長い長い嵐だった。史上類を見ない大きさと強さで上陸した台風は、各地で土砂災害や河川の増水等の爪痕を刻みながら進み、今日やっと温帯低気圧に変わったという。
私の住む地方は直撃こそ免れたものの、連日激しい雨が降り続いていた。
私は自分の部屋のカーテンの隙間から窓の外の午前3時の空を見上げた。雨はまだパラパラと降っているようで、星なんて見えない。
私は引きこもりで、昼夜逆転した生活を送っている。いつものようにスマホを弄って夜を過ごし、朝になって朝食を食べたら床に就く。今日もそのはずだったのだが、何だか今夜は胸がざわついてしょうがなかった。星の見えない夜との付き合いだってこれまでもザラにあったのに。
自分はどうしてこんなことしてるんだろう。いつもは直視しないようにしている疑問が、頭に浮かんで離れない。特別大きな理由があったわけじゃない。言うなら、小さなストレスの積み重ね。それである日突然朝起きられなくなって、会社に行けなくなった。それから気づけば3ヶ月経っていた。
また現実逃避にスマホを覗き込む。小説サイトを巡って、ゲームをして、時間を潰す。そのルーティンが、一通のメッセージによって破られた。
『ハルちゃん、久しぶり!元気?』
最近は疎遠になっていた友人からだった。こんな時間にどうしたのだろう。いつもだったら未読スルーするそれに、今日は応えてみたくなった。
『身体はまだ元気だけど、心は調子悪いかも。仕事辞めちゃってさ』
この友人には、あまり弱音吐いたことがなかった。それなのに、自然と指が紡いでいた。
すぐに既読がつき、5分あまりの沈黙の後、通話がかかってきた。
私は突然のそれに驚き、通話をとるか否か数秒迷って、結局おそるおそる通話ボタンをタップした。
「ハルちゃん、久しぶり。急にごめんね。今大丈夫だった?」
彼女は思いの外柔らかい声でそう言った。私も「久しぶり。大丈夫」と応える。
「今夜、私、眠れなくてさ。何だか心がザワザワして寂しくて、スマホ見てたら、ハルちゃんの名前が目に入ったから。連絡したくなったの。
そしたら心の調子悪いって返信きて。声聞きたくなっちゃった。深いことは別に話さなくてもいいから、普通におしゃべりしようよ」
彼女はそう言って、本当に他愛もないことを話し始めた。私もそれに相槌を打ちながら、たまに自分から話した。思えば、他人と言葉を交わすのは、すごく久しぶりのことだった。
彼女との会話は楽しかった。ざわついていた心が落ち着いて、安らいだ。
通話は夜明けの時間にまで及んだ。
「ハルちゃん、眠い?ごめんね、長く付き合わせて」
彼女の心配そうな声で、自分がうとうとしていたことに気がついた。もう明け方とは言え、この時間に眠くなるのは久々だった。
彼女の声に大丈夫だと応えた。もうこんな時間なのかと時計を見ながら伸びをする。
「もうこんな時間なんだね。いつの間にか夜が明けて……あ!ハルちゃん、空見て!きれいだよ!」
彼女が言うので、カーテンの隙間から窓の外を見てみる。そして、息をのんだ。
朝焼けだ。雨が上がって、分厚い雲の間から、一筋、強い光が差していた。確かに綺麗だった。心が震えた。自分の中に鬱々と降り積もっていたものが、全て吹き飛ばされるような感覚があった。
「今日は通話してくれてありがとう。楽しかった。この空も、見られてよかった」
自然と彼女に感謝の言葉を伝えていた。彼女は笑って、「こちらこそだよ。ありがとう」と言ってくれた。
通話を終えて、私はずっと閉じていたカーテンを全開にして、窓も開け放った。雨上がりの湿った空気が部屋に入り込んでくる。それは、お世辞にも爽やかとは言い難いものだったけれど、それでも何だか気持ちよくて、私は身体を大きく広げて深呼吸した。
新しい朝のにおいがした。
教室の窓からは、一本の木が見える。何と言う種類の木なのかは知らないが、紅葉して、葉を綺麗に赤色に染めていた。
