私の会社の近くの小さな丘には、ススキが群生している。
夜、残業を終え、窓の外を見ると、その丘が見えた。
月は丸く明るく、丘を照らしている。月の光に照らされて風に揺れるススキは、夜の海のさざ波のようだった。
私は何となく目が離せなくて、しばらくそれを見ていた。
疲れた心が優しく風に撫でられるような錯覚があった。
会社を出て歩きながら、月とススキって秋っぽい組み合わせだな、と考えて、今日が中秋の名月の日だと思い出した。昨夜から今朝にかけて、その話題を何度も目にしたのに、すっかり忘れていた。どうりで月が丸くて明るいわけだよ、と独り納得する。
毎日仕事に追われて、そんなニュースも頭の隅に追いやって……。余裕のない日々を送っていたことを実感した。
今日はお団子を買って帰ろう。
そう決めて、私はコンビニへ歩いた。
「やっぱ私、君のそういうとこ好きだなー!」
そう言って屈託なく笑った君の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
君は多分、『友人として好き』とか『人間的に好き』とかそういう意味で言ったんだと思う。それはわかってる。ただ、君にそれ以上の『好き』を抱いている僕が、その笑顔に僕と同種の『好き』を期待してしまうことは、もうどうしようもないことなのだ。
あの笑顔が、僕だけのものになったらいいのになあ。
自分勝手な願いを抱いて、僕はベッドの中で目を閉じた。
まぶたの裏には、君の笑顔が浮かんでいた。
7月の天気雨の日、傘を持っていたにも関わらず、ささずに雨に濡れて帰った。
家に帰って、鞄も髪も制服も全部濡らした私を見て、母は目を見開いた。
「あんた、折りたたみ傘持ってなかったの?」
梅雨も終わりが近づいたとは言え、まだ急に雨が降ることもあるからと、私が折りたたみ傘を携帯するようにしているのを、母は知っている。当然の疑問だった。
「持ってたよ。でも、天気雨、綺麗だったから。濡れて帰りたくなって」
「あんたねえ、そんな意味のないことして。風邪引いたらどうするの」
私のセリフに、母は呆れ顔だ。
「とりあえず体拭いて、玄関上がって、さっさとお風呂入っちゃいなさい」
母は、タオルを差し出しながら、私を風呂場へ追い立てようとしてくる。
確かに傘もささずに雨の中駆け出したのは、傍から見たら意味がないことだったかもしれない。
でも、キラキラの天気雨の中を走るのは、最高に気持ち良かったのだ。結果的に、私にとっては意味があることになったのだと思う。
客観的に見たら意味がなくても、主観的に見たら意味がある。
もしかして、世の中に真に意味がないことなんて存在しないんじゃなかろうか。
そんなふうに哲学っぽく考えながら、私は、母からタオルを受け取って、身体に付いた雫を拭い、風呂場へと向かった。
あなたとわたしが初めて会ったとき、あなたは10歳、わたしは生後数ヶ月だった。好奇心たっぷりにソワソワと、小さなわたしから目が離せない様子で、あなたはわたしを見ていた。
あなたがわたしを『ムギ』と呼んだ。それがわたしの名前になった。
あなたと毎日行く散歩が、わたしはとにかく楽しみだった。同じ道だけど毎日少しずつ変わっていく景色の中を、あなたと並んで歩くのが大好きだった。1秒でも長く一緒に散歩していたくて、わたしはよくあなたを困らせた。
あなたとわたしは、おうちで一緒にうたた寝したこともあった。わたしのフワフワの毛が、あなたにはすごく心地良いみたいで、すりすりと頬ずりしてくるのが、擽ったくて心地良かった。
あなたとわたしは、公園で一緒に駆け回ったこともあった。あなたが投げたボールを、わたしが取って帰ると、あなたはたくさん撫でて褒めてくれたね。わたしを撫でるあなたの笑顔がキラキラしてて、わたしはそれがとっても嬉しかった。
15歳の頃、あなたは悩んで、よく泣いていたね。わたしはただ寄り添うことしかできなかったけど、それはあなたの力になったかな。なっていたらいいな。
あなたとわたしが出会ってもう13年が経った。あなたは大人になって、わたしはおばあちゃんになった。もうあの頃のように長く散歩したり駆け回ったりすることはできないけれど、あなたは変わらず愛情を注いでくれる。大好きなあなた。あとどれくらい一緒にいられるだろう。
わたしがいなくなっても、あなたの人生はきっと長く続いていく。泣いちゃう日もあるかもしれないけど、どうか笑顔の日がたくさんありますように。
「ムギ、ただいま」
わたしのいる部屋の扉を開けて、あなたが声をかけてくれる。わたしは顔を上げて、声の方を見た。あなたは、優しい笑顔でわたしを見ていた。
梅雨明け間近の7月半ば。昇降口から一歩出ようとした私は、日差しがあるのに肌に雫を感じて、驚き立ち止まった。天気雨――所謂“狐の嫁入り”だ。
サァサァと降る雨が、太陽の光に照らされてキラキラと宙を踊って落ちていく。
私はしばらく呆然として、その様を見ていた。
世界にたくさんのきらめきが溢れているようで、幻想的だと思った。
すぐ近くでバッと傘を開く音がして、私はやっと我に返った。
雨の降る様ではなくて周囲の人の様子へ視界を広げれば、普通に傘を差して歩く人、鞄を傘代わりに駆け抜ける人、昇降口を出ずに雨宿りをしている人など、いろいろだった。
私は、折り畳み傘を鞄から出そうとして、やめた。そして、傘をささずに昇降口から雨の中へ駆け出した。
急ぐわけでもなければ、もちろん傘がないわけでもない。こうする意味は特にない。それでも無性に、こうしたくなった。
鞄を傘代わりにして、最寄りのバス停まで駆ける。
宙をきらめく雨が、柔らかく私の身体を叩く。
自分まできらめきの一部になった感じがして、なんだかとっても心が弾んだ。