもの頃に思い描いていた大人の私は、もっと落ち着いてかっこいい感じだったのになあ。
一生思い描いた自分にはなれないかもしれないけれど、少しでも近づけるように頑張りたいと思う。