よく晴れた秋の昼。私は窓際の席で頬杖をつき、その葉が落ちていく様を眺めていた。
ひらり。ひらり。
舞い落ちる姿は美しくて、見ていて飽きなかった。
落ちた葉は、地面に赤い絨毯のように広がっていた。
次の日は、嵐だった。ぐわんぐわんと風が吹き、雨が窓にバタバタと打ち付けた。
あの木も風にあおられて、ボロボロと葉を散らしていた。
さらに次の日。前日の嵐が嘘のような秋晴れだった。
あの木は嵐でだいぶ葉を散らしてしまって、残った葉はもう数えるほどしかなかった。
赤い絨毯のようだった落ち葉も、嵐で吹き溜まり、ぐちゃぐちゃになっていて、もう見る影もなかった。
私は窓際の席で頬杖をつき、木をボーっと眺めていた。
一昨日と比べて、すっかり様変わりしてしまったその姿に、近づいてくる冬の気配を感じた。
哀愁を誘われて、私は小さくため息をついた。
数日前に亡くなったおばあちゃんの形見に貰ったドレッサー。経年により飴色に変わった木の色は、温かみを感じさせる。たくさんの引き出しがついた机の上に、木に縁取られた大きな丸い鏡が鎮座している形だ。昔におばあちゃんが使っているのを見て、憧れていたものだった。
お葬式やらいろいろと終わって、今日から仕事に復帰した。
疲れ切って帰ってきた夜、私は何の気なしにそのドレッサーの鏡を覗き込んだ。当然疲れた私の顔が映るだけ、のはずだったのだが。
「なっちゃん、お疲れさま。大丈夫かい?」
鏡の中の私が、私を呼んで、微笑みかけてきた。
声は耳から入ってくるのではなく、頭の中に響く感じで私の声に聞こえた。
目と耳を疑った。気のせいかと思って、1回天井へ視線を外してから、もう一度鏡へ戻した。
「なっちゃん、無理してないかい?」
鏡の中の私はまた喋った。幻覚だろうか。
私は眉を顰めた。確かに疲れてるけど、幻覚を見るほどだった?
不思議なのは、私の顔で私の声なのに、何だかすごく懐かしさを感じたこと。微笑み方が、口調が、おばあちゃんに似ている気がして。おばあちゃん家に遊びに行くと、こうして話を聴いてくれたことを思い出した。
「おばあちゃん?」
私は鏡の中に語りかけた。鏡の中の私(?)はただ微笑みを深くしただけだった。
それが、おばあちゃんの微笑みに本当にそっくりで。
「疲れたよ。おばあちゃんいなくなっちゃって悲しいし寂しいしつらいのに、仕事頑張らなきゃいけなくてきつかったよ」
思わず、本音が口から溢れた。
鏡の虚像は、微笑んで「うん、うん」と話を聞いてくれる。
涙も溢れて止まらなくなって、私は鏡に向かって話しながら、子どものようにわんわん泣いた。
その日から、私は、毎日仕事から帰るとその日あったことを鏡の虚像に話すようになった。完全におばあちゃんに話している気分だった。最初の頃は毎日泣きながら話した。こんなのおかしい、やめるべきだ、そう思ってもやめられなかった。
私、本当はおばあちゃんともっともっといっぱい話したかったんだなあ。一週間くらい経った頃、やっとそう気づいた。
「あのね、今日はね――」
おばあちゃんの四十九日の前夜。その夜も私は鏡に話していた。虚像は相変わらず微笑んで、「うんうん」「よかったねえ」「大変だったねえ」と相槌を打ってくれた。
だいたい話し終えた頃。
「今日も聴いてくれてありがとう」
いつものように私はそう言った。いつも「また明日もきかせてね」と微笑んで、ただの鏡に戻るのに、今日はそうじゃなかった。
「なっちゃん、最近よく笑うようになったねえ。もう大丈夫だねえ」
虚像は、少し寂しそうに微笑んでそう言った。私はぎょっとした。
「な、何のこと?いつもみたいに『また明日』って言ってよ」
声が震えた。虚像は静かに首を横に振る。
「なっちゃん、なっちゃんはもう大丈夫なんだよ」
優しい微笑みだった。『また明日』はもうないんだと私は悟ってしまった。
「やだやだやだ、いかないで。ずっとここにいて」
