駅の改札口。時刻は午前10時55分。待ち合わせ時間まであと5分というところ、待ち合わせ相手のルークさんからメッセージが入った。
『ハクさん、すみません。電車が遅れてて、30分くらい遅れます……!』
遅刻の連絡だった。電光掲示板にルークさんの使うはずの路線の遅延情報が出ていたので、もしかしてと思っていた。
『了解です。そしたら、西口のドニーズに入ってますね。』
元々食事をする予定だったファミレスに入っている旨を返信して、そこへ向かう。
入店して、店員に座席に案内された。
『席座れました。入ってきて右側の窓際、入り口から数えて3番目の席です。』
またルークさんに連絡を入れて、窓際の席に腰を落ち着けた。
ルークさんとは、SNSで知り合った。知り合ってもう2年になる。お互いに本名は知らない。同じゲームが好きで、オンラインでやり取りしているうちに仲良くなった。今回は、そのゲームのリアルイベントが開催されるので、一緒に行こうと言う話になり、その前日の今日、初めて会うことになったのである。
テーブルに備え付けのタブレッドでとりあえずドリンクバーを頼み、何となくメニューを見て時間を潰す。ページをスワイプしていたら、“昭和レトロメニュー”が出てきた。昔ながらのオムライスやハンバーグ、プリン、メロンソーダなどなど、ノスタルジーを感じさせるものが並んでいる。オムライスが特に美味しそうだったので、お昼はこれに決めた。
“昭和レトロメニュー”を見ていると、これをタブレットで見ているのが、なんだか不思議な気がしてくる。時代の変化が目の前にあるような。
もしも昭和だったら、きっとこんな気楽に待ち合わせできなかっただろうと、ふと思った。かつては、移動中不測の事態があって遅刻しそうなときや、急に具合が悪くなって行けなくなったとき、連絡手段がなかったんじゃないだろうか。それで、待っていられず帰ってしまったり、単にすっぽかされたんだと怒って帰ってしまったりして、すれ違いが起こったんじゃないだろうか。
そもそも、ルークさんとこうして会うこともなかったかも、と思い至る。ネットも無かった時代だ。同じものが好きでも、お互いを知ることはなかったかもしれない。リアルイベントが開催されても、ただ会場ですれ違うだけで終わったかもしれない。
そう考えると、今日会えるのって、奇跡だなあ。
そんなふうに思いを巡らせていたとき、少し慌ただしい足取りで1人の女性が近づいてきた。私の座る向かいにきて、口を開く。
「ハクさん、ですか?」
「そうです!ルークさんですよね。一応初めましてですね」
「ええ、初めまして。ほんと遅れてすみません……!」
その女性――ルークさんは、頭を下げて申し訳なさそうにしている。
「いえいえ、大丈夫ですよ。おかげでちょっとした奇跡に気づけたので」
ルークさんにメニューのタブレットを差し出しながら、私は笑って返した。
10月。晴天。
私は友人のリコと2人、母校の中学校を訪れていた。
今日は運動会。リコの弟のショウタが出ているので、その観戦に来たのだ。
「まもなく保護者の方による綱引きが開始されます。参加をご希望の保護者の方は、グランド中央付近にお急ぎください」
平坦な声でアナウンスがかかった。
途端に、リコに腕を引っ張られる。
「ほら、アオイ!行くわよ!」
「えー、私も参加すんの?運動不足の大学生に綱引きはきついって」
最近すっかり運動しておらず体力ゲージが短い私としては、なるべく参加したくはなかった。
「何言ってんの。あんたも参加すんのよ。参加賞も出るわよ」
「参加賞?何?」
「学校名入りフェイスタオル」
「え、要らない……。リコだけ参加してきなよ。私ここで見てるし」
「まあまあそう言わず!あんたが出たらショウタも喜ぶわよ!」
「え、そう……?ならしょうがない、出るわ」
リコの言葉に負けて、腕を引かれるまま、グラウンドの中央付近へ歩いた。長い綱がまっすぐに伸ばされて置かれている。ショウタは紅組なので、私たちも紅組の側に立った。
ふと、紅組の生徒応援席を見ると、ショウタがこちらを見ていた。目が合った途端、そらされる。
リコと私は中学からの付き合いで、ショウタのことも小さい頃からよく知っている。私にとっても弟みたいな存在だ。昔は家に遊びに行けば「アオちゃん!あそんで!」とよく甘えてきたのに、最近は目も合わさず軽く頭だけ下げて、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまうようになった。今、ショウタは思春期というやつなのだと思う。それを私は少し寂しく思っていた。
体育教師の合図で、みんなが綱を握る。
明日筋肉痛になってもやだし、テキトーにやればいいか、と思いながら、私も綱を握った。
ピーッという笛の音とともに、競技が始まる。
「オーエス!オーエス!」
周囲から掛け声が上がる。え、そんなにガチでやるの、と思った。
応援席からも、親や兄弟姉妹を応援する声が聞こえてくる。こっちも一所懸命だ。
えー、私もガチになんなきゃだめかな、なんて、考えていたとき。
「リコ姉、アオちゃん、頑張れーーー!!!」
ショウタの声だった。ちらりと視線をやれば、顔を真っ赤にして声を張り上げる姿が見えた。
なんだよ。こういうときは一所懸命になって応援してくれるのか。可愛いとこあるな。
そう思ったら、つい、綱を持つ手に力が入った。腰を低くして、後ろに体重をかけて、思いきり綱を引いた。
周りと一緒に「オーエス!オーエス!」と叫ぶ。
いつの間にか、明日の筋肉痛のことなんか頭から飛んでいた。
ピピーッと終了の笛が鳴った。
「紅組の勝利です!」と体育教師が言った。
自然と拍手が起こる。
隣でリコがガッツポーズをしている。
他の大人たちも、ハイタッチしたり、お疲れ様と言い合ったり、それぞれに感情を分かちあっていた。
私は、ショウタの方を見た。ショウタもこちらを見ていた。どちらともなく、親指をグッと立て合う。私たちは、笑い合った。
いつの間にかかいていた汗を拭い、空を仰ぐ。空は高く、気持ちよく晴れ渡っていた。
薄く雲のはいた青空が綺麗だったあの日。君が死んだ。
私は君のお母さんに連絡をもらって、病院へ駆けつけた。君は既に息をしてなくて、驚くほど穏やかな顔で、眠るようにそこにいた。頬に触れたら冷たくて、私はただ震えることしかできなかった。
私と君は、同じ学校で、一番の仲良しで、楽しいこともつらいことも何でも分かち合ってきた。
その日だって、一緒に映画に行って、カフェで感想を言い合って、学校や家族の話で盛り上がって、「また明日ね」って笑って手を振った。そのあと、君は事故に遭ったのだという。
もし映画に行かなかったら。あともう少し一緒にいたら。君はまだ生きていたんだろうか。
君との明日が来ないなんて、信じられなかった。信じたくなかった。
数日後、君は煙になって天に昇った。
学校に君がいない。呼んでも返事がない。LINEをしても、既読もつかない。君の声がどんどん思い出せなくなる。じわりじわりと、君のいない日常が私を侵食していく。
君を喪った心の穴は大きくて、埋められなくて、苦しい。苦しすぎて、いっそ、君との日々を忘れてしまいたくなる。
でも、どんなに泣いて、忘れられたら楽なのにと願っても、「また明日ね」って言った君の笑顔が、頭から離れない。
もう『明日』は過ぎてしまったよ。
ねえ、もう一度、隣で笑ってよ。
いつかきっと、この喪失感にも慣れて、君のいない日常が当たり前になる日がくる。
それまでは、忘れられない君の笑顔と、この苦しみを胸に抱いて、私はひとり生きていく。
15のとき、10歳年上の姉に赤ちゃんが生まれた。
暖かな日が差す春の始まりに生まれたその子は、ヒナタと名づけられた。
わたしは、その年のお盆、姉家族が帰省してきたとき、ヒナタと初めて対面した。
姉に抱っこされて車から降りてきたヒナタをおっかなびっくり覗き込んだら、黒目がちな瞳にじーっと見つめられた。わたしはどうしたらいいのかわからなくて、手を振って、とりあえず挨拶をしてみる。
「はじめまして、ヒナタちゃん。きみのお母さんの妹のエミです。よろしくね」
ただ見つめ返されるだけで、反応はなかった。
「ふふ。ふたりとも緊張してておもしろい」
姉が微笑む。
わたしは確かに緊張していた。だって、こんなに小さい子と関わったことなんてないのだもの。
わたしは振ってた手を引っ込めて、ヒナタから離れた。
そんな緊張の初対面を終えたわたしは、それ以降、四六時中、ヒナタが気になって、何かと構いに行った。
次第にきちんと反応してくれるようになって、一緒に遊べるようにもなった。わたしに慣れてきてくれたのかと思うと嬉しかった。
わたしもヒナタもお互いに慣れてきた頃。
「抱っこしてみる?」
姉が言ってくれた。実はずっと抱っこしてみたかったわたしは、うんうん頷いた。姉にやり方をきく。
そうしてわたしは初めて、ヒナタを抱っこした。
思ったより重い。それに、あったかい。胸にじーんとくるものがあった。
「ヒナタ、」
呼びかけてみる。ヒナタは笑って、手足を動かした。
細められた目に、やわらかな光がキラキラ輝いている。
『子宝』なんて言葉があるけれど、確かにこれは宝物だと思った。
この光が、どうかずっと失われませんように。
ヒナタを胸に抱きながら、わたしは祈った。
「人は死んだらどうなると思う?」
予備校の帰り、人気のない路地で、突然きみが立ち止まり、問いかけてくる。
「え、どうなるって……天国に行くんじゃないの?」
唐突な問いに面食らいながら、立ち止まりわたしは答えた。
きみの問いは続く。
「じゃあ、天国ってどこにあると思う?」
「うーん、雲の上……とかかなあ?」
わたしが答える。
「でも、雲の上に天国を見つけた人は誰もいないよ。飛行機とかロケットとか、雲の上を見る手段はいくらでもあるのに」
「た、たしかに。じゃ、どこだろ……?」
わたしはすっかり困ってしまった。
「人はなんで、実在を証明できないものを希望にできるんだろう」
きみが空を見上げて問う。わたしにじゃなく、世界に問うているような響きだった。
「私は、今生きてるこの場所に希望を見て、生きていきたい」
きみが雲の奥を睨んで言った。ひどく鋭い眼差しだった。まるで、世界へ宣戦布告しているようだ。
きみに何があってこんな話になったのか、わたしにはわからない。でも、きっと今この瞬間、これを声にして世界に放つことが、きみにとってすごく重要なことだったことは、何となくわかった。
わたしは静かに頷き、同じように空を見上げてみる。
そこには、灰色の雲が広がっているだけだった。