涙と駄々をこねる言葉が出てしまう。胸がぎゅうっと締めつけられる思いだった。虚像は困ったように首を横に振るばかりだった。
ひとしきり駄々をこねた後、私は乱暴に涙を拭った。意を決して、鏡に向き直る。
「わがまま言ってごめんなさい。ありがとう。もう大丈夫」
私は、少し無理をして笑ってみせた。虚像は深く微笑んで、一筋涙を流したかと思うと、ただの鏡に戻ってしまった。もう、泣き腫らした顔の私がただ映るだけだった。
それから、鏡は本当にただの鏡になって、もう話すことはできなくなった。
それでも私は、夜に鏡を覗き込んでいる。
そして、「私は大丈夫」と口に出して、鏡に向かって笑うのだ。
同じく笑う鏡の中の自分を見て、明日への勇気を湧かせるために。
人生の合格点って何点だろう。
毎日毎日、眠りにつく前に、今日は何点ぐらいの日だったかなって考える。
100点満点の日もないけれど、0点の日もない。
平均したらたぶん60点くらい。
他人と比べたことがないから、これが高いのか低いのか、よくわからない。
少なくとも今の私には、この点数くらいでちょうどいい。
人生の終わり、眠りにつく前に、私は人生に何点をつけるだろう。
たぶん100点満点ではないけれど、きっと0点でもないはずだ。
まあまあだな。合格点だな。
最期にそう思えたら、とても幸せだろうなあ。
貴方の心に永遠に残るにはどうしたらいいか、ずっと考えてたの。
「九条、何してんだ!早まるな!こっち来い!」
せんせいが必死でこちらに叫んでる。
ここは、せんせいの住むマンションの屋上。私はその柵の外に立っている。8階建ての屋上から足元を見れば、ずーっと下に地上が見える。
「ああ、くそっ、こういうときは110か!?119か!?わかんねえ!」
せんせいが1人で、スマホを片手に慌てふためいている。
「あら、だめよ。“先生”なら、生徒1人くらい自分で止めてみせて。」
私がそう言うと、せんせいは酷く困惑した表情になった。
すごく愉快だ。
私とせんせいは、高校の生徒と教師だ。1年生の途中から周りに内緒でお付き合いをしている。
アプローチはせんせいから。1年生の私は、大人の男の人にそういう目で見られたことに戸惑ったけれど、嬉しくて、教師と生徒の恋という禁断の関係に心惹かれて、せんせいとお付き合いをはじめた。
学校では内緒の目配せをするだけで、私達のお付き合いはせんせいの家でだいたい完結していた。
せんせいの休みの度にこのマンションを訪れた。たくさん愛の言葉を囁きあった。たくさん抱き合った。最初は軽い気持ちだったのに、いつからか、この関係が永遠に続けばいいのにって思っていた。
でも、長く過ごすうちに分かってきたことがあって。せんせいは、“生徒”の私に価値を感じていること。卒業したら、私はきっと捨てられて、忘れ去られて、次の“生徒”に手を出すんだってこと。
私はもう3年生で、卒業も目前に見えてきた。もうすぐせんせいに捨てられる。せんせいに忘れられる。そんなの耐えられないから。
「せんせい、私の気持ち、舐めてたでしょう?」
私はせんせいへ笑った。せんせいはまだ訳が分かってないみたい。
「おい、九条、本当にどうしちゃったんだよ。頼むから、こんな悪ふざけやめてくれ。俺に何か悪いところがあったんなら直すから」
せんせいが懇願してくる。万が一が怖いのか、私に触れてくることはない。
『悪いところがあったら直す』なんて、よく言うわ。
でも私は、こんな人でも、好きで好きでしょうがないの。
「せんせい、大好きよ。愛してる」
告げて、マンションの縁から足を離し、空中へ飛び出した。せんせいが必死で私の方へ手を伸ばしているのが見えたけれど、それも間に合わない。
絶望的な表情のせんせいの顔が、さいごに見えた。
これで、貴方の一生消えない傷になれたかしら。
ねえ、永遠に私を忘れないでいて、せんせい。